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胡桃の中の蜃気楼 作者:萩尾滋

第二章

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  廃墟の城跡7

 ハックシュン、ハックシュン、
 学寮を出るなり、飛鳥は縦続けてくしゃみをして身震いをした。
 イギリスの10月は、日本では12月並の気温だ。カッターシャツとウエストコートのみでは、さすがに寒い。
「これを着ているといい。アジア人はすぐ風邪をひく。」
 ヘンリーが自分のガウンを脱いで肩にかけてくれた。
「ありがとう。それから、あの、他にもいろいろ助けてくれてありがとう。」
 飛鳥は、長身のヘンリーを見上げてお礼を言う。
 寮監にも、飛鳥がまごまごしている間に、自分が飛鳥の制服を駄目にしたので注文しに行きたい、と事を荒立てずに事情を話し、外出許可をもらってくれた。
「いつからだ? いつから嫌がらせされているんだ? 」
「さぁ、いちいち覚えてないよ。」
 そのことには触れられたくないふうに、飛鳥は目を逸らした。
 二人ともそれ以上は口を開くこともなく、回廊を渡り、学校の門を出た。

 僕のせいだ。
ヘンリーは臍を噛む思いで唇を引き締めた。
 みんな、同室の僕が飛鳥にどういう態度を取るか、ずっと見ていたんだ。そして、飛鳥を排除することに決めた。
 ただでさえ、多額の寄付金か、ずば抜けた成績で入学してくる留学生への風当たりはきつかった。留学生枠が増える分、国内の競争率は高くなる。全体数が増えるわけではないのだ。ここで上手くやっていきたいのなら、それなりの能力を見せつけて黙らせなければならない。
 この一カ月の飛鳥の様子を見ていて、自分ですらあきれ果てたのだから、周囲が同じように考えても不思議はなかった。
『何が違うの? 』
 サラの言葉が脳裏に蘇る。
 飛鳥に期待する余りに、自分と同等であることを無意識に求めていた。
 僕は、僕の期待に添わない飛鳥を冷淡に扱い、周囲はそれに倣った。
 学内ヒエラルキーの中で生活している以上、想像できることだったのに!
 無関心は差別を助長する。
 特権を持つ立場であり続けるなら、それを持たない者への義務によって釣り合いを保たなければならない。
 僕は、その義務を怠ったんだ!


 学校指定のテイラーで飛鳥が採寸している間も、ヘンリーは難しい顔をして物思いにふけっていた。
 採寸が終わると、飛鳥は、髪を切りに行く、というのでそこで分かれることにした。
 まだ、スカッシュの練習に間に合うな。
 ヘンリーは、抑えようのない自己嫌悪をスポーツにぶつける事に決め、早足で学校へ戻って行った。


 飛鳥は部屋に戻ると、ヘンリーのガウンを壁にかけ、ベッドに倒れ込んだ。
「疲れた……。」
 日々の、神経を張り巡らせての生活のせいで、一人になるといっきに気が緩み、安堵感が眠気となって襲ってくる。
 目を閉じると、速攻で眠りに落ちていった。


 スポーツホールから直接食堂に行き、飛鳥がいないことを確認したヘンリーは、そのまま踵を返し寮の部屋に急ぎ足で戻ってきた。
 また寝ている……。
 ヘンリーのイラつきがぶり返してくる。
「起きろ、夕食の時間だ! 」
「うん? 」
「トヅキ。」
 ヘンリーは、低い凄みを利かせた声で飛鳥の名前を呼んだ。
 飛鳥は悪寒を感じて飛び起きる。
「あ、おはよう、ヘンリー。」
 寝ぼけてとんちんかんなことを言ってしまい、首を傾げた。
「夕食だ。行くぞ。」
 ヘンリーは眉間に皺を寄せたまま飛鳥を促した。
「僕はいいよ。お腹が空いていないし。」
「今日行かないと、あいつらに舐められる。」
「気にしないよ。行ったからって、何も変わらない。」
「変わるさ。あんなことは、二度とさせない。」
 ヘンリーはクローゼットから予備の制服を取り出し、飛鳥に差し出した。
「制服が出来上がるまで、これを着ているといい。」
「サイズが違いすぎるよ。」
「袖を折ればいい。」
 以前ヘンリーに直してもらった制服とは段違いに大きさが違う。軽く20cmは身長差があるのだ。袖を折るくらいではどうにもならない。

「それを着て、きみの子分になれって? 」
 ヘンリーは口を結んで飛鳥を睨み付けた。
 飛鳥は、以前と大して変わらない、長すぎる前髪を癖のようにかき上げて、ひるむことなくヘンリーの瞳を見返す。
「きみが、僕の盾になってくれようとしているのには、感謝している。きみは僕のことが好きじゃないのに。食堂で僕を助けてくれたのも、僕のためじゃない。きみは単に、ああいう行為が嫌いなんだ。
 でも、これ以上はもういいよ。僕がきみの制服を借りたら、みんな、きみと僕が親しい間柄なんだって誤解するだろう?」
「それの何がいけないんだ? 」
 皆がそう思い込めば、飛鳥に嫌がらせする奴はいなくなる。なのに、何故、断る?
 ヘンリーは訝かし気に飛鳥を見つめた。

「友達のフリはできない。」
「…………。」
 ヘンリーは、確かに飛鳥に好意を持ってはいなかった。だが、自分が飛鳥にどう思われているかは、考えたこともなかった。こうもキッパリと拒絶されるとは……。余りの衝撃に、ヘンリーは目を見張ったまま茫然として、黙り込んだ。
 ヘンリーの反応に、飛鳥は困ったように首を傾け、無理に笑顔を作った。
「食堂でのきみの態度で、もうあんな事をするやつはいなくなるよ、きっと。ヘンリー・ソールスベリーは、いじめや差別が嫌いだ、て、ちゃんとみんなに伝わったよ。それが、ノブレス・オブリージュってやつ? 」
 飛鳥は少し淋しそうに笑いながら続けて言った。
「義務とは別に、きみには、僕のことを嫌う権利もあるんだ。だから、必要以上の義務を背負うことはないよ。もう、カタは付いている。嫌いな僕を気遣ってくれて、ありがとう、ヘンリー。」
 自分を嫌う相手と、友達のフリはできない。そういう事か?
 それがこいつのプライドなのか?
 今まで歯牙にもかけなかった相手に自分の胸の内を見透かされ、必要ないと拒絶され、あまつさえ礼を言われるとは!
 僕は今まで、こいつの何を見て来たんだ?

「制服代も、ちゃんと返すから。今すぐには無理だけれど。えっと、卒業くらいまでには? 」
「必要ない。」
「そうはいかないよ。理由がないもの。」
「なら、きみの持っている特許の使用権を許可してくれ。」
ふと、脳裏に浮かんだエドワードの言葉を思い出し、何気なく口からついて出た提案に、飛鳥は、少し驚いた様子で一瞬迷い、そしてすぐに、真剣な表情で返答した。
「いいよ。そんなことでいいなら。」
「馬鹿か、きみは! そんな大事なことに即答するな! 」
 どうやったって、こいつだけは僕には理解できないかもしれない……。
 ヘンリーは、驚愕してまじまじと飛鳥を見つめた。
「きみだって、特許の内容を知らずに言っているじゃないか! あの特許は、理論だけで、実用化には程遠いんだ。画像は見えるけれどぼやけていて商品にはならない。誰かがあれを使って製品に仕上げることができるんだったら、こっちからお願いしたいくらいだよ。」
 飛鳥は、目に怒気を含ませて、ひと息にしゃべった。

  僕は、あの嫌がらせ以上に、こいつの矜持を傷つけたのか?

 ヘンリーは飛鳥の燃え立つようなダークブラウンの瞳を、美しいと、初めて感じて目が離せなかった。
「なら、僕がきみの特許を買う。たかだか800ポンドの制服代で売ったことを後悔するといい。」

 虚勢を張ってそう口にする事が、今のヘンリーにできる精一杯の返答だった。


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