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胡桃の中の蜃気楼 作者:萩尾滋

第二章

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  廃墟の城跡4

 「きみたちにとって音楽とは、何だね?」
 世界的に有名なイタリアの名ヴァイオリニスト、フェデリコ・ヴィオッティを特別講師に迎えての、第一回目授業の冒頭での問いである。
「なくてはならないものです。」
「僕の夢です。」
「情熱です。」
 10名の音楽スカラーが一人ひとり答えていくのを、70歳を超える老ヴァイオリニストはニコニコと笑顔で頷きながら聞いている。
「きみは、ソールスベリー?」
 最後に残ったヘンリーに番が回ってきた。
「僕の言葉です。」
 ヴィオッティは、目を細めて、フォツ、フォツ、フォツ、と大笑いした。



「ひとつ、きみの言葉で語ってくれるかの? 」
 授業が終わった後、ヴィオッティに呼び止められ、ヘンリーは一人、教室に残された。

 ヘンリーは、ヴァイオリンを構え、奏で始める。
『ラ・カンパネラ』、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番第3楽章だ。
 曲が終わると、ヴィオッティはその大きな手でパンッ、パンッ、パンッ、と拍手をし、楽しそうに笑い、
「珠玉の音の連なり。きみのその言葉は、セレナーデだな。そして、常に楽譜に正確だ。」
 と、茶目っ気たっぷりな表情で評した。
「正しい文法と正確な発音でないと通じないんです。」
 と、ヘンリーは、少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「それはまた、厄介なミューズだ。」
 ヘンリーは、嬉しそうに微笑んだ。

 サラとのコミュニケーションは、初めの頃よりはずっと楽になった。だがサラは、表情を読んだり、細やかな心情を汲み取ることが苦手だ。ヘンリーが気持ちや、感情を判って欲しいときには、言葉で言うよりも、ヴァイオリンを弾く方がずっと早かった。サラはその音色の色彩を視、温度を感じてヘンリーを理解してくれる。
 今まで好き勝手に評されてきたが、ヴィオッティの的を射た批評に初めて自分が理解されたような気がした。

「きみが愛を語る相手は、そのたった一人のミューズなのかな? 」
 ヘンリーは頷いた。
 ヴィオッティは、指を組み合わせると目を瞑り、しばらく瞑想する。
「きみのミューズ以外にも語り掛け、会話したいとは思わんかね? 聴衆は、ミューズに嫉妬し、羨望し、自分がそのただ一人でありたいと想いを募らせるばかりだ。 」
「彼女以外に語りたい言葉を、僕は持っていません。」
 ヘンリーは目を伏せ、きっぱりと言い切った。
「それはまた、情熱的な想いだな。だが恋じゃない。きみの音は、ストイックで情愛に溢れているが、官能がない。」
 ヴィオッティは、その瞳で優しく包み込むようにヘンリーを見つめた。
「きみはまだ若い。もっと世界を広げてみなさい。楽しみなさい。まずは、この年寄りと会話してみんかね?」
 ヴィオッティは、自身のヴァイオリンをケースから出し、そのボディを慈しむように撫でた。
「バッハは、付いて来られるかな? 」
 と、2つのヴァイオリンのための協奏曲のさわりのパートを弾いてみせる。
「はい。」
 ヴィオッティに続き、ヘンリーも自分のヴァイオリンを構える。

 教室の外では、音楽スカラー達が耳をそばだて、固唾を飲んで成行きを見守っている。

 演奏が終わった時、ヴィオッティは一言、
「恋をしなさい。ソールスベリー。」
 と言い、ヘンリーは、ただ、笑顔で返礼した。



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