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胡桃の中の蜃気楼 作者:萩尾滋

第七章

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  矜持7

「デヴィッド卿は、ラテン世界が嫌いだと思っていたのに、そうでもないのかなぁ」
 前を行くデヴィッドとロレンツォの背を不思議そうに目で追いながら、アレンは吉野に疑問を呈した。二人は、先程からずっと、明日からのフェレンツェでの観光日程をどうするか、口角泡を飛ばしながら話し合っているのだ。見に行けるのなら順番なんて、と思うアレンには、何をそう言い争うまでになるのかが、今ひとつ理解できずにいる。
「ああ、あいつ、ぼろかすに言っていたもんな。相当好きなんだろうな」
 吉野の目が笑う。
「英国人だぞ。素直に好きなんて言う訳ないじゃん。あれは、悪口言える程、良く知っているって意味だよ。お前、そのまんまで受け取っていたの? ほんと、単純」
 右横にいる吉野の顔をちらと見て、アレンは口を尖らせた。

 こっち側で良かった……。今、彼は、絶対に右唇の端を持ち上げて、僕の事を笑っている!

「ほら、ここがドゥオーモ広場。大聖堂(ドゥオーモ)だろ、ジョットの鐘楼、それから洗礼堂」
 ロレンツォが振り返って、一つ一つの建築物を指さして説明してくれている。白を基調として、緑、ピンクの大理石が幾何学模様で飾られ、赤褐色の丸屋根の載った複雑な美しさに、アレンは足を止め、さっきまでの膨れっ面を忘れ、感嘆の声を上げている。
「観光は後からだぞ! 俺の家はすぐそこだから!」
 と、ロレンツォ大きく腕を降って手招きし、大聖堂脇の道を横に曲がる。そのままずんずんと進んでしばらくすると、レモン色の外壁の建物の前で足を止めた。

 呼び鈴を押し、すぐに開かれたドアの内側は、外観からは想像もつかない程広い玄関ホールだった。
 アラベスク模様の施された大理石の床から見上げる大階段には、真紅の絨毯が敷かれ、中央の踊り場には大きな聖ゲオルギオスの絵が飾られている。
 立ちすくむ清楚な姫の足元にはゲオルギオスによって退治された龍の屍が横たわり、ゲオルギオスは、姫の足下に跪きその手を取っている。余りお目にかかることのない構図だ。大抵は、龍に槍を突き立てるゲオルギオスと、怯える姫、が一般的な図なのだが。

 ホールに一歩足を踏み入れるなり、飛び込んできたその印象的な絵に、英国から来た客人三人は、押し黙ったままだった。
 アレンは、その美しさにため息をつき、デヴィッドは、口を引きつらせたまま固まってしまっているし、吉野は、何故かずっと顔を伏せたままだった。
 ロレンツォだけが、賑やかに、てきぱきと執事に指示を出している。

「駄目だ……。俺、もう、笑い死にしそう」
 吉野が必死に口元を押さえ、肩を震わせ、声を殺して笑っている。
「きみがそうして元気に生きているってことは、彼、ここに来たことはないんだねぇ?」
 デヴィッドの冷え冷えとした声がロレンツォに投げつけられる。
「別に俺はあいつに見られたって平気だぞ。忠誠の証だろ?」
 平然と、むしろ自慢げに言ってのけたロレンツォに、吉野は堪えきれずに声を立てて笑いだした。

「あんたたちの関係、ずっと不思議だったんだけどさ、これが原因だったんだな!」
 むせ返りながら笑いを収め、
「おい、やっぱりルベリーニ一族との関係は解消しよう。末代までの恥を晒されることになるぞ」
 吉野は、きょとんとしているアレンの肩を組む。
「お前も、必死に逃げ回ったってのになぁ」
「え?」
 その言葉にやっとアレンは思い当たり、しげしげと絵の中の姫を見つめた。

 紅い薔薇の花冠を頂いた長く豊かな金の髪、純白の古風なドレス、青紫の瞳……。

「まさか、聖ジョージの日の……」

 自分も、米国に戻っていた二学年生の時を除いて、このイベントの姫役に、と言われたことがあった。そのどちらも、当時の寮長が上手くやってくれて、何とか断ることができた。でも、まさか、あの兄に限って……。

 アレンは、怖々とすぐ横にある吉野の顔を振り返る。さも可笑しそうな笑いを含んだその瞳を見て、きゅっと眉根を寄せると、ロレンツォに向かって怒気を含んだ声音で言い放った。

「捨ててください、今すぐに!」
「うわぁ! 相変わらず過激だな、お前は!」
 吉野は完全に、この状態を楽しんでいる。
「お前にどうこう言われる筋合いじゃない」
 ロレンツォは至って冷静に、だが威圧を掛けて答えた。
「兄が見て喜ぶはずがないものを、見過ごしにはできません!」

 いつもはぼんやりと、そして、どこかおどおどとしているのに、他人と接する時には、途端に氷の様に冷ややかになるアレンの自分に向けられた瞳に、ロレンツォは驚きの余り目を見張った。

 ヘンリーと同じ瞳。燃え上がる空の色。

 この滅多に垣間見ることの出来ない内面の激しさは、ヘンリーと同じ……。

 ロレンツォは、ふっと華やかに相好を崩した。
「分かった。すぐに取り外させよう。お前たちは、俺の客人だからな。ここでの滞在が良いものになるように、できる限り要望は聞き入れてやる」
 その言葉に、デヴィッドがピュー、と口笛を鳴らす。
「天下のルベリーニが折れるなんてね!」
「お前なぁ、ひとが折角、」
「それじゃあさぁ、やっぱりウフィツィ美術館の前に、サン・マルコ美術館とアカデミア美術館を入れてぇ、」
「だからそれじゃ、ウフィツィを見学する時間が少なすぎるだろ! わっからない奴だな、全く!」

 大声で、再びキャンキャンと言い争いを始めた二人に、
「なぁ、ロニー、俺、腹が減った」
 もうこれ以上動けない、とばかりにアレンの両肩に腕を回してのしかかりながら、吉野は、さも哀れっぽい声音で告げた。




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