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胡桃の中の蜃気楼 作者:萩尾滋

第一章

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  真夏のカフェテラス6

「どうしたのさ、いきなり。」
 アーネストは、お茶を淹れながらヘンリーに問いただした。
「メイスン先生に呼び出された。約束の時間が伸びた上に、夕食まで付き合わされて、電車に乗り遅れた。」
 ヘンリーは疲れた顔で、椅子にどさりと腰かけ煙草をくわえる。
「駄目だよ、ヘンリー。臭いが付く。ここは寮長の部屋なんだから。僕のバイトも後二日で終わりだし。」
「窓辺なら? 」
「余計にだめだ。見られるよ。」
 ヘンリーはため息を付いて、煙草を傍の机に転がした。

「動物園の檻の中にいる気分だ。」
「この時期にその恰好は、余計にそうなるよね。で、今日は何の用だったの? 」
 ヘンリーは先生からの電話の件を、かいつまんで話した。
 サマースクールのサポーターとして滞在しているこの部屋には応接セットはなかったので、アーネストは、ベッドに腰を下ろして話を聞き、躊躇しながら言葉を選ぶ。
「それはまた……。喜ぶべきことなんじゃないの? 」
「どうなんだろうな。サラは自分の名前が表に出るのは絶対に嫌だと言っているし。僕も、嫌だ。でも、先生方に事情を説明するのもな……。」
「どうして嫌なの? 名誉なことじゃないの? その数学のなんとかを、学会で発表してくれるんでしょう? 」
「そう簡単にいかないんだ。サラの家系は高位カーストなんだけど、私生児だろ。身内から、一族の恥扱いされて、姓を名乗ることを禁止されている。やっとあの連中との縁が切れてるんだ。こんなことで蒸し返されては堪らない。それに、サラまで僕みたいな目に合わせたくない。」
「確かに、マスコミの目には、確実に晒されることになるね。」
「全く、ドジを踏んだよ……。」
 そう言いながらも、ヘンリーはどこか楽しそうに笑っている。
「でも、きみ、少し嬉しそうだね。」
「そりゃあね。これでも僕は、サラを独り占めしていることを申し訳なく思っているんだ。」
「田舎の屋敷に閉じ込めて、数人の使用人以外誰にも会わさず、塔の中のラプンツェルだものね。そしてその才能は、全てきみのためだけに注がれているって? 」
 アーネストは皮肉を込めて揶揄する。いつもサラのことしか頭にないヘンリーへ、当てつけたかったのかも知れない。
 ヘンリーは、顔色を無くし、唇をきつく結んで押し黙った。

 気まずい沈黙が流れる。
「ごめん……。言い過ぎた。事情があるのは、判っている。」
 アーネストは、とっさに後悔した。
「きみの言う通りだよ。」
 ヘンリーは、眉根を寄せ、首を振りながら自嘲的に笑った。
「本当は、広い世界に連れ出すべきなんだ。」
「無理しなくていい。きみだって、まだ16歳の子どもなんだ。」
 アーネストは、慰めるように優しく諭した。
「もう、16歳の大人だよ。」
 ヘンリーは口の先で笑い、手持ち無沙汰に指先で火のついていない煙草を弄んだ。

「寝るよ。僕の部屋は? 」
「となりだ。着替えはある? 」
 ヘンリーは首を横に振った。
「僕のを持っていく? そのまま着て帰るといい。制服よりは目立たないよ。」
 アーネストは、自分のTシャツとハーフパンツを引っ張り出して見せた。
「いい。ワーキング・クラスみたいだ。」
「今時、プライベートは誰だって着ているよ。」
「僕には無理だな。」
 アーネストは、ため息をついて笑った。
「きみは、自分から動物園の檻に入っているんだ。もう、さっさと寝ろ!」
「ありがとう、アーネスト。」
 珍しくヘンリーにお礼を言われて、アーネストは驚きを隠せず真顔で呟いた。
「きみ、本当に参っているんだね? 」
 ヘンリーは背中を向けると、手の平をひらひらと振ってそのまま部屋を後にした。
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