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胡桃の中の蜃気楼 作者:萩尾滋

第一章

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  真夏のカフェテラス3

 黒いガウンを翻し、カッカッと足音も高く去っていく彼の背中をなすすべもなく見送りながら、飛鳥は嘆息した。

 お礼も言えなかったじゃないか……。
 よくわからないけれど、勿体ないし、いただこう。

と、サンドイッチに手を伸ばす。

「杜月君!」
 同じ斡旋センターからサマースクールに参加している女の子たちが3人、息を弾ませて走り寄ってきた。
「今の人!」
 一人が興奮した面持ちで甲高く声を上げた。
「もしかして、伝説のキングススカラーじゃない!」
 3人とも目を輝かせてお互いの顔を見合い頷き合っている。
「はぁ? 何それ?」
「え~! 知らないのぉ?」
「私なんか、彼にひと目逢いたくてサマースクールに申し込んだのに! 画像なんか比べものにならないくらい、カッコよかった! もう、死んでもいい!」
 一人が大げさに胸の前で手を組んで天を仰ぎ見る。
 飛鳥には意味がわからない。怪訝な顔をしている飛鳥に、比較的冷静な一人が声をかけた。

「彼、ヘンリー・ソールスベリーだった?」
 飛鳥が頷くと、キャーとまた歓声が上がる。
「このパソコン、ネットに繋がっている?」
 また頷くと、手早く検索し動画サイトの画面を再生する。
 そこには、先ほどの彼がヴァイオリンを弾いている姿がアップされてあった。
「かっこいいでしょう! “嘆きの天使”、“パンドラの残した最後の希望”、もう、今一番旬なアイドルは彼! ヘンリー・ソールスベリーなの!」
「アイドルなの、彼?」
 飛鳥の間抜けた質問に、その子は白い眼を向けながら説明してくれた。
「意味わかっている? ヘンリーは、エリオットの生徒。16歳。1000名以上いるエリオット生の中で70名しかいない選ばれたキングススカラーで、プロも絶賛するヴァイオリンの名手! そして、由緒正しい伯爵家の跡取り。本物のノーブル!」
「へぇー」
 飛鳥はまた、間延びした返事をした。

 僕と同い年……。とても見えないなぁ。
 することも大人だし。

 飛鳥は、ヘンリーの残していったアフタヌーン・ティーセットを指さして言った。
「これ、一緒に食べる? 僕には多すぎるし。その彼が奢ってくれたんだ」
 キャー! また歓声が上がる。周囲の客が冷たい視線を投げかけていることにも気づいていないらしい。飛鳥は、周囲の目を気にして縮こまって小声で聞いた。
「高校生でヴァイオリニストなの? その嘆きの何とかとか、パンドラがどうとかって?」
「つまり、彼の弾くこの『ツィゴイネルワイゼン』は、自然に涙が溢れてくるほどに切なくて、哀愁の漂う始まりなのに、曲が進むにつれて魂が浄化され、生きる希望に満ち溢れるような力強さで終わるの。
それで、“嘆きの天使”、“パンドラの残した最後の希望”て、絶賛されているの。
そんなすごい演奏を、音楽学校の生徒でもなんでもない彼が弾いちゃうからすごいんじゃない! わかった!?」
と、3人は、代わる代わる、半ば怒るように飛鳥に説明し、スコーンやケーキをパクパクと食べた。
 クラシックのことは全く分からないが、とにかくすごくて、有名な人らしい……。

 飛鳥はそれよりも、彼が残していってくれた情報の方が気にかかった。

 本当に、“シューニヤ”の知り合い?

 飛鳥は、ヘンリーが去って行った赤いレンガ造りの建物の向こうに、もう一度視線を彷徨わせた。
 そこに、彼がいるはずもないのに……。
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