挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
胡桃の中の蜃気楼 作者:萩尾滋

第一章

28/410

  石造りの壁の中4

 名前がわかったとたん、今まで知らなかったことが嘘のように、いろんな情報があっという間に集まった。
 ヘンリー・ソールスベリーは、すでにエリオット校の伝説だった。
 今でこそ精悍な顔立ちの美丈夫だか、入学当初は、繊細で儚げな宗教画の天使のような容貌だったらしい。濃いブロンドとセレスト・ブルーの瞳、すらりとした姿態は、それだけで人目をひき、同級生だけでなく上級生にまでからかわれたり、いじられたりで、とうとう頭にきた彼は、しつこい相手を公衆の面前で叩きのめした。
 といっても、あっという間に、相手が地面に横たわって気絶していたらしい。
 なんでも、彼は合気道歴10年の武道家だった、ということだ。
 エリオット校でも合気道のクラスがあるが、それまでは空手程には知名度も人気もなかったのが、翌年からは凄まじい倍率で入りたくても入れない幻のクラスになった。

 本人が学業優秀なキングススカラーだというだけでなく、入学試験対策で彼が作った予想問題集で、同じプレップ・スクールの同じ寮だった生徒が全員合格した。その時の予想問題集は、ヘンリー・レポートと呼ばれ、弟や年下の親戚がいるエリオット生の間で、高値で売買されているとか。
 学業だけではなく、スポーツや、芸術面でも優れ、キングススカラーの選抜試験で演奏したのが、パガニーニのカプリース№24で、その超絶技巧に惚れ込んだキャンベル先生が彼を追い掛け回し、当の本人は逃げ回っている。
 それから……。

「逃げ回っているって、どうゆうこと?」
 エドガーは、とうとうとソールスベリー伝説を話してくれていた友人を遮って尋ねた。
「よくは知らないんだ。でも、ソールスベリー先輩がキャンベル先生を相当嫌っているって噂だよ」
「なんで? 勿体ないよ。あんなすごい演奏ができるのに……」
「聞いたの! なんて羨ましい! 先輩は年一回の試験の時にしか演奏しないんだ! 試験中なのに、教室前の廊下が、先輩の演奏を聴きたい生徒でいっぱいになるって話だよ!」
「授業には出ないの?」
「出てないんじゃないかな……」

 嫌いだからって……? そりゃ、相性はあるかもしれないけど、キャンベル先生は、腕を傷めて引退されるまでは、ロイヤルフィルのコンサートマスターだったすごい方なのに……。全く、信じられない!

「それでどうだった? 演奏、噂通り?」
「ツィゴイネルワイゼン。途中からだったんだけれど、涙が止まらなかった」
「いいなぁ……。僕も聴きたいよ」
「クリスマス・コンサートに出てくれるかもしれないよ。
 でも、先生は、ブラームスで首席奏者になるか、独奏ならパガニーニを、っておっしゃっていて、先輩はツィゴイネルワイゼンじゃないと出ないって揉めていたんだ」
「先輩が出てくれるんなら、演目は何だっていいけどなぁ」
 友人はとても残念そうに言うと、はぁ、と大袈裟に溜息をついた。
「僕は、先輩のツィゴイネルワイゼンをもう一度聴きたい」
 エドガーは、噂好きのこの友人を真剣な眼で見返して言った。

 それにしても、あの時感じた先生との間の険悪な空気は本当だったんだな……。

 どうしても、先輩の噂と、あの時の演奏と、助けてくれた時の姿が上手く噛みあわなくて、頭が混乱する。
 ヴァイオリンを弾く人が、武道とか、理解できないし……。万が一手を傷めたらどうするんだ?
 そりゃあ、『立っているだけですごい威圧感のある、煙草を吸っている怖そうな、でも上品な、背の高い最上級生』を探しても見つかるはずがなかった。

「…………。きみが頼んでみたら? 先輩は、黒髪で身長の低い子には優しいって噂だよ。それから、先輩は、心を許した友人以外、絶対に名前(ファーストネーム)で呼ばないんだって。まずは、そこからだね」
難しい顔をして考え込んでしまったエドガーに、友人は苦笑いしながら、思い出したように言い足した。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ