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胡桃の中の蜃気楼 作者:萩尾滋

第一章

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  石造りの壁の中5 

 先輩の伝説・その26、ソールスベリー先輩は放課後、池のほとりで、一人でヴァイオリンを弾いている。だが、その音色を聴いた者はいない。
 段々と噂がオカルトじみていた。あの超絶技巧は悪魔に教えて貰っただの、ゴブリンを使って人を転がしているだの……。

 エドガーは、段々と馬鹿らしくなってきた。同じ寮なんだから説得してくれと言われても、談話室でも、食堂でも、本当に見かけない! やっと見つけたと思ったら、いつも大勢に囲まれていて全く近づけない。もう、諦めよう、今日こそ止めよう、と思いながら、授業が終わったらすぐにここに来て、日没までの20分をじっと待つのが日課になった。それにしても、この伝説、夏の話じゃないのかな? 今の季節じゃすぐに日が暮れて、外で稽古なんかしていられないよ……。

 どうせ今日も無駄足だ……。
と、半ばイラつきながら、葉のすっかり落ちてしまった楡の木々に囲まれた寂しげな池のほとりまでやって来た。
それなのに、木々の向こう側に、エリオットの制服のテイルが見え隠れしているのを見つけた時には、何のためにここに来ているのか一瞬で忘れてしまっていた。
先輩だ!

 あの独特の立ち方、間違えるはずがないけれど……。
エドガーは、ドキドキしながら気付かれないようにそっと横手に回り木の陰に隠れた。
 ヴァイオリンを弾いている!
エドガーは驚嘆して目を見張った。
 パガニーニだ。カプリース№24……。
 笑っている。この人は、なんて楽しそうに弾くんだろう……。
 止まった? あと少しなのに!
ヘンリーは顔をしかめると、もう一度ヴァイオリンを構え直した。
エドガーは、急いで自分のヴァイオリンを取り出した。
 ここからなら……。
タイミングを計って、ヘンリーに合わせて弾き始める。
じっとヘンリーの手の動きを見ながらテンポを合わせる。
ヘンリーは、全く意に介した様子もなく弾き続けた。

 冬枯れた楡の木々の間に、次第に赤みを増していく黄金色の黄昏が降りてくる。
 まるでエドガーの旋律が空を裂き、池面を震わせて真っ赤に燃え立たせているかのような夕暮れだ。

 弾き終わると、ヘンリーはエドガーを振り返って言った。
「すごいな、きみは! 指の動きで曲までわかるのかい? 」
「先輩の指が正確だからです。僕には、先輩の音が聴こえました。」
 エドガーは息をはずませながら答えた。
 この難しい曲をこんなに集中して弾いたのは久しぶりだった。

「まぁ、座れよ。」
 ヘンリーは芝生に腰かけ、エドガーを促した。
「パガニーニは弾けないって、言っていたのに。」
「これしか弾けない。キャンベル先生は、僕をかいかぶりすぎだ。僕に首席奏者は無理だよ。
 それに、これからGCSE(全国統一試験)が控えているっていうのに、音楽にそんなに時間は割けない。
 音楽でスカラーシップを取ったきみとは違うんだ。僕には、出演義務はないよ。」
「みんな先輩のヴァイオリンが聴きたいんです。」
「ツィゴイネルワイゼンなら弾くって言ってあるよ。だいたい僕は、暗譜で弾けるのはこの2曲だけだぞ。あの先生、どうしてわかってくれないんだろうな……。」
 わからないのは先輩の方です。
 エドガーは咽喉元まで出かかった言葉を呑み込んだ。さすがに、失礼だ。僕は何も知らないのに。
「帰ろう、もう日が暮れる。」

 夕闇の迫る道々、二人は肩を並べて学内寮に向かった。
「今日のこと、できたら、ひとに言わないでくれないかな? 
 僕が池のほとりにいる時は、悪魔にヴァイオリンを習っていることになっているんだ。
 誰にも邪魔されない、貴重な時間なんだよ。」
 ヘンリーは、ポケットから携帯電話を取り出して見せた。
「黒髪の小柄な婚約者……」
「婚約者! 今は、そんな話になっているのかい? 」
 ヘンリーは、クスクスと笑った。
「違うんですか? 」
「違うよ。そんな言葉では表せないほど大切な子なんだ。
 僕は、ツィゴイネルワイゼンを彼女に捧げたいんだよ。」
 ヘンリーは、穏やかに微笑んで言った。
 先輩にこんな顔をさせるなんて!
 エドガーは、ヘンリーのエアヴァイオリンを見た時よりも余程驚いて顔を強張らせた。
 みんなの憧れの、伝説の先輩を独占しているひとがいるんだ……。
 胸がちくりと痛んだ。
「誰にも言いません。だから、コンサートに出て下さい。」
「曲次第だ。」
「僕がピアノ伴奏します。それで先生に頼んでみますから。」
「…………。きみ、彼女に少し似ているよ。
 きみも同じ、神に愛された子どもだね。」
 ヘンリーは、そう言うと優しく笑ってエドガーの頭をわしわしと撫でた。
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