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胡桃の中の蜃気楼 作者:萩尾滋

序章

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  春の墓廟3

 ポケットから、凝った装飾のされた金色の鍵を取り出すと、蔦のカーテンの向こうにある金属製のドアに取り付けられた錠前を外し、扉を開けた。

 水しぶきの向こうに、一面の黄水仙と百合が波のように揺れている。四方を白壁に囲まれた箱の中で、朝靄の中、ぼんやりと、揺れている。

 二人は、半円形に敷かれた白と灰色の市松模様の床石の上にいた。半円の中央には、人ひとり分の高さの噴水があり、小水盤から噴き出した水は大水盤へと流れ落ちていく。その水は、白と黄色に包まれた庭園を二分する水溝カナールへと注がれている。カナールの両脇には、白い敷石が敷かれた歩道が配してある。
 ヘンリーはサラを促して、流れに沿って進んでいく。カナールの終りには、花に囲まれ埋もれるように、大理石の碑が置かれていた。
 ヘンリーは、その前で頭を垂れて黙とうする。サラはそんなヘンリーの真似をして目をつぶった。
 閉じられた視界の中、早朝の刺すような冷気やサラサラと水の流れる音が誇張されてサラを包んだ。
「これは僕の想像なのだけれど、この碑は、サラのお母さんのお墓の替わりじゃないかと思うんだ。」

 ヘンリーは、碑の正面から直角に曲がって白い壁面に向かい、小首をかしげてサラを促す。横長の壁には窓のように装飾的に配されたニッチが幾つも並んでいる。ニッチの尖頭アーチの縁には、床石と同じ白と灰色の石が交互に組み合わされている。そのニッチのひとつに、ヘンリーは、マーカスの入れておいてくれたひざ掛けを敷き、サラを抱き上げて座らせた。

 ヘンリーが黙ってしまうと、噴水の水音がやけに耳につき、サラの不安を掻き立てた。
 この庭は、美しいのに、どこか厳粛で、冷たくて、重苦しい。サラはなんとも落ち着かない気持ちで、ヘンリーにすがるような視線を送った。
「お茶にしようか。」
ヘンリーは水筒を取り出して、携帯用のカップに湯気の立つミルクティーを注ぎ入れ、サラに手渡した。
「不思議ね。夢の中にいるみたい。」
サラは甘いミルクティーを一口飲んで、呟いた。
「でも、なんだか哀しくなる。」
 ヘンリーは、座らずに壁にもたれて腕組みしたまま、黄水仙と百合の群れを見つめている。
「この庭のモチーフはイエィツだって、つい最近気がついたんだよ。偶然にイエィツの詩集を読んで、この詩を見つけたんだ。

 私はもう行かねば、黄水仙と百合が
 波打って揺れるところに一つの墓がある。
 夜明けまえに、楽しい歌を歌い聞かせて、
 眠たげな土の下に埋められた
 哀れなファウヌスを喜ばせてやろう。
 あれが嬉しげに叫んで遊んだ日々は終わった。
 だが私は今も夢に見る、                     

『幸福な羊飼い歌』の終りの方の部分。」
 ヘンリーは、サラに向き直って続ける。
「始まりは、こう、

 アルカディアの森は死んだ。
 いにしえの喜びは終わった。

 サラのお母さんと過ごした場所と時間は、父さんにとっての理想郷(アルカディア)だったんだ。
 ここは、サラのお母さんを偲ぶための場所。サラのお母さんと父さんの報われなかった恋の墓廟なんだ。」
 ヘンリーは、一息置いて付け加えた。
「だから、サラが哀しくなるのも仕方ないのかもしれない。」
 サラには、ヘンリーの言うことをうまく理解できなかった。
 そして、いつものように笑ってくれないヘンリーを見ていると、不安になった。
 また、わたしは、失敗したのだろうか?
「ごめんなさい。」
 ヘンリーは驚いて、
「誤解だよ!サラが謝るようなことは何もないんだ。僕は、サラのお母さんに感謝しているくらいだよ。短い間でも父さんを幸せにしてくれて。サラを産んで、僕にこんな可愛い妹を残してくれた。」
 ヘンリーは、言い訳するように微笑んだ。そして、自分の中のもやもやした気分を吹き飛ばすように話題を変えた。

「お腹空いたな。ビスケット食べるかい?本当に、マーカスは気が利くな!」
 サラにビスケットを渡すと、自分も頬張り紅茶を流し込む。
「しかし、父さんもすごいよな。」
食べながら、ヘンリーは苦笑いしている。
「この庭、奇妙だろ。」
「春の花の黄水仙と、夏の花の白百合が一緒に咲いている。」
「この百合、ゴードンが交配して作った新種なんだって。この庭を作るために、作らせたらしい。開花時期を1カ月早めるために、ずいぶん苦労したらしいよ。ま、ゴードンも、君には、緑の指があるじゃないか、なんて煽てられて、のせられたんだけどさ。」
 サラは、無骨なちょっと怖いイメージのある庭師のゴードンを思い出して笑った。
「それでも、黄水仙と百合が同じ時に満開になるのは、ほんの数日なんだよ。サラといっしょに見られて良かった。」

 ヘンリーはポケットからこの庭の鍵を取り出すと、サラの手を取って握らせた。
「3日早いけれど、お誕生日おめでとう。」
 そして、サラの頬にキスをする。
「このキスは父さんからのキスだよ。この鍵は父さんからのプレゼント。サラの誕生日に、夜明け前にここに連れて来てこの鍵を渡してくれって、頼まれたんだ。父さんは今でもサラのお母さんを愛していて、サラのことも愛しているよ、って、サラに知っておいて欲しかったんだよ。きみは、望まれて祝福されて生まれてきた子供なんだ。」
 突然、サラの目に熱いものがこみ上げてきた。
 厳粛で、冷たくて、重苦しく思えたこの庭が、穏やかで、優しくサラを包み込み、心をほんわりと温めてくれる場所に変わっていた。

 6歳までサラを育ててくれた祖父と曾祖父はヒンドゥー教徒で、サラには、お墓というものが何なのか判らない。亡くなった人は火葬にされ、遺骨はガンジス川に葬られる。そもそもお墓とか、墓廟というものがヒンドゥーの概念にはないのだ。
 サラの母は、サラを産んだ時に亡くなった。サラの誕生日は、母の命日でもあった。
 お父さんは、お母さんの為の庭を作って、花が咲くたびにお母さんのことを思い出してくれている。わたしのことも……。
 ずっと感じていた不安や胸の痞えが、涙といっしょにどっと流れ出してきた。
 サラはイギリスに来て初めて、声をあげて泣いた。
 ヘンリーはそっとサラを抱きしめた。サラはヘンリーにしがみついて、思う存分泣いた。

 ひとしきり泣いて、泣き声がすすり泣きに変わったとき、
「サラ、顔を上げて。」
 ヘンリーは身体を離すと、ポケットからハンカチを取り出し、サラの涙を拭いて鼻をかんであげた。
「見てごらん。」
 庭を囲む塀の上方から朝日が線上に降り注いで、朝靄を消し去っていく。光は揺らめき、花々を照らし、カナールを流れる水流は光を反射してキラキラと輝いている。
 天国ってこんな所なのかしら。
 サラは本で読んだ天国のイメージをこの庭に重ねて思った。
 お母さんは、生まれ変わってまたお父さんに会うのかしら?それとも、天国に行って、お父さんが来るのを待つのかしら。

「サラ、これは僕からの誕生日おめでとう。」
 ヘンリーは、ピンクのリボンのかかった小箱を掌に載せて差し出した。
「開けてもいい?」
「どうぞ。」
 サラは、ドキドキしながらリボンをほどき、丁寧に包装紙を外し、箱を開けた。小さなアクセサリーケースの中には、ペリドットの嵌め込まれた四つ葉のクローバーのピアスが入っている。
「ありがとう、ヘンリー!」
サラは思いっきり腕を伸ばして、ヘンリーの首に抱き着いて、頬にキスした。ヘンリーも嬉しそうに笑い、サラを抱きしめる。
「さあ、着けてあげるよ。」
サラの耳たぶにピアスを通すと、ヘンリーは満足げに頷いた。
「これを見つけた時、きっとサラに似合うと思ったんだ。サラの瞳と同じだから。」
「すごく嬉しい。本当にありがとう!」
「サラの幸せを僕はいつだって祈っているよ。」
 サラは、何をあげても、大げさなくらいに喜んでくれる。だからヘンリーは、よけいにサラの喜ぶことなら何だってしてあげたくなるのだった。
『幸福な羊飼い歌』イエィツ 岩波文庫 高松雄一訳
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