鑑原2
穿界門をくぐった先は、森の中だった。鬱蒼と生い茂る木々の合間から、白っぽい陽光がちらちらと瞬き、風が吹き抜けて葉擦れの涼やかな音を立てる。遠くで鳴く鳥の声は暢気なほど明るくて、人のいる気配は微塵も感じられなかった。
「色気のねぇところに来てんだな、あいつ」
澄んだ霊子は気持ちいいが、若い女ならもっと賑やかなところに遊びにいきゃいいものを。松本なら絶対、町に繰り出して大騒ぎするぞ。そう思いながら、目を閉じて雪音の霊圧を探す。
人間が居ない分、あいつの低い霊圧でも探しやすくて、すぐに見当がつく。
「こっちか」
俺は獣道に足を踏み入れ、歩き出した。多分雪音も同じ道を辿ったんだろう、ほんの微かだが、あいつの霊圧の欠片が残っているのが感じられる。
途中、狸に出くわした他はこれという事もなく、しばらく歩を進めていると、前方にきらきら光るものが見えてきた。森はそこで一度途切れている。戦闘の時の癖で、広い場所に入る手前で足を止めた俺は、木の影から前をすかして、へぇ、と呟いた。
そこにあったのは、湖だった。
かなりでかい湖で、鏡のように澄み切った湖面には空の色を青々と映し出し、向こう岸は若干霞がかかって見える。
そっち側にもまた木々が生い茂っているらしいが、奥に行くほどなだらかな坂になっている。それを目で追っていくと、森の背後には山がそびえていた。それほど高い山じゃないが、上にいくほど急峻で、山の表面にはちらほらと山桜が咲いているのが見える。
雪音は、湖の前に居た。腰に珍しく斬魄刀を差していて、その周りを地獄蝶が、ひらひらとあてどもなく飛んでいるのが見える。
俺は何となく息を潜めて、しばらくの間眺めていたが、雪音は特に何をするわけでもなく、ただじっと眼前の風景を眺めているようだった。
(何してんだ? あいつ)
風光明媚なといえば聞こえは良いが、いかにも鄙びた光景だ。目を楽しませるほどの絶景というわけでもなし、何をそんなに見入ってるのだろう。
不思議に思いながら、俺は無意識に足を横に動かした。と、草鞋の下にあった枝がぱきん、と乾いた音を立てて折れる。
(あ)
さほど大きな音じゃなかったが、静まり返った森の中じゃ、十分響く。しまったと思った時には、雪音がこっちを振り向き、
「……い、一角?!」
心底驚いた様子で目を丸くした。
「あー……よ、よぉ」
まずった、見つかった。今更逃げるわけにもいかず、俺は仕方なく茂みを踏み越えた。ずかずか近づいていくと、雪音は最近お決まりの、少し困ったような顔で向き直る。
「ど、……どうしたの。こんなところに、居るなんて。任務でも、あった?」
「いや……」
一瞬誤魔化そうかと思ったが、そんな事をしても意味が無いばかりか、雪音を警戒させかねないと考え直し、俺は額をかいた。
「現世の駐在任務から戻った時、お前が六番隊に来たのを見たからよ。現世に行くなんて珍しいと思って、つい追って来ちまった」
「つい、って……それだけで、わざわざ後ついてきたの?」
雪音は目を瞬き、それからぽっと赤くなった。俺の視線から逃れるように、慌ててそっぽを向いたが、手が死覇装の袴をつまんで、もじもじしている。
……あぁくそ、何でそういう反応しやがるんだお前は、それは俺が追っかけてきて嬉しいって事かよ畜生、いい加減にしねぇと本気で押し倒すぞ、今度は逃げ無しで。
「あー、なんだ、いいところだな、ここは。お前、良く来るんだって?」
照れる雪音があんまりにも可愛くて、自制が利かなくなりそうになったので、俺もあさっての方向に無理やり顔を向けた。それでもちらっと目線をやると、雪音は赤くなった顔を手で覆いながら、うん、と頷き、
「……ここに来ると、何だか落ち着くの。綺麗だし、静かだし、人も来ないし」
再び湖に目を転じた。途端に表情が和らぎ、口元にふわ、と笑みが浮かぶ。……驚いた。こいつがこんなに穏やかな顔してるのを見るのは、初めてだ。
「……何か、良い思い出でもあるのか?」
気になってつい尋ねたら、雪音はもう一度頷き、はにかんだ。うわ、だからよせってそういう顔、やばいから。赤面して焦る俺に気づかず、雪音は湖に向かってよいしょ、としゃがむ。斬魄刀の鞘がガチャリ、と鳴った。
「ここ、烈様に初めて、現世へ連れてきてもらった場所なの」
「卯ノ花、隊長に?」
「そう」
手で周囲を漠然と示して、
「今はもう残ってないけど、ここは冬になると、雪が積もってすごく綺麗なのよ。あたし、自分の名前に雪ってついてるけど、見たことなくて」
「まぁ……そりゃそうだろうな。現世ならともかく、ソウル・ソサエティで天気が悪くなる事ぁ、そう無いしな。雪を見られるとすりゃ、十番隊の……あー、何つったか、今度隊長になった、あの」
「日番谷君?」
「あぁそうそう。あのガキが斬魄刀解放するくらいでしか、見られねぇだろ」
「……ぷっ」
「あん? 何笑ってんだよ」
「だって、雪見たいから解放してなんて言ったら、きっと怒るわよ、日番谷君。俺の斬魄刀は見世物じゃねぇ、とか何とか言って」
「いいじゃねぇか、減るもんじゃなし」
「そういう問題じゃないでしょ、もう」
俺の前では久しぶりに、くすくすと楽しそうに笑って、雪音は湖に向けて腕を伸ばした。
指先をぬらしてみて気に入ったのか、袖をおさえ、水の感触を楽しむように湖面に手を滑らせる。
きらきらと輝く水面の光を受けて、細く白い手が輝いて見えて、思わずどきりとしてしまう。
(あーくそ、あの腕にちゅーしてぇ)
汚れのない雪面に、足跡を残したくなる心境と似てるかもしれない。真っ白な肌に赤い跡を山ほどつけてやりたい。そんな事を思い、思った自分に思わずため息を吐く。
本当にやばいな俺、雪音を見てると、ところ構わず盛っちまう。
女は昔からそれなりに好きだったが、ここまで節操なしじゃあなかったよな、本気で惚れるってのはこういう事か。理性も糞もあったもんじゃねぇ。つーかマジでやばいだろ、こんな調子じゃ俺、いつまで耐えられるんだ。
「……ここで雪景色を見て、初めて自分の名前が好きになったの、あたし」
自分の衝動を抑えようと深呼吸する俺とは逆に、雪音は至極落ち着いた顔で話を続ける。
「烈様に教えてもらうまで、名前に意味なんて何も無いと思ってた。誰がつけたのかもしれない、無意味な記号でしかなかった。だから、…………」
「……だから、何だよ」
不意に言葉が途切れたので促すと、雪音は手の水を払い、膝頭に顔を伏せた。上から見えるその表情は、どこか物思わしげだった。
「……うん、だからね、ここの名前を貰ったの」
「あん?」
意味が分からない。つい、つっけんどんに声を上げたら、雪音は棒を拾った。鏡原、と地面に書く。
「ここの地名、鏡原っていうのよ。この字でかんばらって読ませるんだけど、昔は鑑原って言う名前だったんだって」
原の上、鏡の横に、鑑を書き足す。
「あたし、ここの名前を貰う時にどっちにしようか迷って、姓名判断してみたら、鑑のほうが良かったから、この名前を苗字につけたんだ」
「じゃあお前、昔は名前違ったのか?」
「烈様が卯ノ花家に養子で迎えて下さったから、卯ノ花雪音って言ってたわよ。だけど、色々知るうちに、その名前が重くなってきちゃって」
卯ノ花、と書いて、雪音は膝の上に頬杖をついた。短く息を漏らす。
「烈様は気にしないでいいと言って下さったけど、あたしは元々貴族じゃないから、分不相応な名前だったのよ。
それに、いつまでも烈様のご好意に甘えていられないと思ったから、自立の意味もあって、鑑原雪音に改名したの」
「……へぇ」
こいつの苗字にそんな由来があるとは、知らなかった。
「名前につけるくらいなら、よっぽどこの場所が、気に入ったんだな」
何気なく言うと、雪音は頬杖を外して、俺を見上げた。そして湖に視線を戻し、ふ、と優しく笑う。
「……うん。ここは、特別なの」
「!」
俺はその顔を見て、さっきとは違う意味で、どきりとした。
昔を懐かしむような、慈しむような笑み。
ここじゃないどこか、遠い、遠い場所を見つめるような瞳。
それは俺が今まで見てきた雪音の表情の中で、もっとも無防備で、もっとも近寄りがたいものだった。その顔は言葉よりも雄弁に、雪音の気持ちを物語っていた。
「……」
俺はざ、と地面を蹴って背を向けた。唐突な動きに驚いたのか、
「え、一角?」
雪音が素っ頓狂な声をかけてくる。立ち上がる気配を感じて、俺は背を向けたまま、手を振った。
「そこいらうろついてくるから、帰る時に声かけろ」
素っ気なく言い捨てて、足早に森のふちに入った時、有り難うという言葉が聞こえたような気がした。
俺はそれには応えず、茂みをかきわけ、張り出した木の枝を払い、道なき道を歩いて、湖から遠ざかる。
――特別。この場所は、雪音にとって、本当に特別なところなんだろう。
忙しい仕事の合間、時々一人でやってきて、ぼうっと見つめているだけで、穏やかな気持ちになれる、そういう特別。
あんな雪音を、俺は知らなかった。俺の知らない雪音がまだ居るのが悔しくて、全部自分のものにしたくて、歯がゆい気持ちになる。
だが、思い出に浸るのを邪魔するような野暮はしたくねぇ。あいつが一人でいたいってんなら、そうしてやるさ。てめぇがそうしたいからって、遠慮もなしにずかずか相手の懐に踏み込んでいけるほど、俺もガキじゃねぇし。
俺は腕を上げてぐっと伸びをし、頭上に覆いかぶさる木々を見上げた。
日の光を透かした葉は青々と輝きながら揺らめき、息を吸い込めば草いきれの匂いが、胸いっぱいに広がる。
「……良いところじゃねぇか」
ついぽろっと呟いてから、俺は苦笑した。あいつの特別な場所だからって、さっきより景色が綺麗に見えてくるなんて、俺も大概単純だな。
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