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愛しき、世界 前編
 遠くなった記憶は、不意に蘇る。恐怖と、感謝を伴って。

 次の瞬間目の前には、めちゃくちゃに破壊された町並みと、死体の山が広がっていた。萎えた体は動かす事も叶わず、否応なしにその光景を網膜に焼き付ける。
 死体の山。ちぎれた手足、溢れ出す血、何も語らない虚ろな目。先ほどまで確かに生きていたそれらは皆動かない、ただの肉塊に変じていた。
「……ぁ……」
 声にならない声が、口からこぼれた。同時に吐き気がこみ上げてきて、体を折って地面にはいつくばると、何もない腹の中から苦いものがせりあげ、黄色い液体があふれ出す。体をひくひくさせながら何度も吐いて、ようやくおさまった頃、ふらりとよろけて地面に倒れた。
 指一本、動かせない。頭がぼうっとして、耳鳴りがする。吐しゃ物のすっぱい臭いが鼻をふさぐ。
 死。
 その言葉は知らなかったが、今目の前に、生死の境があるのは本能的にわかっていた。恐ろしさは無かった。もう、苦しまなくてよいのだと思うと、かすかな喜びが心を掠めた。
 今度こそ、死が訪れる。
「……ぁあっ……」
 僅かにもがいて、目を閉じた。闇の中は不思議な安らぎに満ちていて、暖かいように思えた。

 しかし、闇はそう長く続かなかった。
「……な……かり……」
 鈴を震わすような、やわらかい声が降ってくる。あたかもその声が、温もりをもたらしてくれるかのようだった。冷え切った体にじんわりと温みが染み、徐々に意識を引き上げられていく。
「……聞こえ……か? ……私の声が、わかりますか?」
「……っ……」
 ぼんやり、と目を開く。ぶれた視界に影が映った。暖かさが全身を覆い、何度か瞬きを繰り返していたら、影が人のそれだということがわかってきた。大人。大人の女。黒髪を長く伸ばした、穏やかな表情の、女。
「しっかりなさい。もう、大丈夫ですよ」
 女は、光を纏っていた。やさしい微笑みは白い輝きを帯び、目がつぶれそうなほど美しく見えた。
「……ぁっ……」
 たじろいで、逃げようと動きかけたが、女がそれを止めた。手を伸ばしてこちらの体を抱き上げ、腕の中に抱える。
「大丈夫。怖い事はもうありませんよ。今は、お休みなさい」
 先ほどとはまた違う、温もり。体を包み込む柔らかい感触は、なぜだかひどく安心させられる。息を吐いて、目を閉じた。再び闇に覆われたが、今度のそれはどこか冷たく、よそよそしかった。

* * *

 暖かい。寒くないし、痛くもない。くさい臭いもしない。むしろ、甘い匂いがする。
 目を開くと、天井が目に入った。整然と格子状に並んだ天井は見た事が無くて、何度も瞬きをする。
(どこ?)
 起きあがろうと身じろぎしたが、体が重くて動かない。と、枕元で水の音がした。
「目が覚めましたか」
 視線を向けると、そこには大人の女が居た。長い黒髪を編み、黒い着物に白い羽織を着たその人は、目を細めてにっこり微笑む。
「気分はどうですか? 熱は下がったようですが、どこか痛むところはありますか」
 穏やかなその声が自分に向けられてると知って、居心地が悪くなる。こんな風に優しく声をかけてくれる大人には今まで出会った事がなかったから、どう答えていいのか分からない。
 驚くほど柔らかい布団の中でもぞもぞ動きながら、首を振ると、女はそうですか、と言って、こちらの額に濡れた布を置いた。
「無理をしてはいけませんよ。あなたは、二週間も眠り続けていたのですから。少し、食べられますか?」
 傷一つ無い白い手が、頬に触れた。しっとりした感触に驚くも、食べる、という言葉のほうに意識がいった。食べる、食べられるの? 目で訴えると、女はまた笑みを浮かべて、
「良かった、食欲はあるのですね。今、おかゆを持ってきますから、少しお待ちなさい」
す、と静かな所作で立ち上がり、部屋を出て行った。その後ろ姿をぎょろ、と動かした目だけで見送り、もう一度天井を見る。
(どこ。だれ)
 少なくとも、自分が今まで暮らしてきた場所でない事は、確かだ。あそこはこれほど静かでも、綺麗でもなかった。何故、自分はここに居るのだろう。記憶を辿ろうとしたら、頭にずき、と強い痛みが走って、思わず身が縮こまる。
(わかんない)
 痛みに顔をしかめて、目を閉じる。する、と睡魔が忍び寄ってきて、すぐに何もかも感じなくなった。

 目が覚めたのは、食欲をそそる暖かい匂いがしたからだった。ぱ、と目を開いて顔を動かすと、さっきの女が皿と水差しを枕元に置いたところだった。
「あら、起きたのですね。よく眠っていたと思ったのだけれど」
 女の言葉は、耳に入ってすぐに抜ける。今は、皿に目が釘付けだった。ほかほかと白い湯気をたてるそれには、白い飯がつやつやと光輝いて盛られている。ぐう、と腹が鳴った。盛大なその音に、女は目を丸くした後、小さく笑った。
「ふふ。では、食べましょうか」
 さじで飯をすくって、ふー、ふー、と息を吹きかけて、こちらの口に添えてくる。白い飯はするり、と口の中に入ってきた。ほとんど噛まずに飲むと、暖かく甘い味がじんわり、喉を通っていくのが分かる。
「……っ」
 もっと食べたい。そう思ってさじに噛み付いたら、女は「慌てないで。急いで食べると、お腹がびっくりしてしまいますよ」と、口に運んでくれた。少しずつだったので物足りなく感じたが、皿が空になる頃には、腹もくちくなった。
「これをお飲みなさい。お薬ですから、楽になりますよ」
 女は水差しをこちらの口にくわえさせた。何日かぶりに飲む水は、しかしあの街で飲んでいたそれとは違い、冷たく、甘く、少し苦い、不思議な味がする。
 こくこく、と飲み干すと、体全体がぽかぽか暖かくなって、先ほどの急速な睡魔とは違う、緩慢な眠りが忍び寄ってくるのが分かる。
「……ゆっくり、お眠りなさい。次に目が覚めた時には、もっと良くなっていますよ」
 女は水差しを置いて、頭を撫でてきた。素直に頷いて目を閉じると、これまで感じた事がないほど優しい眠りが、押し寄せてきた。

 女の言う通り、眠りから覚めるたびに、体の具合はどんどん良くなっていった。目覚めてから一週間後には起きあがれるようになり、食事も普通に取れるようになった。
 女は、卯ノ花 烈と言った。ここがあの街ではなく、瀞霊廷というところにある部屋だ、という事も教えてもらった。
「あなたの名前は、何というのですか?」
 そう尋ねられて、ゆきね、と答える。
 誰がつけたのか知らない、記憶の片隅に残っていた、自分の名前。
 あの街では、おい、とか、こら、とか、そこの、とか、そんな風にしか呼ばれなかったから、名前なんて忘れかけていた。意味があるとも思っていなかった。
 けれど、烈と呼んで欲しいと言った女は、にっこり笑って、
「そう。雪音、ですか。良い名前ですね。あなたは、雪を見た事がありますか?
 ……無いのですね。それならば、今度見せてあげましょう。雪は空から降り注いで、広い大地を一面、純白に染め上げて、それは美しいものです。あなたの名前は、とても綺麗な名前なのですよ」
そういって頭を撫でてくれた。綺麗、なんて言われた事がなかったから、雪音は俯いた。どうしたのですか、と聞かれ、
「……わかんない。ことば、いえない」
拙い口調で言う。話をしている内に、雪音のぎこちない言葉の意味をくみ取るようになっていた烈は、顔をのぞき込んできた。
「ほめられた時、どういって良いか、分からないという事ですか?」
「……う」
 頷く。
「そのような時は、こう言えば良いのですよ。――ありがとう、と」
「あ……あり? ……」
「ありがとう。相手の気持ちを受け入れ、感謝する言葉です。言ってご覧なさい」
「あ……ありが、とう」
「そう。良く出来ましたね」
 烈は嬉しそうに顔をほころばせて、雪音の顔を手で包み込んだ。与えられた絹の服のように滑らかなその手は、とまどいを覚えるほどに温かかった。


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