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双心 〜SOSHIN〜 第一部:恋哀
作:井上清二



第一部 第二章 日に照らされ、我は行く



第二章 日に照らされ、我は行く
 
 私には双子の姉がいる。
 彼女は私の憧れの人。私と違っておしとやかで、何より強い人。
 昔からいつもそばに居て、私を支えてくれた。そして、これからも、たぶん、ずっと・・・・
 だから、お返しとまではいかないものの、少しでも彼女の手助けをしたかった。
 でも、エリスはいつも私を優先してくれて、返すどころか感謝するばかりで何もできなかった。うれしかったけど、同時に歯がゆくって仕方がなかった。
 今になって思えば、私はエリスと並びたかったのかもしれない。
 姉妹ではなく、同じ双子として同じでありたかった。エリスはいつも私の憧れだったから、私もエリスのようになりたかった。そして、なにより私たちは双子だったから。


――――――――――――――――◆―――――――――――――――――――

 私はいつものように鏡の前に座って、自分の髪を三つ編みに編んでいく。
 その慣れた手つきに意味もなく一人感心する。
 三つ編みをし始めてもう十年も経つ。
 初めて自分で三つ編みをしたときは、いったい何時間かかっただろう。
 あの時、母は根気よく不器用な私に付き合ってくれた。
 本当に母には感謝している。
 いきなり、三つ編みがしたいなんてわがままを言ったのに、理由も聞かず微笑んでくれた。
 母は私たちにも、父にも理解のある人だった。やりたいことはさせてくれて、でも、いけないことはいけないと、ちゃんとしかってくれる母親だった。・・・・そう、本当にいいお母さんだった・・・・・・
 思わず涙がこぼれそうになって、あわてて服の袖で涙をぬぐった。
 親不孝だと言われるかもしれないが、最近では、両親のことを思い出す機会も少なくなってきている。
 意識してそうしている。でないと、今みたいに感情が勝手に動き出してしまって、手をつけられなくなるかもしれない、という予感があった。
 いつの間にか教会の鐘の音が遠くから聞こえてきていた。重く、尊厳な響きが朝の澄み渡った冷たい空気を震わせている。
 ふと外を見てみる。辺りはまだうっすらと暗く、家の隙間から入り込んでくる冷気を今頃になって感じて、思わず両手で体を抱きしめた。
 そのとき、背後から姉の声が聞こえた。
「ソフィ」
 優しい声に振り向くと、いつの間にかエリスは起きていて、手にはルージュの肩掛けを持ってベッドの端に座っていた。
「エリス。おはよう」
「おはよう、ソフィ」
 エリスは優しく微笑んで、ゆっくりとベッドから立ち上がった。そして、歩み寄って来て、はい、と言って肩掛けを差し出してくれる。
「やっぱりまだ冷えるね」
「うん」
 受け取った肩掛けを肩に羽織ながら答える。こんな薄いものでも、着ると暖かい。
「早く髪編んじゃいなさい。お祈りが始まっちゃうわよ」
「先に仕度してて、私もすぐ降りるから」
「うん、お先に」
 エリスがドアを開いて下に降りていくのを鏡越しに見ながら、止めていた手を再び動かし始めた。
実を言うと今日はいつもより起きるのが遅かったのだ。何分ぐらい寝坊したか分からないけど、いつもよりは遅かったと思う。今日は、目が覚めたときには鳥の囀りが聞こえ始めていた。小鳥たちに起こされたのは本当に久しぶりだった。
 こんな時、自分の髪型が少しだけ恨めしくなる。エリスみたいにそのままならどんなに楽だろう、と。
 でも、絶対にそれはできない。この三つ編みは私とエリスを人に区別してもらうために絶対に必要なものだから。
 エリスが私に、私がエリスに間違えられることが我慢できなかった。
 エリスは私の憧れだからこそ、私とは違ってなければならない。自分と違うからこそ憧れることができるのだと思う。
 ――もちろん、間違えられるのが単にめんどくさかったというのもある。
 編み終えた髪の先を白い糸で縛ってから、軽く首を左右に振って、鏡でちゃんと編めているかを確認する。
 鏡の中で長い豊かな金髪の、きれいに編まれた三つ編みが、耳元から二房垂れて首の動きに合わせて小さく揺れる。
「うん、よし」
 今日が始まる。長くて短い一日。今日は何いいことがあるかな?
 そんな素敵な考えが頭に浮ぶ。
 今日は一年で一度だけの特別な日。今年一年の豊作を願う新緑祭の日なのだ。一年でこの日と謝夢祭の日だけ私たちは二人そろって機を織ることを忘れ、その日を楽しむ。
 そしてもうひとつ、今日はエリスとラヴァさんが付き合い始めた日でもある。
 だから、二人にとって今日は普通の人以上に特別な日なのだ。
 当然エリスが好きな人と長い時間を過ごせる数少ない時間でもある。 
 でも、エリスは優しいから、私が一人になることを心配していつも気を使ってくれる。ラヴァさんもすごくいい人だから、嫌な顔一つしない。
 自分がエリスにとって邪魔者だと思うほど、思い上がってはいない。
 けれども、やっぱり、好きな人とは二人きりでいたいものなんじゃないんだろうか?
 私にだって、それぐらいは気にすることはできる。それに、二人きりにさせてあげる。――――それぐらいしか私にはできない。
 私とエリスはただ唯一の家族だから。お互いにかけがいのない存在。だから、彼女が私にくれた幸せを、彼女にもあげたい。
 椅子から立ち上がって部屋を出る。左手には一階に続く階段があって、右手には短い回廊の先に両親の部屋がある。
 二人の部屋は生前のままでおいてあった。私たちがこの部屋を片付けなかったのは、やはり二人が死んだということがあまりにも現実感を伴っていなかったからだろう。それに部屋を片付けたら、きっと悲しみがあとからあとからあふれ出してきて、どうしようもなくなっていたと思う。
 私はまだ両親の死を完全に受け入れる自信がない。だから、今でも寝ぼけた父を連れて、母がおはようって出てきそうな気がする。
 はっとして、あわてて暗い気分を振り払うように頭を振って、両の手のひらで顔を覆って目を閉じた。そして自分に言い聞かせるように繰り返す。
 今日はお祭り。エリスにとって大切な日なんでしょ。・・・・・今日こそ言うって決めたんでしょ?―――――だったら笑いなさい、ソフィア!。
 ゆっくりと目を開いてから、とびっきりの笑顔を浮かべて、私は階段を下りていった。


 階段を一歩、また一歩と降りるにつれ、見慣れた木の壁が、椅子が見えてくる。その光景に毎朝妙な安心感を感じる。
四つある椅子、私たちの食卓。その上でエリスは机にうつぶせて寝ていた。
 それは私の憧れるエリスの唯一の欠点。
 エリスは寝起きは決して悪くない。ただ、エリスは一度起きても、またすぐに寝てしまう。起こせばすぐに起きるのだけれど、私の記憶の中でエリスが一度で完全に起きたことはほとんどない。何でこうも毎朝毎朝二度寝できるのかあきれるしかなかった。
 でも、毎朝エリスを起こすのは嫌じゃない。むしろ、そういうところだけでもエリスの役に立てるのがうれしかった。
 それに、このことを知っているのは私だけだ。二人だけの秘密。なんだかすごくいい響き。私はこの言葉が昔から大好きだ。私達が姉妹だという確かな証拠、絆のように思える。
 ふと素敵な考えが頭に浮かんで、静かに笑った。
 ラヴァさんもこのことをはじめて知ったときはきっと驚くだろう。そう、たとえば―――
 朝、新妻に起こされて、後から行ってみると気持ちよさそうに寝ている。それも毎日・・・・!
 彼はきっとエリスのことをもっとかわいいと思うに違いない。
 それは、憧れるような二人の、ちょっぴりうらやましい想像だった。
 うつぶせて寝ているエリスの安らかな寝顔を見て、思わず微笑を浮かべる。
 でもそれはすぐに悪魔の笑みに変わる。静かな寝息を立てているエリスの耳元にそっと口を近づけ、静かに息を吸い込む。そして・・・
「起きろー!」
「!」
 エリスの顔がぱっとはねあがった。なんだかちゃんと解かっていない顔が、一瞬後には私を認め、眉間にしわが浮かびあがる。
 気にせず、とびっきりの笑顔で言った。
「おはよう♪エリス」
「・・・・・」
 彼女は大きく瞬き。長いまつげが、透き通った碧い目が、ミルクのような白い肌が、信じられないぐらい調和していて、自分の姉ながら思わずため息をつきたくなるぐらいきれいだ。
「目、覚めた?」
「・・・・そんな大声出さなくても起・き・ま・す!」
 しかめっ面で言い放って後、エリスの目が恨めしそうにすっと細められる。
「気持ちよさそうに寝ているのが悪いの。あんな寝顔見せられて、悪戯したくならないほうがおかしいわよ」
「だからって・・・」
 機嫌が直らない。本当、エリスには冗談も通じない。私は早々と最終手段に訴えることにした。
「ラヴァさんもきっと同じことすると思うな」
 エリスではなくどこか遠くの、それこそどこか向こうにいるラヴァさんを見ているつもりで、台詞を読むように大げさに言ってやった。
「なんでラヴァのことがでてくるの!?」
・・・・かかった。私は心の中でほくそ笑んだ。
「私、ラヴァさんがエリスのこのこと知って、どんな反応するか楽しみだな。朝起きてみると、隣には愛しい新妻はもういない。『飯の支度でもしてくれてるのかな?いい嫁をもらえて、俺は幸せだな』なんて期待して部屋を出ると、なんとよだれを垂らして寝て―――」
「バカ!――もう、早く行こう」
 エリスはさっさと立ち上がって、扉まで大股で歩いていく。
「・・・・エリス、・・・もしかして、怒った?」
「別に」
 言葉とは裏腹にこれでもかってぐらいに怒気が含まれていて、しまったと思った。
 エリスに近づいて肩の上から顔を突き出し、彼女の顔を覗き込もうとした。しかし、豊かな髪がエリスの横顔を隠していて、表情はうかがえない。
 本当に怒っているのか、それともからかっているだけなのだろうか?判断がつかず、おもいっきり沈んだ声で言う。
「・・・・ごめんなさい――」
 それっきり黙りこみ、少し気まずい沈黙が訪れる。
 しばらくして、エリスはふっと顔を上げて、不安で含んだ青い瞳を大きくふるわせて、私を横目で見た。何かを言おうと微かに唇が動く。
 私にはまねできない大人びた表情。私から見ても、妙に色っぽくって、うらやましく、いじらしい。
 だから、私は仮面を剥ぎ取って、満面の笑みを浮かべてやる。
「よだれなんか垂らしてなかったよね」
 彼女のきれいな口元が一瞬で引きつって、肩が小刻みに揺れ始める。
 それを確認して、さっさとなだめるように彼女の肩を叩いて、脇を通り抜けた。
「お先に―♪」
 素知らぬ顔で扉を開けて外に出てから、くるっと後ろを向いてエリスに思いっきりあっかんベーをしてやって、そのまま走って逃げる。
「ソフィー!」
 すぐに背中越しに追ってくる足音が聞こえた。止まるわけにはいかない。
 青空の下で、笑いあうことができることが楽しくて仕方がなかった。
 円を描くように家の前の道をぐるぐる逃げ回った。
 後ろの方でエリスが懲りずに声を上げている。
 止まれと言われて、誰が止まるものか。
「朝から元気ね、二人とも」
 聞き馴染んだ声にエリスが立ち止まるのが聞こえた。私も立ち止まって声の主、リンダおばさんを見た。
「おはようございます」
「おはよう、ソフィア、エリス」
 彼女は両頬にえくぼを浮かべたやわらかな笑顔で挨拶を返してくれた。
 その笑顔には私たちを包み込んでくれる優しさがある。それは年のなせる業なのか(本人が聞いたら怒るだろうけど)。お向かいさんで、昔から両親と仲が良かったのもあって、両親の一件以来、いろいろと助けてもらっている。
「・・・おはようございます」
 エリスが少し遅れてふくれ面のまま挨拶すると、リンダおばさんはあらあらと微笑む。
「どうしたの、エリス?朝からそんなにむくれちゃって。せっかくのきれいな顔が台無しじゃない。今日は新緑祭の日なんだから。ほら、笑った笑った」
 リンダおばさんはそう言うとエリスに近づいて、いきなり頬を両手で引っ張った。
「おはしゃん!?」
 エリスは驚いて声を上げるが、言葉になっていない。
「そうそう、若い娘は笑顔じゃなくっちゃ」
 エリスの顔は無理やりおばさんの気に入る笑顔を作らされ、柔らかい頬はこれでもかというぐらいにのばされて、いろいろな顔にどんどん変わっていく。
 思わず笑ってしまった。
 しばらくエリスの顔をいろいろと引っ張って気がすんだのか、一人でうんうんとうなずいて、つまんだエリスの頬を放した。かと思うと、いきなりエリスの手を、続いて私の手を握って、歩き出す。
「さ、早く行かないとお祈りに遅れるわよ」
 いきなりの大股+早足のおばさんの歩みについていけず、二人そろって危うくこけそうになって、エリスが悲鳴に近い声を上げる。
「おばさん!」
 おばさんは止まって、何?って感じで私たちを見て小首を傾げた。
「あら、ごめんなさい」
 手を放されると、どっと疲れが湧いてきた。おばさんのペースにはめられるといつもこれだ。それにわかっていても毎回毎回はまってしまうのだから恐ろしい。
 救いを求めてエリスを見ると、目が合った。なんだかおかしくって思わず噴出してしまった。エリスも堪えきれず声を出して笑いだす。
「そうそう、そういう笑顔よ」
 そう言われて、エリスは一瞬キョトンとしたが、苦笑をもらし、すぐに眩しいほどの笑顔を浮かべた。
「はい」
 リンダおばさんは私たちの扱いが本当にうまい。それこそ、まるでお母さんみたいに。
 先に歩き出したおばさんの隣ついて、私は小声でささやいた。
「ありがとう、おばさん」
 おばさんは横目で私を見て、優しい顔を向けて
「ほんと、感謝しなさい」
 そう言ってから、おばさんは小さく舌を出して笑った。
 そんな可愛い仕草は、年を考えると不釣合いなはずなのに、なぜかこの人には違和感がない。
 エリスは私たちを少しだけ怪訝そうに見ていたが、私が横に並んで微笑みかけると、肩をすくめて仕方ないなといった感じで表情を緩めたのだった。


 家の前の小道のすぐ先は垂直に大通りが通っている。左右には私たちと同じように向かい合って同じ家が十軒ほど並んでいて、向かい側も同じ風に家が並んでいる。
 私たちは教会に向かってその通りを北に進んだ。
「おばさん、おじさんは?」
「ルースは今日お手伝いの日だから、先に行ってるわ」
「当番、今日だったんだ・・・」
 村の十五歳以上の男女全員から日に二人、教会で朝のお祈りの手伝いをしなければならない。
 朝早くに教会に行って、準備をし、進行の手伝いをし、最後に片づけを手伝って帰る。
 修道院の人たちだけでできることだが、日々の信仰を忘れず、また、式が上辺だけのものになったり、人々が自分たちと聖職者の間にあまりにもかけ離れた線引きをしないようにするのが、身近な人間が参加する目的だと神父様は言っていた。
 確かに、修道院を含む教会は、私たち一般庶民にはまったく未知の世界で、そこに住んでいる人々とは、一方的に話されることはあっても、会話することはほとんどない。彼らは住む世界が違う人々だった。
 お祈りの時に、見知った人間が神父様の横について一緒にお祈りを唱えている姿を見ると、なんだか教会そのものに親近感が湧いてくる。
 もちろん、私たちの女神様に対する信仰は確かなものだし、この習慣がなくなったからといって信仰が揺らぐとは思わない。
 けど、やっぱり、この習慣のおかげで神父様が、あくまで同じ人なのだと知ることは大切だと思う。
「そ、二ヶ月に一回の大役が祭りの日に回ってきたの。すごい運でしょう。おかげで寝起きの悪いあの人を起こすのに四苦八苦よ」
「特別な日に教会のお手伝いするのって、なんかいいな」
 確かにお祈りのお手伝いは朝は早いし、その後は修道院の掃除だとかを手伝って、開放されるのはお昼前ごろになるだろうから、それが終わってからじゃあお祭りには大遅刻だろう。
 それでも、一年の村の幸せを願う日に、神父様の近くで神様に感謝することができる機会が与えられるなんて、ひどく貴重で素敵なことに思えた。
「ソフィアは考え方がほんと前向きね。うらやましいわ、ソフィアのそういうところ」
 なんだかお母さんに褒められたみたいで、少し照れくさく、うれしい。
「おばさん、ちがう」
 えっ?とエリスの顔を見る。一瞬の間を置いて、エリスはにっこり笑顔を浮かべた。
「ソフィはのーてんきなだけよね」
「それ、どういう意味?」
「そのまんまだけど。天真爛漫だなーって」
「そうは聞こえなかったんだけど」
「それはソフィが皮肉れてるからでしょ」
「あ、そんな言い方する」
「ええ」
 とりとめのない口ゲンカ。それを楽しそうに見ているリンダおばさん。
 本当にいつもどおりの光景だった。
 その中で私は日常の幸せを噛み締めていた。女神への感謝とともに。




 気がつくと、自然と村人の列ができていて、私たちもそれに混じっていた。
 居住区を抜けると、いっきに視界は開け、両側には畑が広がる。
 今は低い麦の緑の絨毯に覆われていて、まさに新緑際にもってこいの光景だ。
 風になびくごとに、麦に当たる微かな太陽の光が変わり、きらきらと眩しいぐらいに光っている。
「いいお天気」
「ええ、お祭りにはもってこいだわ。雨にでも降られたら、せっかくのおいしいものもまずくなっちゃうもの」
 去年の新緑際のことを思い出して、私は苦笑した。去年はさんざんだった。
 朝から空は薄暗くて、それでも何とか降らなかったのに、あろうことか料理を中央の通りに並べてさあこれから騒ごうというときに雨がいきなり降り出してきたのだ。
 それはもう手加減のない強さだった。あのときほど神様のことを意地悪だと思ったことはない。
 男の人たちは、せっかく飲んで騒げると思ってたのに、と残念がっていた。でも、彼らはまだましだ。
 私たちは朝からがんばって作った料理がほとんど雨でだめになってしまったのだ。何とか食べられそうなのも、びしょびしょで水っぽくて、やっぱり食べれたものじゃなかった。
 苦労した分だけ、私たちはお祭りを楽しもうとしていたのに。
 さぁ、これからというタイミングであんな大雨を降らされたら、トラウマにもなる。
 

 日の光を全身に浴びるように背伸びをした。温かい光が気持ちいい。
「う〜ん、今日は晴れてよかった。――――あ!ラヴァさーん!」
 西の分かれ道から歩いてくるラヴァさんを見つけて手を振ると、彼もこっちに気づいて軽く右手を挙げて答えてくれた。
「おはようございます、クローチェルさん。おはよう、エリス、ソフィア」
「おはよう、ラヴァ」
 エリスは私には見せない優しい、幸せそうな笑顔で言う。
 ラヴァさんもそれに答えるように、優しい微笑を返す。
 毎朝のことだけど、その日はなんだか二人のことが地味にうらやましく、眩しかった。






「私たちのこの平安が、女神の安らかなる眠りのともにあることを忘れてはいけません。私たちが悪夢を恐れ、良い夢を好むように、女神も同様なのです。この世界が平和で、美しければ、必ずすべては良い方向へ行くでしょう。・・・・・しかし、逆もまた然りなのです。少しのことで、ほんの少しのことで歯車は狂うかもしれません。そのことをよく心に留めて、良きこと、尊き事を日々行うように心がけてください」
 神父様の声が薄暗い石造りの教会の中で、暖かに響いている。わずかな、それでもまっすぐに入り込んできている光が引き締まった空気の中に漂う埃を浮き立たせ、神々しいほどに美しい。
 彼は彫りの深い目の奥の暖かな眼差しで私たちを見渡して、柔和な微笑を浮かべて、静かに言った。
「祈りましょう。我らが母なる神よ――」
 私は胸の前で両手を組み合わせ、目を閉じて神父様に続く。
「私たちは貴女が見守っていてくださっていることを忘れません」
 大勢の声が重なる。
 この瞬間が私は好きだ。みんながひとつになるこの瞬間が。
「私たちの喜びも、悲しみも、苦しみもすべてが貴女のもの。御心のままに創られしこの世界。御心のままに創られしこの命。日々の糧に込められし御心を私たちは忘れません。生は眠り、死は目覚め。私たちは貴女とともに」
「女神に感謝」
 神父様の言葉が、私を自然に導く。
 瞼の裏に代わる代わる映っていく温かく、優しい光景に感謝し、深く祈った。
 この生活がいつまでも続きますように・・・・・。この幸せをいつまでも心の中に残せますように・・・・。女神さま、どうか私たちを温かく見守ってください。
「皆さん・・・」
 神父様の声に、私はゆっくりと目を開けた。
 視界には長いすに座った、見知った人のたくさんの後姿が映る。
「今日は新緑祭の日です。冬の間の苦しい生活ご苦労様でした。今年も農作業ををがんばってください。新緑祭は女神に悪夢の終わりを告げ、新たなる希望をお知らせする日です。ですから―――」
 彼は悪戯っぽい笑みを口元に浮かべる。
 普通の神父様には絶対似合わない表情。らしくない表情。でも、ミル神父にはとてもしっくりくる。
「今日は、歌って、踊って、食べて、大いに楽しんでください」
 ところどころで、おじさん達の笑い声が起こった。
「汝らに女神のご加護があらんことを」
「世界に女神のご加護があらんことを」
 お祈りが終わると、いつもどおり半分くらいの人は席を立ち、残りはそのまま横の人と雑談をし始めた。
 ちなみに、私たちは後者だった。
「さっ、二人とも若いんだから、今日はいーっぱいがんばってもらうからね。お昼の鐘がなるまでには用意し終えなくちゃいけないし、後片付けって言うのもちゃんとあるんだから」
 私は少し嫌そうな顔を、右に座ったエリスは困ったように微笑を浮かべる。
「がんばれよ、二人とも」
 そう言って慰めてくれているラヴァさんはおかしそうに笑っていた。
「いいなー、男の人は遊ぶだけで」
 ひどく甘えた声で少し驚いた。
 ラヴァさんにしか見せないエリスの態度は、少し自分に似ているように思える。私がいつもエリスに甘えてしまっている態度。甘えようとして甘えているんじゃない。甘えることができるから、気づいたら甘えてしまっている。そんな感じだった。
「あら、私にはがんばれって言ってくれないのかしら、ラヴァ?」
「クローチェルさんもがんばってください」
「ふふ、社交辞令でもあなたに言われるとうれしいわ」
 ラヴァさんは小さく笑って答える。
 なにをやっているんだかこの人たちは・・・・・。
「ねぇ、エ・・・・」
 同意を求めようと彼女を見て、思わず頭を抱えたくなった。
 エリスは眉間にしわを寄せて、恐ろしいほど鋭い目でリンダおばさんを睨んでいる。
「お・ば・さ・ん」
 一音一音が相手を威嚇するように鋭い。
 それを見て、おばさんは楽しそうに口元を緩める。
「冗談よ、冗談。・・・・・さてと、そろそろルースを手伝いに行こうかしら」
 おばさんは椅子から立ち上がって、両手を頭の上であわせて軽く背伸びをしだした。
 エリスが今にも唸りだしそうなものだから、私がいつものエリスの役目を負う。
「おばさんの家に行ったらいいんですね?」
「そ、少し遅くなるかもしれないから、先に下ごしらえしといてね」
 おばさんは自分の肩を叩きながらそう言って、今度は腰に両手を当てて伸ばす。
「はい」
「じゃ、お願いね」
 私のはっきりとした返事に満足げに微笑みながら、リンダおばさんは立ち上がって教会の奥へと歩いていった。
 祈りの手伝いをする人は教会から白い法衣を借り、それを着て式の進行を手伝う。
 祈りの間、前の方の端で蜀台を持って立っていたおじさんは、今頃は教会に法衣を返しているところだろう。
 さっきまで人でいっぱいだった教会も、今は三分の一ぐらいしか残っていない。
 いつもはもう少しみんなゆっくりしていくのだけど、今日はお祭りだから人の散りが早い。男の人たちは朝から酒盛りだし、女の人たちは料理だとかの準備で忙しいからだろう。
 おばさんがいなくなったのを確認してからあきれて言った。
「エリス、顔怖いよ。おばさんも冗談なんだから、そんなにいちいちむきにならなくたって・・・」
 エリスは疲れたようにため息をついて、少し拗ねたような口調になる。
「だって・・・」
 おかしそうにエリスを見ていたラヴァさんが、少しだけ困ったよう頬をかく仕草をする。
「お前の気持ちはうれしいんだけど、あそこまで睨みをきかされるとな・・。こんなんじゃおいそれとほかの子と話もできないし」
 ラヴァさんが苦笑混じりに言っていると、エリスの表情が見る見る沈んでいって力を失っていく。
「・・・ごめんなさい」
 エリスの少しうつむき加減でひどく沈んだ声に、今度はラヴァさんがひどくあわてた。
「いや、別に嫌ってわけじゃないんだ。むしろうれしいんだけどさ。・・・あの、なんていうか・・・・」
 それを聞いてエリスは救われてように顔を上げて、目でほんとう?って問いかける。
 見ていてこれほど愉快なものはない。
 だって、二人ともあまりにも普段のイメージとかけ離れているんだもの。
「このラブラブカップル♪」
「ソフィ!」
「へへ・・・」
 舌を出しておどけて見せると、エリスは半ばあきれたように目を細めた。
 ラヴァさんは助かったという風に、エリスに気づかれないように浅いため息をついてから立ち上がった。
「そろそろ俺たちも行くか」
「あ、うん」
 それから私たちは教会を出て右からラヴァさん、エリス、私といった順番に並んで歩いた。
 いつからだったかは覚えていないが。私たちはいつもこの順番に並んで歩いている。
「ラヴァはこれからどうするの?宴会に直行?」
 エリスの問いにラヴァさんは少し顔を渋らせて、肩をすくめて見せる。
「そうしたいのは山々なんだけどな」
「もしかして、今日も仕事あるの?」
「ああ。せっかくの祭りで、村総出で遊ぼうって言うのに。あの祭りは農民の祭りだから、俺たち職人には関係ないとさ。・・・・・・・ほんと石頭って言うか、皮肉れってるって言うか・・・・・」
「スコールさんらしい、かな」
 エリスはクスッと笑う。
「まぁな」
 スコールさんは村のはずれの小屋に独りで住んでいるおじいさんだ。
 自他共に認めるすごーい変わり者で、村の人は気がついたら、いつの間にか住んでいたと言っている。
 人ともめったに話さず、話すとしたら食べ物を買いに村に出てきたときぐらい。それも「これとこれ」とか「いくらだ?」とか愛想のないことないこと。
 私も挨拶したのに無視された記憶がある。
 彼に悪気がないのはわかっている。
 ただ、そういうことをする人ではないだけ。
 でも、私には人と触れ合わないで生きていくなんてできない。
 きっと彼のような生活なんて、さびしくって、さびしくって耐えられない。
 ましてや、みんなで楽しく騒ぐとき、仕事をするなんて絶対にできない。
 エリスとラヴァさんは何か楽しそうに話している。そんな二人を見て私は違和感を感じた。
 エリスの笑顔がどことなくぎこちなかった。それはほんの些細なものだったけど、私はふと大切なことを思い出す。
「ラヴァさん、もしかしてお祭りに参加できないの?」
 その一言でエリスの顔から笑みが消え一瞬で強張った。不安そうな瞳でラヴァさんを見る。
 言ってしまって、しまったと思った。聞いてはいけないこと。気付いてはいけないこと。あえて触れないほうがいいこと。それはそんな部類に入ることじゃなかったのか。
 三人の歩みが止まっただけなのに、まるですべての流れが止まったような錯覚に陥る。
 きっと私の顔も不安で一杯だっただろう。
 ラヴァさんはそんな私たちを静かに見て、優しく微笑む。
「いや、たぶん昼過ぎまでには行けるよ」
 それを聞いて、エリスは頬をきれいに緩めて笑顔になる。
「それじゃあ、おいしい料理作って待ってるから」
「ああ、楽しみにしてる。じゃ、またあとで」
 気がついたら、もうあの分かれ道だった。
「うん、またあとで」
 後ろに軽く手を振りながら、離れていくラヴァさんの後姿は気のせいかうれしそうに見える。
「よっぽどエリスの手料理が楽しみなんだね」
「違うでしょう」
 エリスは微笑を浮かべて小さく首を振る。
「え?」
「私と、あなた、でしょ」
「やっぱ手伝わなきゃだめ?」
「とーぜん」
 そう言ってエリスは声を出して笑い出した。
 私もつられて笑った。
 太陽はもうかなり上がっていて、あたりはすっかり明るい。
 その光がエリスのきれいな髪を照らし、金色は透けるように輝いている。
 笑いに合わせて小刻みに揺れる彼女の金髪は、なんともきれいだ。
 この姿を見て、見惚れない人がいるだろうか?
 私ではこうはなれない。
 人は見かけだけじゃない。
 エリスは、エリスだからきれいなのだ。・・・そして、私も私だから―――
 しばらく笑って、エリスが言った。
「ふふ…、行こっか」
「うん、さっさと終わらしちゃおう」 
 私は笑顔で返事をした。







―――――――――――――――◆―――――――――――――――――

 エリス達と別れてから、村はずれの小屋へ急いだ。
 知らず知らずに早足になっていて、柄じゃないなと思いつつ緊張しているのを自覚する。不安と期待が交じり合った妙な感情が俺の中を満たしていた。
 小屋に着き、扉に手をかけたまま、大きく深呼吸をして気を静める。
 そして、静かに扉を開けて中に入った。
「どうした、祭りに行っていいと言ったはずだぞ?」
 師匠は時計をいじくりながら、こっちを見ることなく言った。
 予想通りの反応に、肩をすくめ彼の顔を見る。
 もう五十になる彼の顔には深いしわがいくつかうかがえる。
 にも拘らず、老いた印象よりも厳しい印象を受けてしまうのだから性質が悪い。
 少し離れたここからでも、いじっている時計を見る彼の目は鋭い光を放っている。
 俺もこういう目をいつか持てるのだろうか?
 彼のこの目に俺は魅せられている。いつからかこの目を見ると、時々こういう不安とも期待ともつかないものがふと現れる。
 ・・・・時計を作る。そう、最初は金のためだった。
 最近、貴族だとか金持ち連中の間で時計を持つのが一種のステータスをあらわすことではやっていると聞いて、鍛冶屋をやめてここに来た。
 今にして思えば、自分のことながら馬鹿だったと思う。
 断られることなんか微塵も考えていなかった。ただ、自分の決断に酔っていた。そして・・・
 彼にしてみれば、俺なんかはいきなり来たどこぞの若造に過ぎなかった訳で、一瞥をされただけで扉を閉められ、門前払いされた。
 それから、少しずつ何か冷たいものが頭の中ににじみ出てきた。それはいきなり歯止めを失ったかのごとく溢れ出し、大きな焦りという感情になった。
 エリスのために金を稼ごうとしたのに、逆に自分が路頭に迷う羽目になるなんて!
 退けるわけがなかった。
 今にして思えばどうして頭を下げてでも前の仕事に戻るという考えが起こらなかったのか。小屋の前で頼み込んだ。次の日も、また次の日も、朝の祈りが終わるとすぐにここにきて日が沈むまで必死に頼み続けた。
 よくやめなかったと思う。
 返ってくるのは無反応という焦りだけ。頼み込めば頼み込むほど不安はふくらみ、終わりの保証されないことへの疲労が積み重なっていった。
 俺はそんなものを封じ込めるように、ただただ頭を下げ続けた。
「俺を弟子にしてください!」
「あなただけが頼りなんです!」
「お願いします、スコールさん!」
 柄にもないことをしたと思う。
 しかし、その努力は実った。五日目のことだった。
 昼ごろ、いきなり扉が開いてあの厳しい顔が現れた。
 何も言わず、ただ顎で中に入れと促しただけで、すぐに小屋の中に戻って行った。
 何が起こったのか、まったく状況が飲み込めなかった。ぼうっと突っ立ていると扉越しに怒鳴られた。別段大声というわけでもないのに、はっきりと耳に響いてくる声だった。
 思えば、師匠にあの時初めて怒鳴られた。
 小屋の中に言われるがまま入っていくと「飯を作ってくれ」の一言。言われるがままに有り合わせで料理を作った。物事がうまく運んだことは最初は意外だったが、すぐにうれしさと達成感が湧き出てきて、それをはるかに上回り少しも気にならなかった。
 まともに話をしたのは、彼が食べ終えてからだった。
 彼は口ひげを右手でさすりながら、俺をしばらく値踏みするように見回した後、静かに言った。
「住み込みが条件だ。いいな?」
「え?・・・・あの・・・・、じゃあ!」
 あの時ほど表情に安堵と期待が顕になったことはなかったと思う。たぶん大丈夫だとは思っていても実際に言葉で聞くとひどく安心した。
「ひとまずは仮だ。三ヶ月以内にまともな時計が作れたら弟子入りを認めてやる。後、俺の世話もしてもらうからな」
「はい!」
 彼は立ち上がって、少し離れた仕事机に向かった。俺はその背中に様々なものを重ね、期待に胸を膨らませてた。
・・・・・こうして、俺ははめられた。
 彼は俺に何も教えなかった。
 最初の二、三日はただ、言われるがままに家事をこなし、釈然としなかったけれど、立場をわきまえて下手に出ていた。そして一週間が過ぎ、俺の忍耐は限界を迎えた。
 俺の存在を完全に無視して、机に向かって時計をいじくり、飯を食い、また時計をいじくる。俺がどれだけ家事をかんばっても礼のひとつも言わない。
 何を考えているのかわからないことが、何もしてもらえないこと以上に俺をイラつかせた。
「いったい、いつになったら時計を触らせてもらえるんですか?」
 そして、返されたのは短い一言。
「誰が教えてやると言った」
 このとき、俺の中で何かが切れた。当然だ。彼の言葉は俺を言いように利用したとしか解釈のしようがなかった。
 握り締めた拳が震えた。今までこき使われてたまっていたものが一気に溢れ、思わず怒鳴り声が咽喉から出かけた。
 その時、ふとエリスの顔が脳裏をよぎった。
 優しい笑顔なのに、どこか儚げで張り詰めた、憂いを奥に秘めた笑顔。
 熱がすーと引いて、怒りが何か別のものに変わっていった。
 自分があいつの本当の笑顔が見たかったのだと思い出した。
 そのための手段として唯一思いついたのが、少しでもいい生活をさせてやることだったのだ。
 少しでも多くのいい思い出をエリスにやりたかった。そうすることで過去を封じ込めてやりたかった。
 エリスに、きっとあるはずの、俺がまだ一度も見たことのない、何の翳りもない笑顔を取り戻して欲しかった。
 そう思ったから俺はここにいるだと、心が固まった。
 それからというもの彼のすべてを盗んでやろうと、必死に彼を、とりわけ彼の手の中でできていく芸術を、それこそ穴が開くほど見てやった。
・・・・そして俺は彼の技に魅せられていった。
 神の御技。そんな言葉が頭に浮かんだ。
 それほどまでに彼は俺が思っていた遥か高みにいた。
 しかし、俺は食らいつき続けた。
 最近では、彼は俺の決意を試していたのではないかと思う。お前のやろうとしていることは生易しくはないぞと。
 もしかしたら、冷たい態度は彼の優しさだったのかもしれない。

「少しやり残したことがあるんで、それを終わらしたら行って来ます」
 俺は彼の向かいの自分の席に座って、机の引き出しから二つの作品を取り出した。
 きれいに研かれた金属光沢を帯びた鉄のチェーンがついた、同じ丸い懐中時計。
 この二つは俺が初めて自分の力で作り上げた納得のいくモノだ。
 後はねじを巻くだけで時を刻みだす。
 俺はこの二つに同じ時を刻ましたい。この対となる時計はそのために作った。
「女か?」
 彼はふと呟くように言った。
 俺は意外な面持ちで彼の方を見た。
「男が酒を飲むのをあきらめて、仕事なんかに打ち込む理由は、女ぐらいだ」
 相変わらず鋭い目で機械をいじっているが、その髭に隠れた口元には微かにゆるんでいた。
「ちがうのか?」
「いえ、そうです」
「二つ・・・、エリス・ミシェルとソフィア・ミシェルか」
「二人のこと、知っていたんですか」
 自他共に認める世捨て人が彼女たちのことを知っているのは意外だった。
 彼は手を動かすのをやめて、まるで遠い昔を思い返すようにすっと目を細める。
「それぐらい知っているさ。・・・かわいそうな姉妹だ」
 どこか儚く、悲しい笑みだった。
 こんな表情を見たのは初めてで、なぜだかひどく胸が疼いた。
 俺の中で、正体のわからない不安が膨らんでいく。それは、自分の中で絶対なものが壊れていくのに似ている。――たぶん怯えだった。
「・・・・・師匠」
 彼は何も答えなかった。
 代わりに一瞬で彼の目から翳りが消え、いつも通り目は鋭く細められ、無言で再び手を動かし始めた。
 彼の口に、一瞬だが浮かんだ表情が頭に深く焼き付いて離れなかった。





―――――――――――――――◆――――――――――――――――――――

・・・・・だめ、・・・・もう我慢できない。
 家の中に立ち込めているいい匂いが私の鼻腔を刺激する。目を閉じて目一杯吸い込むと、まるで心の中まで入り込んでくるようで幸せな気分になれる。
 でもそれだけ。こんなんじゃ私ぜんぜん満たされない。
 目をゆっくりあけると、私の欲望を駆り立てるもの――――よく煮立った鍋がある。
 クリームを煮込んだいい匂い。いつもの豚肉の塩漬けと豆を煮込んだだけの、しょっぱそうな味も素っ気もない匂いじゃない。
 豚の生肉に、新鮮な牛乳、チーズ、そして新鮮な野菜、そしてそして、保存状態のいいワイン!
 これもいつもの酸っぱいだけのやつじゃない。甘みと酸味が程よい、この日のためだけに、領主様のお蔵で保存しておいてもらった、とっておき。
・・・おいしそう。
 喉がなった。手が自然と伸びていく。
ごめんなさい!・・・・・・でも少しだけならいいよね?
 心の中で先に謝るだけ謝ってスプーンを手にとる。
「・・・・ソフィ」
 びくっと肩が震えて背筋が伸びた。恐る恐る後ろを向くと私を睨むエリスがいた。
「何をしてるのかな?」
 冷ややかな視線に、静かで平坦な声がかえって怖い。
「えっ、えへへ・・」
 私はスプーンを後ろ手に隠して引きつって笑う。
・・・どうやら至福の時はまだ少し先のようだ。
「もう・・・。もう少し我慢しなさい」
 私は心の中で舌打ちをし、大げさに肩を落としてみせる。
「・・・だって、おいしそうだよ。・・・・・だめ?」
 上目遣いで媚びる。これで普通の人なら一撃だ・・・・。
「だ・め」
 さすが双子と意味もなく感心する。少しも取り付く島がない。
 ああ、可哀想な私。ほんの少しのつまみ食いも許されないなんて。気分はそう、悲劇のヒロイン。
 でも私は諦めない。 
「一口だけ。・・・ね?」
「ソフィ、いい加減にしてよ。いい年してつまみ食いなんて、それも私が少し居なくなった時に――。子供じゃあるまいし・・・。だいたいね、いつもいつも―――」
・・・また始まった。
 思わずため息をつきそうなって、寸前で止める。
 何でエリスはこうも頭が固いんだろ?絶対、自分を私の保護者だと思ってる。
―――まぁ、言われるようなことをしたのも事実だけども。
 でも、だからって双子の姉妹にここまで言われると面白くない。
「ソフィ、聞いてる?」
「はいはい」
 いかにもめんどくさそうに答えたので、エリスはさらに怖い顔になって唇を尖らせた。
「わかってる人はそんな顔し・ま・せ・ん」
 自分でも飽き飽きするぐらい、毎回毎回同じパターン。
 そして、そのたびに思う。何で私たちは双子なのに、こうも性格が似ていないのかって。
 双子って、こういう時に一緒につまみ食いをして、秘密を共有するものじゃないのかしら。これじゃあまるで――――
「・・・ソフィ、もうすぐお昼だからそれまで我慢して」
 エリスは諦めたのか、呆れたのか大きくため息をついて言った。
「はいはい」
 いつもどおりの展開がなんだか面白くって笑ってしまう。
 いきなり笑い出した私に、エリスは怪訝そうに眉をひそめた。
「なに?」
「ん、エリスってほんとお母さんみたいだなって」
「ほんと、誰のせいだろ」
 かすかに笑って、エリスは中身を焦がさないように鍋を混ぜ始めた。
「別に悪い意味じゃなくって。なんか大人だなーって」
「大人よもう。ソフィもそうでしょう?十七なんだし」
 私はエリスの後ろの椅子に座って、両手でテーブルに頬杖をついてエリスの後姿を眺める。
「私はまだ子供だし」
「そんなことないわよ。十分大人よ」
「そうかな・・・・?」
「そうよ」
 私にはエリスが精神年齢が高い(老けてる)ようにしか思えない。・・・・もちろんそれは私に比べてだけど。
 私は村のほかの子たちと一緒にいるときはこんな風に思ったことはない。
 なぜだかエリスだけがやけに落ち着いて見える。
 年齢どころか外見まで一緒で、ずっと一緒に暮らしてきた私との違いは、いったいどこから生まれてしまったのか?
 たぶん物心ついたときからすでに違っていた。
 エリスはいつも私よりも半歩先を歩いている。
 ほかの子達の母親のようにきれいになりたいと思うそれは、私にとってはエリスへの憧れだった。
 娘だからよりも、双子だから、より一層強い確信と羨望。
・・・・・・追いつきたい。
 胸の奥底で眠っていた気持ちが久しぶりにこみ上げて来た。
 エリスのことがねたましいとかじゃない。ただ肩を並べたい。
「今日・・・、ウォルフさん来てくれるかな?」
 無意識に呟いていた。
「ん?領主様の所に服を売りに来るって言ってたから、寄ってくださるかもね。来てくださったらおいしい料理をご馳走しないと」
「そうだね・・・・。それぐらいしかできないもんね」
「どうしたの?」
 エリスは首だけ動かして私をかえりみる。
 私は笑ってごまかそうとしたけど、ひどく曖昧なものにしかならず、俯いてしまう。
 エリスが再び鍋に視線を戻す気配を感じた。
 自分の手が見える。もじもじと指を絡み合わせている。情けない。
 これじゃあダメだと思った。
このままじゃ前に進めない。一歩一歩踏み出していかないと何も変わらない。何も得られない。何も―――
「あのね・・・」
 エリスはこっちを見なかったけれど、聞いているのはわかった。
「あのね、エリス・・・・私・・・」
 エリスはふと振り向いた。優しい目が私を見る。
 何をしても許される、そう思える温かい瞳だったから、私は意を決することができた。
「・・・私、ウォルフさんのことが好きなの」
 エリスの反応はない。そのおかげで私は続ける。
「いつからか、あの人といるとすごく胸が締め付けられるみたいに、苦しくなるの。でも、同じぐらい気持ちよくって、ほかのこと考えられなくなって。・・・迷いが、心に迷いがなくなるの。なんていって言うのかな・・・、たぶん・・・好き、そんな気持ちだけになるの。最初はそれがなんだかわからなかった。けど、今なら自信を持って言える気がする。私、決めたの。今日逢えたら、私、ウォルフさんに告白する」
 一気に言ってうつむいた。顔が真っ赤に火照っている。
すごく恥ずかしいこと言った気がする・・・・。
 でも、後悔は無かった。ただ不安があった。
エリスは何て言うだろう?
 今までずっと考えてきた。応援してくれるだろうか?それとも止めるだろうか?
 もしかしたら驚いて何も言えないかもしれない。
「やっと言った」
「え・・・、・・・・・もしかして、気付いてた?」
 エリスはおかしそうに笑う。
「あたりまえでしょ。ずっと一緒にいるんだし、それに私たち双子なのよ。彼といるときのソフィの態度見てたらわかるわよ。―――大丈夫、あなたの気持ち、すごく伝わってきたもの。ウォルフさんの前でもソフィはちゃんと言える、想いを伝えられる。だから、ね、がんばれ、ソフィ」
 驚きよりもうれしさで胸が一杯だった。
 エリスに、優しく見守ってくれていたことに感謝した。励ましてくれるエリスの存在の温もりを感じ、気がつくと涙が後から後からとめどなく溢れていた。両手でぬぐってもぬぐっても、絶えることなく、瞳を、頬を濡らしていく。
「ちょっと、ソフィ!」
 そんな私に驚いたエリスがあわてて駆け寄って来きて手を伸ばしかけたまま、触れずに触れられず、情けないくらいあたふたする。
「くす・・うふふ・・・」
 そんなエリスがひどく滑稽で私は笑い出した。
「・・・ソフィ?」
 エリスはきょとんとして困り顔になる。
 そんな彼女が愛おしく思えた。
 同時に勇気が湧いてきた。彼に自分の気持ちを伝える勇気が。
 今まで告白は一人でするものだと思っていた。
 でも、今は違う。私にはエリスがいる。
 エリスが私を支え、背中を押してくれる。きっと、どんな結果になっても優しく包み込んでくれる。
 私は飛びっきりの笑顔でエリスを見た。
「ありがとう、エリス。私、がんばってみる」
 涙で視界がゆがんでいたけど、エリスの優しい笑顔だけははっきりと見えた。
 そのときコゲ臭いにおいがした。
「エリス、鍋!」
 私が叫び、エリスはあわてて鍋をかき混ぜ始める。
 らしくないエリスのミスがなんだかうれしくって、私は涙をぬぐって笑った。
「人のことばっか気にしてるからだよ。エリスも自分のこと、少しは気にしないと。――そうだ!せっかくなんだからお母さんのドレスでも着てみたら」
「いいわよ、別にへんな気、使わなくても」
「そんなんじゃ、いつかラヴァさんに愛想尽かされちゃうよ」
「はいはい」
「ふーん、ふられない自信あるんだ。――でも、ラヴァさん喜ぶと思うけどな」
「そう思うならソフィが着たら?せっかくなんだしいい機会じゃない、ウォルフさんのためにさ」
 エリスは、なぜか頑なだった。
「・・・・着たくないの?」
 エリスは振り返らずに答えた。
「別に・・・、ただ、私にはまだ早すぎる気がする。あれって、お父さんがお母さんにプレゼントしたものじゃない。・・・・・なんだか重いわ」
 エリスはふとこっちを見て、少し寂しげに曖昧な笑みを浮かべた。
 それだけで、エリスの迷いが痛いほど伝わってきた。
 いない人の思い出といる人の笑顔。
 積み重ねられた思い出に、新しいものを重ねていくこと。
 父さんたちのものから、自分たちのものにすること。
 そんなことをしてしまっていいのだろうか?
 その気持ちはわかる。
 でも、うまく言うことはできないけど、エリスは今あのドレスを着ないといけない。そう思った。
「早くないよ。エリスとラヴァさん、ラブラブじゃない。二人にも負けてないよ」
「ソフィ・・・」
「ラヴァさんもきっと綺麗なエリスを見たがってる。それに私も見たいな。―――着て、せっかくなんだから、ね」
 私の言葉を聞いて、エリスは再び鍋に視線を落とし、何も言わない。
 いい香りの立ち込めた部屋に、重い沈黙が満ちていく。
 出すぎたこと言ちゃったかな・・・。
 少しだけ後悔が湧いてきた。
 でも、すぐに私はそれを否定する。
 後悔するなんて間違ってると思ったから。
 ただ、沈黙だけが私の心を重くしていく。そして――
「・・・着てみよっかな、お母さんのドレス」
「エリス!」
 エリスは照れ笑いを浮かべていた。



――――――――――――――――◆――――――――――――――――――――

 二つの時計の最後のチェックを済ませ、師匠に見てもらおうと立ち上がった。
 あれから五時間、師匠は今も手に持つわずか直径一センチの歯車を整形し続けている。
 集中力、視力、技術、どれからも老いを感じられない。
「見てもらえますか?」
「ん、・・・できたのか?」
 視線を手元に固定したまま聞いてきた。
「はい」
 俺が答えると、すぐに作業をやめて、部品とやすりを机の上に置くと、俺の手から時計のひとつを取る。
 耳元で軽く上下に振ってみて音を聞き、つぎにゼンマイを巻いて目を閉じて、しばらく時計の刻む音に耳を澄ます。
 しばらくして無言で手に持った時計を差し出してきたので、俺はそれを左手で受け取って、代わりに右手にもつもうひとつを差し出す。
 師匠は無言でそれを受け取り、同じようにして時計の鼓動を聞く。
 壁にかかっている時計の、規則正しい音がいやにはっきりと聞こえる。
 チクタク、チクタク、チクタク・・・・・
 やがて、彼はゆっくりと閉じていた目を開けて俺を見た。
 思わず唾を飲み込んで、出てくるであろう言葉を待つ。
 やれることは精一杯やった。技術を、想いを、注ぎ込めるだけ注ぎ込んだ。
 そう自分に言い聞かせても、不安だけがとめどなく溢れ出てくる。
 ふと、彼の口元がわずかだが緩んだ。
「・・・よくできてる」
「あ、ありがとうございました!」
 俺は反射的に頭を下げていた。
「別に何にもしてやってないさ。お前がただ自分で見て、真似ただけだ」
 頭を上げて、彼を見た。
 あったのは今まで見たことのない優しい目だった。
「祭りに行って来てらどうだ?ちょうど盛り上がってる頃だろ」
「はい」
 俺は手早く机の上を片づけ、二つの時計を持って扉を開けた。
「・・・・・守ってやれよ」
「え?」
 俺が振り向くと、師匠の鋭い視線がそこにあった。
「守ってやれ」
 有無を言わさない強さがあった。その瞳にも、言葉にも。
 俺は今一度自分に意思を確認する意味を込めて、それに力強く肯いた。
「はい」
 師匠は満足したのかしないのか、俺には興味を失ったように、再び視線を下に向けて手を動かし始めた。
 俺の心は晴れやかだった。何かをやり遂げたことに、そして、それを恋人に渡せることに、満たされていた。


―――――――――――――――◆――――――――――――――――――――

 広場のあちこちで、笛や太鼓やバイオリンといった楽器によって賑やかな音楽が奏でられている。
 それに合わせて、ある人は一人で、ある人は恋人同士で踊ったりなんかしている。
 ステップだとかそんな上品なものは微塵もないけど、見ていてなんだか楽しかった。
 エリスはきっと今頃、鼻歌交じりでお母さんのドレスに着替えている。
 料理ができたあと、私はそれを広場に届けに、エリスは着替えと、前の晩から家で寝かせておいたラヴァさんのために作ったスープを取りに戻った。
 別れてからかれこれ二十分、私は特にすることともなく、こうして広場のテーブルに座って人の中に埋もれていた。別に何をするわけでもなく、おいしいワインを飲んで、ぼーっと辺りを観察する。
 ほかの同年代の女の子たちは一人もいなくって、ここで馬鹿騒ぎをしているのはほとんどが三十を超えた人ばかりだ。
 きっと彼女たちは秘密の場所で、誰かと逢引中に違いない。
 私たちみたいな乙女には人前でキスしたりだとか、熱い抱擁を交わしたりなんて早すぎるわ。
――なんて思っていたけど、また一組、また一組と若いカップルが現れては、見てるだけでこっちが恥ずかしくなるようなことをやってくれている。
 予感はしてた。きっと、こういった光景を嫌になるぐらい見せびらかされるだろうって。
 今日、告白を決心した理由のひとつはこれだった。
 エリスにあれだけ見せびらかされて、とどめにこれだ。私にだって少しは焦り、憧れる気持ちはある。
 私は自分に言い聞かせるように力強く頷き、目の前のグラス一杯に入ったワインを一気に仰いだ。
 少し酸っぱくて、けれど甘い味がした。
「はー」
 ワインの飲み干すと、心なしか気持ちがさっきよりも楽になった。一気に飲んだせいで、少し酔ったのかもしれない。
 私にはこれぐらいがいいと思う。普通の状態じゃ、あの人を前にしたらきっと黙り込んでしまう気がする。
「ソフィアはやけ酒?」
 振り返るとフレデリカが立っていた。亜麻色のショートヘアーを無造作の垂らした、少しふっくらとした顔に悪戯っぽい笑みを浮かべている。
 少し顔は赤いけど、目の焦点はしっかりしている。
 フレデリカも私と同じ、この村で数少ない年頃のシングルだということを、本人を目の前にしていまさらながら思い出す。
「違うわよ。フレデリカこそどうなの?」
 彼女は楽しそうに踊っているカップルを、うれしそうに眺めて言った。
「私は別にいいの。好きな人いないし、人の恋愛話をするほうが楽しいわ」
「それ、すっごく嫌な性格じゃない?」
「そう?」
「たぶん。・・・・・なんか、おばさんっぽいよ」
「ほめ言葉として受け取っとく」
「このひねくれ者」
「彼氏なし」
 私とフレデリカは同時に吹きだした。
「――ねぇ、エリスは?」
「もうすぐ来ると思うよ。今は愛しのラヴァさんを思って着替え中」
「相変わらず仲がいいんだ」
「そりゃもう、こっちが見てて恥ずかしいぐらい」
「そして、妹はさびしくやけ酒か」
「怒るよ」
「まぁまぁ、私が一緒にいてあげるから。ほら、優しい私の胸に飛び込んでおいで」
 そう言って、フレデリカは聖母のように目を細めて、手を広げてみせた。
「ばか」
 そう言ってワインのグラスを傾ける。
「あ、ひどーい。本気なのに」
「はいはい」
 目を閉じてため息をついた。
 別にフレデリカをこんなやり取りをするのは嫌じゃない。
・・・でも、なんだか空しい。
「こいつ」
 グラスをテーブルに置いた瞬間、反応もできないほどすばやく両脇から手が回されて、背中から抱かれた。背中に柔らかなふくらみを感じた。
「ちょっ、フレデリカ!」
 彼女は無視して、すっと耳元に寄ってきて、ドキッとするほど甘い声で囁いた。
「寂しいなら素直になれば良いのに」
 口から言葉が紡ぎだされるたびに、彼女の温かい吐息が耳をなでる。
「私も寂しいの。ねぇ、ソフィア、私じゃ、貴女の胸に開いた穴を埋められないの?」
 今度は心臓がトクントクンと大きな鼓動を刻みだした。
「冗談はやめてよ。あははは・・・」
 横目で見ていたフレデリカの目が潤いを帯び細められる。
「本気」
「いやだ・・。もういい加減に」
「私じゃダメなの?」
 憂いに満ちた目はふっと俯き、頬は薄朱色に染まっている。
 いよいよまずい。
「私もう我慢できない。前から・・・・、ずっと前から・・・」
 これって、・・・禁断の恋?
 辺りを見回す、酔っ払ったおじさんが何がおかしいのかニヤニヤと私たちを見ている。
 背中に彼女の温もりがスーッと広がった。自分のわき腹を細い指が優しくなでていく。
 今まで感じたことのない感覚に、思わず背筋が伸び、喉から声が漏れそうになる。
 抗うことができなかった。
 彼女がまた私に囁きかける。
「・・・・私、昔からソフィアの――」
 鼓動が早まる。
 息が止まった。
彼女の口から発せられた言葉は私の耳の中にそっと入ってきた。
「――脇をこそばしたかった」
 さっきまでの優しい手つきと一変して、細い指が激しく私の脇の上を動きだした。
「きゃ!ちょっと、やめ・・、やめて・・・あっは、くすぐったい」
 さっきまでこっちを見ていた人たちは、がっかりしたようにお酒を一気に仰いでいる。
「思ったとおり、いい反応。それ」
 フレデリカの人差し指が私の脇すこし下のほうをつく。
 衝撃が体を走り、反射的に体がくねる。
「あっ!きゃは!・・こら!・・もう、・・やめて・・・、いい加減にしなさい!」
 フレデリカはぱっと私から離れると、にっこり笑って言った。
「はい、おじさん達、ショータイム終わり。よかったでしょ?」
 彼らはお酒を飲むの止め、少し恥ずかしそうに苦笑を浮かべた。
 私は息も絶え絶えで思いっきり睨んでやった。フレデリカは素知らぬ顔でニコニコ私を見下ろしている。
 お酒の勢いもあって、思いっきり怒鳴ってやろうと思った。
 そのとき――

 きれいな、黒い馬車が見えた。

 そこには、不釣合いなほど質素な服を着た彼がいた。

 あの人の豪華な馬車が広場の入り口に止まるのが見えた。

 頭の中が一瞬真っ白になる。
 その瞬間はずっと待っていた瞬間なのに、私は戸惑ってしまう。
 それでも、次の瞬間には立ち上がっていた。
 これはきっと神様が用意してくれた瞬間だと思ったから。
 運命の舞台を神様は私に用意してくださったのだ。
 すべてが自分に味方してくれているように思えた。
 私達は今日という日にめぐり逢えたのだ。
 後は、私次第。
「ソフィア?」
「ごめん、フレデリカ。ちょっと用事ができちゃった」
 彼女は首を傾げて解からないって感じだったけど、私は彼の所に走り出していた。
 もう止まらない。私は走り出したのだから。
 なら、もう、進むしかない。
 不安は感じなかった。どうなるかなんて解からなかったけど、今、この瞬間だけは勇気を持てた。
 もう、どうにでもなれだ。
 私はあの人の元に駆けた。
 愛しいあの人のもとに、胸の内の熱い思いが成すがままに、私は駆けた。

                                                  第二章 完







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