13.平穏な職場
いよいよ店が開店すると、私は弱音を吐かずに働いた。
重たいサンドウィッチが胃に溜まって、不安を押しつぶしてくれたから。
――いいえ。
それも一理あったけれど、本当のところはそうではない。
弱音を吐く暇なんて……!
朝のコーヒーショップは、イーズガーベージ中の人間がこぞってやってきたんじゃないかと思うほどに混んだ。
イアンがこの状況を一人で切り盛りしてきたなんて、まったく信じられない。
宵越しジャンキーの朝早い夕食に、目覚めたばかりの老人達の朝食。
カウンター前には、稼ぎに出る男達がテイクアウトフード(たいてい、チリドッグ)を求めて列を成す。
イアンは飛び交う注文や催促の声に、いつもと変わらぬ低い調子で答えながら、ただ黙々と注文をさばいていた。
そんな私は彼の隣で、出来たてのチリドッグを待ちわびる男たちのために、熱々のそれを紙袋につめ、料金表を見ながらレジを打つ作業に集中する。
打ち慣れないレジ、もちろん説明なんて受けていない(「どこのレジも、たいてい一緒だろう」)。
しかも、メニューも値段も覚えてない(「ここで飯食ったことがあるだろう、充分だ」)。
左手にメニュー表、右手は人差し指を伸ばして、レジのボタンの上をうろうろする。
早押しクイズよりもエキサイティングだ。
けれども、確かにイアンの言うとおり、どこのレジもたいてい同じ。
バーコードリーダーがないことや、会計ボタンを押すたびにチーンと音が鳴ること以外は、以前働いていたフードショップのものと大差なく、慣れるのに時間はかからなかった。
メニューも決して多くはないし、どうにかなるわ。
というか、今のところはどうにかなってるって言っていい。
しかし同時に、障害も多かった。
客達は新しいウェイトレスに興味深々だったから。
とりわけ厄介なのは、私がキャットの女であることを知って絡んでくるヤツらだ。
しつこいし、下品だし!
けれど、ウルフやユンの名前をチラつかせた途端に、彼らは大抵尻尾を巻く。
キャットがノース・ホワイト・ウルフに仲間入りしたことを知らない者は多く、ウルフの名前は、そんな彼らに面白いくらい効果覿面だった。
ウルフ一味の女に手を出すと、それはそれは恐ろしいことになるらしい。
私はまた一つ武器を手に入れた。
ようやくカウンターに並ぶ行列を消化したとき、時計は一時を指していた。
ふと我に返ってみると、客足はいつの間にやら途絶えていて、店内は私の知っているいつもの光景になっていた。
暇をもてあました客達が、なんとなく群れたり、なんとなく新聞を広げたり、なんとなくコーヒーを飲んだり、なんとなくいちゃついている。
本来なら、ランチタイムで込み合う時間帯なのに、変わった店。
たっぷり昼休憩をもらって店頭へ戻っても、仕事は特になかった。
イアンはラジオで野球を聞きながら、新聞を広げている。
あんまり暇なので、イアンのためにコーヒーを入れようと思ったときだった。
ドアベルを鳴らして、すらりと細い影が三人入ってきた。
まるでアイドルグループのような、黒いエナメルの衣装に身を包んだ、三人の女たち。
そのうちの一人に見覚えがあった。
背が高く、出るところは出、締まるところは締まったモデル体型。
艶やかでみずみずしい黒髪、通る鼻筋、大きな瞳に冷めた眼差し。
まさに掃き溜めのクレオパトラ――ウルフの横にいた、イルマという人だ。
彼女はちらりと私に一瞥をくれ、特に何の反応も示さないままカウンター席に座った。
その後に続く二人は、明らかにイルマの取り巻きという感じだ。
私をみて、挑戦的に微笑んでいる。
感じ悪い。
イアンが新聞を置き、無言のままカフェオレの用意をし始めている。
彼女たちも常連かしら。
すると、イルマの左隣に座っている、巻きの細かいパーマヘアを長く伸ばした女が、「ねえ、アンタさ」と声を掛けてきた。
ノース・ホワイト・ウルフに所属して一日目。
私に話しかけてきた、初めての女性だ。
愛想よく微笑んで「なに?」と尋ねると、彼女の整った顔に、下心丸出しの男たちより性質の悪い笑みが浮かんだ。
目を細め、口だけで笑っている。
「なんでキャットなのさ?」
「え?」
唐突過ぎて質問の意味すら理解できずにいると、少年のように髪の短いもう一人の女が、食いつくように身を乗り出した。
「むしろ、キャットに聞くべきじゃない? ずいぶん小さいのを選んだのねって」
パーマ女がケラケラ笑う。
「サイズがぴったりだったんじゃないの?」
……何の?
結局、私はからかわれた。
応戦しようとも思ったけれど、勝算のない喧嘩は買わない。
三対一では、明らかに分が悪かった。
「おかげさまで」
私は肩をすくめ、少し眉を下げて、微笑を絶やさないまま言った。
私はウェイトレス。
彼女たちは客。
「あらそう」
面白がるように、縮れパーマの女が言う。
「まんざらでもなさそうだけど、残念ながら選ぶ男を間違えてるわ、子猫ちゃん」
「どんな理由で選んだのかは知らないけどね」
大げさにゲラゲラ笑われると、さすがに腹が立った。
なんなのよ!
わざわざ私をからかいに来たわけ!?
あんまり腹が立ったので、私は目を伏せ、グラスを拭くのに集中した。
彼女たちは客。
だけど、これはりっぱな営業妨害だ。
今度からかったら、グラスを投げるから!
「ねぇキティー、これは忠告なのよ?」
ショートヘアの女は私のほうに身を乗り出すと、しつこく私に話しかける。
黙ってったら!
そう思いつつも、私はそれを口にすることも、グラスを投げることもできなかった。
「もっと逞しい男につかなきゃ、この街ではやっていけないの」
「ユンはどう? 彼もアンタを気に入ってるみたいだし」
「そうね。とりあえず一回寝てしまえば、彼が面倒をみてくれるわ」
二人は、勝手にどんどん話しを進める。
私は、三秒でうせろTシャツを着て来ればよかったと後悔しつつ、お世辞笑いをどうにか浮かべた――自分でも驚くほど、上手くいかなかった。
けれども、私が頬を引きつらせていようが、リーダー格のイルマが黙っていようが、香りの良いカフェオレがカウンターに並ぼうが、二人はとにかくしゃべりっぱなしだった。
否応なしに耳に流し込まれる会話の中から、縮れ毛のほうがミリアムで、ショートヘアのほうがジニーという名前だということがわかった。
ウルフの部屋で見た気高さが、ここでは半分以下――いや、むしろマイナスね。
整った容姿だけに、下品さが際立っている。
イアンは聞いているのかいないのか、新聞の向こうに額を覗かせているばかり。
キャットのことに関しては助け舟を出してくれそうにないし、第一、この女達の話題に首を突っ込みたくはないはずだ。
そのとき、「ほおう、お前が噂に聞く雌猫か」と、呻るような声が迫った。
声のほうへ顔を向けると、奥のテーブルに群れていた男たちの中から、男が一人歩み寄ってくる。
ぱさついた長髪に、いかにも喧嘩上等といわんばかりのヴィンテージスタイル。
無精ひげを生やした口元をにやりとゆがめ、タバコを咥えている。
見覚えがある顔だ、ええっと――。
ミリアムとジニーが噛み付くようにふり返った。
イルマは我関せずとばかりに、マグカップに視線を落したままだ。
「ジョー、なんか用? 今あたし達がこの子としゃべってるんだけど」
ジニーが鋭く男を睨んだ。
そうそう、ジョー・マクラブだわ。
ジョーはミリアムとジニーを無視して、カウンターに腕を乗せ、私の品定めを始めた。
アルコール臭い。
「なんだ、まだガキじゃねぇか」
タバコを噛み、歯の間からつまらなさそうに言った。
私は彼の顔を間近に見て、彼のお眼鏡に適わなかったことを神に感謝した。
「おつむの弱いキャットには丁度いいんじゃねぇか?」
ジョーの連れ合いたちが、面白がって集まり始める。
私はちょっとばかり怖くなって、狭いカウンター内で後ずさった。
どのタイミングでウルフの名前を出そうかしら。
野良猫の後ろには、獰猛な狼が控えているのよ。
強気な発言が喉元まで出かかったとき、イアンが新聞を畳みながら「おい」と声を出した。
「奥からニンジンを取って来てくれ」
鼻で指示を出す。
さすがイアン!
肝心なときはちゃんと助けてくれる。
私はウルフという切り札を仕舞いこみ、さっさと店の奥に引っ込もうとした――が、カウンターを越えて伸ばされた野蛮な手が、私の腕を掴んで引き戻した。
「なんだよイアン、俺達は別に悪さしようってんじゃねぇんだぜ? ちょっとこの可愛いお嬢さんと話しがしてぇんだよ」
私は腕を振り回してジョーの手から逃れると、「仕事の邪魔をしないで!」と怒鳴った。
けれども、強気に出たのはあまり賢い選択ではなかったらしい。
ジョーはカウンターを飛び越えんばかりの勢いで身を乗り出し、私のエプロンの肩紐を捕まえると、自分の方へ乱暴に引っ張った。
私は思わず悲鳴を上げたが、ジョーのどら声にかき消された。
「生意気なところはキャットそっくりだ!」
私の悲鳴に、イアンが気色ばんだ。
「いい加減にしろ!」
彼が私を掴むジョーの腕を掴もうとしたときだった。
「うるさいよ」
静かなのに響きの良い声が、ピシャリと場の空気を凍らせた。
ジョーは一瞬きょとんとすると、「なんだと」と苛立ちを露にしながら声の主を探す。
その間に、イアンが私の腕をジョーの爪から解放してくれた。
声の主は、イルマだった。
彼女はカフェオレに目を伏せたまま、さらに言った。
「私はアンタの濁声を聞きに来たんじゃない」
リーダーの発言を合図に、ミリアムとジニーが、ジョーの前に立ちはだかった。
五、六人の男達にも引けをとらない堂々とした態度。
キル・ビル、あるいはバイオハザードの主演を勤められそうだ。
「最近妙に威勢がいいじゃないの、狂犬。うちの組の下っ端相手に、幅きかせてるらしいじゃない?」
「この娘はノース・ホワイト・ウルフに入ったんだ。ウルフの女に手出しゃ、ただじゃすまないよ」
品はないけれど、なんて頼もしい美女たちかしら。
「けっ」
ジョーはタバコを吐き捨てると、黄色い牙を剥いた。
「貴様らこそ、ウルフの穴の分際で調子にのってんじゃねぇよ、アマどもが。ウルフの時代なんざ、とっくの昔に終わってんだ」
ガタッ――。
ついに、イルマが動いた。
ミリアムとジニーの間を割ってジョーの前に立ち、相手を見つめる。
そう、ブラックホールのような大きな瞳で、ただ見つめている。
それは、すごみを効かせた睨みより、鋭いものがあった。
私が息を飲んで見入っていると、イアンが私を店の奥へ押しやった。
確かに、女が殴られるところなんて見たくないし、安全地帯こそ私に相応しいフィールドだ。
でも、女が鮮やかに男を叩き伏せるところは、なんとなく見てみたい――ふと、サミー・バレットのことを思い出した。
すると、そのとき。
ドアベルが鳴った。
いやに間抜けなカラーンという響きが、一触即発の空気に水を差した。
ぶつかって火花を散らしていた殺気が、一気に入り口に注がれる。
呑気にあくびをしながら入ってきたのは、ストレイ・キャットだった。
相変わらず、タイミングが良いのか悪いのか。
彼は帽子の下から眠そうな目を覗かせ、もごもごと言った。
「よお、マクラブ」
声が、ついさっきまで眠っていたかのようにしゃがれている。
次に、カウンターの前に総立ちになっている顔ぶれを眺めると、水を浴びせられたかのように驚き、目を瞬いた。
とりわけ、スタイルの良い女達に。
「いつから彼女らの引き立て役に買われたんだ? ジョー・マクラブ。ははは――」
誰一人笑わなかった。
キャットは、あれ? というように私を見たけれど、申し訳ないことに、ニコリともしてあげられなかった。
残念。
あなたはやっちまった。
キャットは唇を結び、右を見て、左を見た。
そしてようやく、自分が青筋を浮かべた男達に囲まれていることを理解すると、やべっ! という表情を残して店を飛び出した。
真の獲物を見つけた狂犬たちは、目をぎらつかせ、吠え散らしながら、野良猫を追って出て行った。
あっという間に、戦場はただのコーヒーショップに戻っていた。
ミリアムとジニーはキャットの間抜けぶりを嘲笑い、イルマとイアンは何事もなかったかのようにそれぞれの定位置に腰を据えなおす。
私はキャットのことが気に掛かったが、それほど心配はしていなかった。
なにしろ彼はもう、腰抜けのフリをする必要はないわけだし。
今までジョーに殴られてきたぶんを、倍にして返していることだろう。
キャットが無事に帰還したとき、店内には、ほんのりと黄みを帯びた西日が差し始めていた。
その頃にはミリアムとジニーの姿もなく、イアンとイルマ、そして私の三人だけだった。
キャットは当然のようにカウンターの奥に着き、ぶかぶかのロングTシャツをはたいて汚れを落した。
自分のお気に入りの場所で毛繕いを始める猫、ってかんじ。
「ほこりが舞います、お客さん」
私は彼の前にトレーを準備しながら言った。
キャットは青い瞳だけを上げて私を見ると、「よう、看板娘」と微笑む。
ユンとの一戦で負ったアザ以外、目新しい傷は見えない。
どうやら、ジョーに借りを返せたようだ。
チリドッグを乗せるお皿と、ホットミルク用のマグカップを用意し、私は嫌味っぽく言った。
「ここが安全な職場だってことが良くわかったわ」
キャットは帽子を取り、赤毛のボウズ頭を撫で上げた。
狂犬を打ちのめしたのであろう拳骨が、誇らしげに赤く盛り上がっている。
「そうさ。俺の隣にいるより、ずっと安全だ」
「どういう意味?」
「そういう意味です。早くホットミルクをもらえないかな、お嬢さん」
「ふざけないでよ。本当に、戦場になるところだったんだから!」
私が言っても、キャットはしれっとしている。
「でも、ならなかった。だろ?」
「それは結果でしょ。ジョー・マクラブに絡まれたのよ? 殴られるかと思った」
なおも詰めると、キャットは頬杖を付いて、自慢げな顔をした。
「でも、何事もなかった。お前の歯は全部揃ってるし、鼻血も出ていない。それが結果だ」
なんとなく気に食わない。
肩をすくめてきびすを返すと、小さな手鍋が私の行く手を遮った。
イアンが促すように、それをコンロの方に差し向ける。
コンロの脇には、冷蔵庫から出された牛乳が、ほんのり汗をかきながら待機していた。
私が作るの?
反抗的な顔でイアンを見上げると、驚いたことに、彼は少し笑っていた。
「不味いミルクはごめんだぜ?」
キャットがカウンターの向こうから言う。
そんな言い方をされると、私だって退くわけには行かない。
私はキャットを振り返り、挑発的に微笑んだ。
「安心して、とびきり熱くしておくから」
ミルクに練乳を溶かし、沸騰しないよう気をつけながら、弱火でゆっくりと温める。
たったそれだけなのに、私はこの上なく真剣に調理した。
だって、不味いとか言われたら腹が立つじゃない?
仄かに甘い湯気を立てるミルクをカップに注ぎ、既に出来上がっていたチリドッグと共にトレーに載せると、それをキャットの前に出した。
彼はトレート私を見比べてから、ポケットからクシャクシャの紙幣を引っ張りだし、二本の指で差し出した。
唇の端がにわかに持ち上がっているが、それ以上に、鼻が笑っている。
舌を火傷すればいいわ。
キャットはカップを手に取り、もったいぶるように香りを確かめてから、恐る恐るミルクをすする。
火傷してたまるか、というように。
私は腕組みをして見守った。
ご感想は?
すると、キャットは何を思ったのか急に笑い出し、ミルクを吹き出さないようどうにか飲み下した後で、派手にむせた。
「なんだよ! ぬるいじゃないか!」
私は拗ねた。
すると、それまで空気のような存在だったイルマが、小さく音を立ててカップを置いた。
彼女は二杯のカフェオレと一皿のラスクを、たっぷり時間をかけて食べ終えたところだった。
キャットは、まるで初めて彼女の存在に気付いたかのように、しげしげとその姿を眺めた。
イルマは何事も言い残さなかったけれど、私は「ありがとうございました」とその背中に言い、彼女の綺麗な肩甲骨を長く見送った。
ようやくカウンターに顔を戻すと、キャットが、それよりも長く彼女を見送っていた。
まだ咳を引き摺りながら、どこか、怪訝そうな顔で。
To be continued...

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