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第58話 くるみ国開国顛末その1
 午後3時、クラリスたちは帝国議事堂をジープで出発しました。
 出発前、クラリスはノア氏に言いました。
「あなたはここに残りなさい。くるみ国には帰りづらいでしょう」
 ノア氏は驚いて訊きました。
「わたしがいなくてもかまわないんですか?」
「かまいませんよ。このわたしがくるみ国に帰るのですから、あなたなんてもう必要ありません」
「はあ・・」
 ノア氏はほっとしたようながっかりしたような顔をしました。
「ほら」
 クラリスが人差し指を軽く振るとノア氏の両手の金の腕輪がゴトンと下に落ちました。拾い上げると元のリングのままで、不思議です。
「二つ合わせて1キロは優にあるでしょう。くるみ国を出ていくあなたへの餞別です。どうぞ健やかにお過ごしなさい」
 首相がじいっと物欲しそうに見ています。ロベルトは不思議に思って訊きました。
「この程度の量でそんなに価値があるんですか?」
「ああ、そうとも! この世界で金は非常に貴重だ。1キロなら今現在1000万オーロルの値打ちがあるだろう」
 それはどの程度の価値なのか?大統領が教えてやりました。
「俺の計算したところくるみ国の公務員の給料ざっと5年分だ。もっともくるみ国はこの国より遙かに物価は安いだろうから単純に比較はできねえがな」
「我が国でも3年は十分生活できますよ」
 首相はニコニコして答えました。
「ですからどうぞ安心してたくさんの人にこちらに移住してもらうよう宣伝してください」
 首相はゴルディーンの大暴れの後始末でいっしょに行けなくなってしまいました。
「いずれ必ず訪問させていただきますよ」
 首相にとってくるみ国は黄金の国です。
 ノア氏が硬い表情で緊張しながらクラリスに尋ねました。
「クラリス様。是非お答え願いたいのですが、わたしが女神さまの像を破壊したのはクラリス様の意志によるものだったのでしょうか?」
 今となってはノア氏は自分が何故あんな馬鹿な真似をしたのか自分の心が理解できなくなっているのでした。
 クラリスはしらっとした目でノア氏を見て言いました。
「何を言っているんです。わたしはあなたがああするだろう事は知っていました。しかし、このわたしが母の顔を壊せと命令するわけないでしょう」
「すみません」
 ノア氏は頭を下げてしょんぼりしました。大統領が見かねて言ってやりました。
「だがあんたは敢えてこの人をその場にいさせたんだろう?あんたがやれと命令したのと同じじゃねえか」
 ゴルディーンとピエロをプラスチック漬けにしたことによって大統領のクラリスへの心証は最悪になっています。クラリスは馬鹿にしたようにフッと笑って答えません。大統領の心証は更に悪くなりました。
 あの、とロベルトがクラリスに言いました。
「俺もここに残っちゃ駄目ですか?」
「駄目よ」
 クラリスはロベルトにはピシャリと言いました。
「あなたはいっしょに来なさい」
 そうだぞ、と大統領も言いました。
「ここに残ってどうする気だ? 戦争が起こるんだぞ? まったくどいつもこいつも、どうしてそう平気でいられるんだ?」
 無関心を決め込んだつもりでも大統領はやっぱり苛々とその場にいる全員を見渡しました。
「俺にはおまえらの無神経が理解できねえ」
 まあまあ、とクラリスが言いました。
「ですから人間とはこういうものなのです。わたしの気持ちが少しは分かったでしょう?」
 大統領はフンとそっぽを向きました。もうクラリスとは口をききたくありません。
 クラリスはロベルトに念を押しました。
「いいですね? あなたはくるみ国に帰ったらすぐにクララさんからエメラルドの祝福を受けなさい。分かりましたね?」
 ロベルトは不承不承、はい、と答えました。クラリスが側にいるおかげか最初の頃のような激しい痛みはありませんが今も鈍い頭痛がドクンドクンと脈打っています。こんな状態でいながらくるみ国に帰りたがらないのは、よほど祝福を受けて前世を思い出すのが嫌なようです。
 ノア氏は今さらながらクラリスに尋ねました。
「もしわたしもいっしょに連れ帰ってくださいとお願いしても?・・・・」
 クラリスは冷たく言いました。
「駄目です。わたしが許すまで帰ることはなりません」
 ノア氏は頷いて悲しい顔をしました。やはり追放です。
 では、と首相は大佐に言いました。
「陛下の警護は頼んだよ。あちらでも『テロ』はあるようだからね」
 大佐はゴルディーン捕獲の不手際を詫びに戻ってきたのですが、首相がくるみ国に行けなくなったので替わりに事情を理解している大佐に同行を命令したのです。
 大佐は敬礼して「はっ」といかにも軍人らしくはっきり答えました。

 午後4時30分。5台のジープでクラリスたちは白薔薇山の麓に到着しました。
 白薔薇山。
 標高8000メートルのロベルトの知識で言えばエベレスト級の山です。ただし山の形はしていません。直径5000メートルの円柱であり、ほぼ直角に絶壁が屹立する台地と言うより文字通り柱です。
 その名の通り白い岩肌をしています。ゴツゴツして上へ伸びる岩肌が無数の薔薇の木が化石したように見えなくもありません。ただしこの名称はその見た目よりこの山が出来た伝説に由来しています。
 200年前一夜にして出来上がった巨大な白い岩の柱。この柱が伸びる前、大地には一年中花の咲き誇る白バラの森があったそうです。決して何人も入ることの許されない白魔女カラベラスの魔法の森。そう、今やおとぎ話の伝説ではありますが外の世界でも女神カラベラスの白バラの森はその存在が記憶されているのです。今も子どもたちはあの柱の上には女神さまの白バラの森が花を咲かせているのだと教えられています。
 かように外の世界でもカラベラスはメジャーな伝説の存在なのです。
 それに対してその娘クラリスは、数々の伝説を残してはいるものの、母親ほどメジャーで尊敬と憧れを集める存在ではありません。
 クラリスは人間の歴史にはっきりその存在を記録されています、大政治家ルピネーの私設外交官として。歴史的に具体的な記録があるため魔女としての伝説はかえって、大ルピネーの一番の友人を讃えるための作られた演出だろう、というのが歴史学者の定説です。
「へへっ、おとぎ話の中でまで母親の陰に隠れているな」
 大統領が嫌味を言いましたが、
「ああ、その説を流したのは、わたしなの」
 とクラリスは澄まして言いました。
「そうしておいた方がいろいろ都合がいいのでね。母は過去の人。わたしはずーっと現役ですからね」
 大統領は面白くありません。
「なあ、あんたさあ、そうやって陰から物事を操ってばっかりいて、実はすっげえ根暗なんじゃねえか?」
 これにはクラリスも目を丸くして、実に心外だとムッと大統領を睨みました。大統領は、ハハハハハー、と笑って、そっぽを向きました。
 遙か離れた首都からもはっきりその姿を見ることのできる巨大な円柱は、だから麓まで来ると遙か空果てるともなくそびえ立つ岩の壁です。
 15メートルほどの高さに大統領たちが出てきた穴が開いています。ゴルディーンの崩した岩の階段が出来ていますから登っていくことも不可能ではありませんが、教皇様には無理です。
 そう、ポーロ教皇もいっしょです。クラリスが是非と勧めましたし、教皇自身異教のものではあっても神の奇跡というものを見たい好奇心もありました。教皇にとっては自身の信仰の強さを確かめる挑戦のつもりもあります。教皇に従う白の騎士たちも同様です。
 クラリス、大統領、ロベルト、宗教家、科学者、大佐、大佐の部下10名、ポーロ教皇、白の騎士7名、以上24名がこれからくるみ国に入国します。他に待機の部隊が10名います。
「では始めます」
 クラリスは岩壁に向かって両手を広げ、目をつむりました。
 ドンッ!
 と、衝撃が突き上げ、
「わっ」
 とみんなよろめきました。さすがの大佐まで踏ん張りきれず部下と支え合ってようやく立っています。白い騎士たちは教皇を守って固まり、大統領も片膝を突き、ロベルトなど尻をついて「わっ、わっ」と悲鳴を上げています。
 ゴゴゴゴゴゴゴゴ・・
 と、地響きを立てて岩壁が地面に潜っていきます。
 15メートルの高さにあった穴が地面まで下りてきて、岩壁の沈下は止まり、地響きもオン・・オン・・オン・・・・とエコーしながら遠ざかっていきました。
「さあ、これでこの穴をくぐって50メートルも行けばくるみ国です」
「本当ですか?」
 この中で一番驚いているのはポーロ教皇かも知れません。まさに人間業ではない奇跡を目の当たりにして、我が神「サイン」以外の神の存在を認めないわけにはいきません。
 神か、あるいは悪魔か・・・
 ポーロ教皇の人生最大の試練が始まるのです。
「白薔薇山は本当は500メートルの高さだって言ったよな?」
 大統領が訊きました。
「それじゃあ500メートル山が沈んだってことか?」
「そうです。くるみ国でも大地震が起こって大騒ぎです。
 タイトワイヤ大統領。まずあなたとロベルトの二人で行ってクラリッサたちにこれからわたしたちが行くことを説明してくれませんか?」
「いいのかよ?」
 大統領は挑戦的にニヤリとして言いました。
「これから女神の娘が来る、じゃなく、この世界を破滅に追いやる魔女と悪の軍団がやって来るって言ってやるぜ?」
「どうぞ。勝手になさい」
 クラリスは冷たく言いました。
「混乱が起こってどうなるか?ノアのテロ騒ぎであなたも十分分かっているでしょう?」
 大統領はムッと押し黙りました。
「分かったよ。ありのまま報告してやるよ。その結果どうなろうと、それは俺の知ったこっちゃねえぞ」
「了解。20分経ったらわたしたちも行きます」
 大統領は、行くぞ、とロベルトを引き連れ穴に入りました。
 入った瞬間外の明るさが消え、真っ暗になりました。代わりにクラリスの言ったとおり50メートルほど先に白い明かりの出口が見えます。ズンズン歩いていくと、明かりがどんどん大きくなっていって、裾が広がって三角形になり、恐る恐るこちらを覗いている人影が見えてきました。大統領の部下たちです。
「本当に帰ってきちまったんだなあ・・」
 感慨深く思って「よお、変わりはないか?」と尋ねました。
「閣下! ご無事で。たった今大きな地震がありまして、この岩が・・・」
 大統領が出て振り返ってみると、
「うおっ、こいつはすげえな」
 驚きました。元の大岩を頭に乗せた高さ30メートルもあろうかという岩のピラミッドが立ち上がり、かがまなければくぐれなかった入り口の穴がピラミッドの一面全体に広がっています。
 みんな集まっています。
「よ、お久しぶりですなあ、長官殿」
 硬い表情のクラリッサに挨拶します。
「さて、俺はちゃんと約束の時間に戻ってこられたのかな?」
 大統領は二つの世界の時間の速さの違いを考え、ひょっとして向こうで半日過ごして帰ってきたら二日半が経っているのではないかと心配したのですが、腕時計は4時40分を差しています。これが真夜中にこちらを出発したその日の夕方4時40分なのか?
「ええ。魔女の課題の期限まであと7時間あります」
「そりゃよかった」
 どうやら今度は時間がシンクロしているようです。どういう仕掛けになっているんだか。
 ロベルトもびっくりした顔で出てきて、クララはほっとして笑顔で迎えてやりました。
「ロベルト。ああ、良かった。ちゃんと迷子にならないで帰ってきたわね!」
 ところがロベルトは変に大人びた感じでフンと澄ましてそっぽを向きました。かわいくありません。でもその横顔にクララの知らない深刻そうな事情が伺えて不安になります。
「ねえ、ノアさんは? ゴルディーンも?」
「ノア殿は向こうに残った。ゴルディーンとピエロは・・・、戻ってこねえ」
 大統領が答え、その深刻そうな様子にクラリッサが恐い顔で尋ねました。
「ピエロとコロンビーヌが帰ってこないとはどういうことです?」
「それはな・・・・」
 さすがの図太い神経の大統領も言葉に詰まりました。
「裏切られたんだよ、二人は」
 ロベルトが冷たく意地悪な顔で言いました。
「クラリスが向こうの世界の軍隊に二人を売りやがったのさ」
「クラリス!」
 クララは驚きました。アラベラさん以外皆同様です。
「ク、クラリスが向こうの世界にいたのか!?」
 ヴァイオレットも驚いています。
「向こうで何やってんだよ?」
 大統領が仕方なく重い調子で吐き捨てるように言いました。
「神様として神聖ロヴィーク帝国の皇帝に君臨しておられるのさ!」

 大統領は20分という限られた時間で向こうの世界の様子を簡潔に説明しました。
 戦争なんて起きていなかったこと。
 こちらとは比べ物にならないほど高度に機械文明が発達し、信じられないほど巨大に街が発展していること。
 しかし環境汚染は進み、発展しすぎた世界は残された天然資源を巡って紛争が耐えず、もしユリアが未来の予言をしていたならその予言は近い将来ことごとく当たりそうなこと。
 外の世界では前の戦争から100年しか経っておらず、どうやら時間の流れる速さが違っているらしいこと。
 クラリスは向こうの世界でも神として崇め奉られ、神皇帝として国を率いていること。
 クラリスの神聖ロヴィーク帝国は非常に軍事色が強く、好戦的な方向に国全体が傾いていること。その象徴が国の守り神であると同時に戦争の神であるカラベラスが信仰を集めていること。
 そして、
 クラリスの約束した「新天地」は外の世界であり、
 今ここにクラリス本人がやってきてくるみ世界を外の世界へ解放すること。

「そんな馬鹿な!」
 と、これまでクラリス役を演じてきた偽クラリスのヴァイオレットが猛然と抗議しました。
「クラリスが皇帝になんてなるわけないだろ!あいつはそういうのが一番嫌いなんだ! それに新天地が外の世界のわけないだろう!あいつは何百年も前から人間のために別の世界に新天地を用意してやってきたんだぜ!?」
「俺だってなあ」
 大統領が心底嫌そうに言いました。
「信じたくねえぜ。俺だって女神さまをずいぶん融通の利かねえ石頭だと思ってきたが、それは子どもをかわいがりすぎる過保護ぶりに対してだ。まさかあんな悪魔のような女だったなんて思いもしなかったぜ」
 一同の中で一番ショックを受けているのは明らかにクラリッサです。
「嘘です・・・・。わたしは、信じません・・・」
 大統領は気の毒そうな顔をしましたが、
「おっと、もう時間だ」
 午後5時。
「これから外の世界の人間たちといっしょにクラリスが来る。不満は、本人に直接ぶつけてくれ」

 さすが軍人、時間きっちりに大佐が現れました。さっと軽く敬礼して、くるみ世界の人間たちは生まれて初めて見る外の世界の人間におっかなびっくり好奇心の視線を浴びせました。大佐はくるみ国人と距離を取って立ち、ぞろぞろ部下の兵隊が従って後ろに整列しました。宗教家が出てきて、科学者が出てきて、白の騎士たちに守られてポーロ教皇が驚きの表情で出てきて、そして・・
 クラリスが出てきました。

 つかつか歩いてきて外の人間を後ろに従えて立ちます。
 二十三、四のスラリとした長身の女性。豊かな濃いゴールドの巻き毛を腰まで垂らし、緑とも紫ともつかない不思議な瞳の大きな目をした美人。青紫のぴったりした絹のドレスを着ています。クレオパトラ・シルヴィさんも思わずたじろぐ美しさです。
 クラリス。
 クララは目を丸くしてまじまじと現れた女神の娘を見ました。間違いありません、クララを無の闇の中からすくい上げてくれた黄金の天使様はこのクラリスです!
 しかし、印象が少し違います。小さな口に柔らかく微笑みを浮かべていますが、どことなく意地悪な嫌な印象を受けます。目つきもどこか人を見下すようなところがあります。
 本当にあの天使様でしょうか?
 間違いない、と思ったのも束の間、クララはまた迷ってしまいました。
 あ、そうだ、と横のベニオに小声で尋ねました。
「どう? あれ、本物のクラリスに間違いない?」
「さあ? わたしの前世が知っているのは子どもの頃のクラリスだけですから。でも本物だと思います。どうも間違った大人に成長してしまった感じがしますが」
 クラリスがじろっとベニオを見て、ニッコリ笑いました。
「聞こえているわよ。ベニオ、いえ、ベラ。あなたとはいろいろ懐かしい話をしたいわ。面倒を始末してから後でゆっくりね」
 やっぱり本物のようですわね、とベニオは言いました。
 いえ、ベニオよりもっと本物を見分けられる人物がいました。・・いえ、やっぱりあんまり当てになりませんが。
「やい、こら、クラリス!」
 ヴァイオレットです。
「おまえ何やってんだよ!? 遊びにしちゃ冗談が過ぎるぞ!」
「ヴァイオレット。ごめんなさいね。でもあなたの頭じゃわたしがやろうとしていることは理解できないでしょうね」
「な、なんだとおっ!?」
 髪の毛まで真っ赤になって怒るヴァイオレットを、おほほほほほ、と馬鹿にした笑いであしらいました。完全に感じ悪いです。
「ばっ・・、馬っ鹿やろう・・・・・」
 かわいそうにヴァイオレットはひどく悲しそうに目に涙を滲ませました。
「クラリス様」
 真っ青な顔をしてクラリッサが尋ねました。かわいそうに。
「本当なのですか? 新天地とは外の世界のことなのですか?」
「ええ」
 とクラリスは頷き、
「クララさん。ベニオ。おめでとう選ばれし勇者たち。あなた方の勝ちです。さあ、約束通りくるみ国の国民に新天地を開放しましょう」
 クラリスは白薔薇山に向かってしたように両手を大きく開き、目を閉じました。
 突然アラベラさんが声を上げました。
「おやめなさい、ノア」
 その声にクラリスは目を開け、じろっとノアに目を向けました。
 赤毛のノアは目をギラギラ光らせ鬼の形相でクラリスに突進していきました。手にはしっかりナイフが握られています。
「死ね!女神!」
 クラリスは、ノアの顔を見てなんとも言えない不可思議な笑みを浮かべました。
「ノアール・・」
「え・・」
 瞬間ノアの表情がふっと解けました。

 パアンッ。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ・・・・・・・・・・・
 ・・・・・・
 ・・・
 ・

 また死の感覚がクララを襲いました。
 脳に過剰な電流がラッシュし、一気に全ての機能が全開となり、時間が止まるほどゆっくりになりました。
 極端なスローモーション。
 クラリスの白い額の中心に赤い筋が立ち、赤い霧が弾け、どんどん濃く、空気を真っ赤に染めていきました。
 クラリスの目が一瞬寄り目になり、上を向いて白目を剥き、首が衝撃でガクンと揺れ、体が引きずられるように前のめりになり、膝が折れ、
 どおおお・お・おおおおお・・・
 と、クラリスは無防備に地面に倒れました。
 ノアの足元です。ノアの目が信じられないようにクラリスの倒れる様を追っています。

「キャアアアアアアアアアアアアアアア」
 悲鳴が上がりました。
「キャアアアアア、キャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ」
 胸のえぐられる、耳を覆いたくなる恐ろしい悲鳴です。
「キャアアアアアアアアアア、
 キャアアアアアアアアアア、
 キャアアアアアアアアアア」
 悲鳴は途切れては上がり、途切れては上がり、決して止むことはありません。
「キャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」

 クラリスの倒れた後ろで大佐がピストルを構えています。銃口から白い煙が上がっています。
 クラリスが、女神の娘が、神が、
 銃に射たれて死にました。
 そんな、馬鹿な。

「ば、馬鹿な!」
 ヴァイオレットが叫びました。
「冗談が過ぎるって言っただろう! やめろよ、全然面白くねえぞ! どうせまたおまえの幻術なんだろう? やめろよ、やめろ、やめろ、やめろ、やめろ! ばっかやろう! 分かってんだぞ、おまえが死ぬわけないじゃないか!
 ・・・おい、なあ、クラリス。おいってば。やめろよ、恐いよ。あたいを怖がらせてそんなに面白いか? なあ、もうやめてくれよ。分かった、降参だよ。謝るよ。だから、な?もうやめてくれよ、お願いだよおおお〜」
 ヴァイオレットはよろよろクラリスに近づこうとし、ヒッと怯えて身を引き、ジワリと溢れてきた涙をボタボタこぼしました。
「嘘だ・・、こんなの、嘘に決まってる・・・・・」
 そうだな、と大佐は言いました。
「神皇帝陛下は幻術がお得意のようだ。油断は出来ませんな」
 大佐は爪先でクラリスの体を上向かせると、
 パアンッ、
 心臓に一発、
 パアンッ、
 頭部に一発、ピストルを射ちました。クラリスの体は衝撃でかすかに揺れただけで、頭を射たれると血と共に白い脳漿を飛び出させました。
「フム。やはりお亡くなりのようだ」
 てめえ! と大統領がいきり立ち、大佐の部下たちがいっせいに銃を構えました。ポーロ教皇を守る白の騎士たちはマントの下に隠し持っていた鉄仮面をかぶり、フードをかぶりました。金の十字架を折り曲げ構えます。これもピストルです。白の衣服の下には特別製の防弾スーツを着込んでいます。三者睨み合ったまま動きません。
「何故だ? 何故あんたらの神皇帝陛下を殺した?」
 大統領は怒りにブルブル震えながら問いました。神皇帝がどうとか言うより、目の当たりに見た進歩的な文明人の蛮行に対する激昂です。
「くるみ国を開国するのはけっこう。くるみ国を出てくる者も我々は受け入れよう。ただし、出入国は我々が管理する。つまり、出ていくのはいい、我々が神聖ロヴィーク帝国の一員としてふさわしい人間になるよう責任を持って教育しよう。しかし、くるみ国に戻ることは許さん。くるみ国は神聖ロヴィーク帝国の一部として我々が管理する」
「つまり、金か?」
 大統領は眼力で射殺すほどきつく大佐を睨んで詰問しました。
「てめえら金を独り占めするつもりなんだろう?」
「独り占めとは人聞きの悪い。我々は着服はせん。金は全て国民のものとなる。一部のくるみ国人の私物ではなく、な。彼らも帝国の一員になるのだから彼らのものでもある」
「つまり政府のものか。どうせその金で軍隊を強化するんだろうが?」
「そうなるかも知れない。しかし、それも必要でなくなるかも知れない」
「どういうことだ?」
「それだけ大量の金が手に入れば、戦争など起こさなくても我が帝国は繁栄を維持することが出来ると言うことだ。同時に、戦争の象徴である神皇帝陛下も、ご用済みとなる」
 教皇に向かって、
「首相よりのメッセージです。我が国は平和国家として世界平和に貢献することを外交の第一義とする所存です。どうぞご安心を」
「ふざけるなっ!!!」
 大統領はとうとう溜まりかねて怒りを爆発させました。
「てめえらどうしてそう自分勝手なことばっかり出来るんだ!? どうせゴルディーンたちを研究して無敵の機械人間部隊を作るまでの時間稼ぎだろうが! なにが世界平和だ! どうしてそう自分のことばっかり考えやがるっ!!!」
 金?金ですって? と、真っ青になったクラリッサが唇を震わせ、目を踊らせ、明らかに異様な様子で問いました。
「そんなもの我が国にありません」
「あるんだとよ」
 大統領が吐き出すように言いました。
「歴史の殿堂の下にごっそり金銀銅が埋められているそうだ」
 大統領はクラリスの死骸を見て眉を苦悶させました。
『だから言わんこっちゃねえ』
 首相の異様な目の輝きをクラリスに忠告してやらなかったのが悔やまれます。いえ、
『何故だ? 幻術を操り人の心を操ることを得意とする魔女が何故首相の心の内を見抜けなかった?』
 いえ、クラリスが本物の魔女なら見抜けなかったはずはありません。では、
『大佐か? こいつは命令さえ受ければ平気で人を殺せる奴のようだ。軍人としてそれを美徳と思い込んでいるんだろう。その異常な鉄の心を見抜けなかったのか?』
 そうかもしれない、しかし、もしかして、
『全て承知の上か?』
 何もかも知っていて、敢えてそれを受け入れたのだとしたら?
『それが、神としてのあんたの責任の取り方か?』
 クラリスは明らかに外の世界の人間に絶望していました。人間たちを今の状態に導いたことを悔いてもいました。そんな過ちを犯した神である自分にも嫌気が差していたのかも知れません。
『バッカヤロウ。それでも、あんたがそんなアホウな人間どもにつき合って死んでやる必要はねえだろうが? だいたいよお・・』
 くるみ国はどうする? カメリア国はどうなるんだ?
 そうだ、クラリスは女神の娘だ! 女神は、カラベラスは何をしているんだ!?
 クラリッサが震える声で言いました。
「金・・・。そんな・・、そんな物のために人を殺したのですか? そんな物、欲しければいくらでもくれてあげます。いえ、いいえ! 駄目です! 絶対にさせません! 歴史の殿堂の下ですって? これ以上あの場所を冒涜することは絶対に許しません!」
 哀れ、クラリッサも目つきがおかしくなって、壊れてしまっています。
「だからだろう?」
 大統領が言いました。
「外に出ていきたがるのは若い連中が中心だろう。そいつら追い出して、できるだけ邪魔のいなくなったところで歴史の殿堂を掘り返すんだろう? 当然それを知ればくるみ国の国民は怒り、実力を以てしても阻止しようとするだろう。当然争い・・戦闘が起こるだろう。だがあんたらにとっちゃ屁でもねえだろう。その銃で簡単に殺せるからな。例えくるみ国250万皆殺しにしようとも、あんたらは金が欲しいんだろ?」
 大佐は冷静に答えます。
「さよう。ですから、お嬢さん、クラリッサ殿? できるだけ多くの国民に外へ出るようにお勧めになるのですな。正直に言って250万もの難民を受け入れさせられるのはこちらも非常に迷惑なのですがな。抵抗されるのなら、ま、若い兵士たちの実戦訓練代わりにちょうどいい作戦になりますかな」
「なんと、なんとひどい・・・」
 クラリッサは幽霊のような顔で言いました。
「今はっきり分かりました。やはりユリアを通して女神さまがおっしゃっていたことは全て本当なのです。外の世界は、まごう事なき地獄です!」
「住めば都という言葉はありませんかな? あなたも国の指導者ならどうぞ冷静な判断を国民のためにしておあげなさい」
 クラリッサは憎しみのこもった目で大佐を睨みましたが、ふと、目に力が無くなりました。視界に今や血の海に横たわるクラリスの姿が入ります。彼らは、これからこうした死体の山を築くことをなんとも思っていないようです。
「なぜ・・・・・・・」
 多くの「何故」が頭の中を渦巻き、クラリッサはとうとうよろめき、誰かに支えられました。力無く見ると、アラベラ様でした。
「クラリッサ。しっかりなさい。あなたは、闘わなくてはならないのです。国民の命を守ること、それがクラリスがあなたに課した使命です」
「でも・・・」
 ジワリと涙が浮かんできて、うっ、うっ、と少女のようにアラベラ様の肩で泣きました。
「耐えなさい。まだ、これからです」
 アラベラ様は少しでもまともな人を捜し、シルヴィさんにクラリッサを任せました。シルヴィさんもどこか常人と神経の在りかが違っているのが幸いしてか、ボーッとしながらもわりと平気な顔をしています。こういうタイプは後から何倍にもなって衝撃が襲ってくるので恐いですが。
「なるほど」
 大佐が今度はアラベラ様に向かってピストルを構えました。
「あなたが後継者、クラリス四世陛下というわけですか?」
「よしてください」
 アラベラ様は銃口を向けられてもまるでそれがオモチャででもあるかのように平気な顔をしています。
「わたしは何もするつもりはありません。人間のすることに一切手を出すなと言うのが母の遺言です。あなた方が何をしようと、わたしの知ったことではありません」
 アラベラ様はズイズイ歩いていって、大佐は警戒してずっと銃口を向け続けました。
 アラベラ様はクラリスの頭の上に立ってその無惨な死に顔を見て言いました。
「これが死」
 ヒクリと眉を動かして一種恍惚とした表情を浮かべました。
「神を気取ったあなたには当然の報いね」
 アラベラ様のとなりにノアが立ち尽くしています。
「ねえ」
 ノアもまたじっとクラリスの血にまみれた顔を見下ろしたままアラベラ様に問いました。クラリスは白目を剥き、口をだらしなく半開きにし、明らかな肉体の死を示しています。
「嘘よね? わたしがこの人の娘だなんて・・・」
 アラベラ様はそっとノアの肩を抱き、ノアはヒッと震え上がりました。
「まだ思い出さなくていいのよ。いずれ時が来れば全て思い出すわ」
「答えてよ!」
 ノアはアラベラ様を見て叫びました。ギラギラ攻撃的な姿勢はすっかり消え去っています。
「この人はわたしの母親なの?」
 アラベラ様は眉をひそめ仕方ないといった調子で言いました。
「そうよ。あなたはクラリス・・この人の娘、わたしの妹、ノアールよ」
 ノアの手から握っていたナイフが離れ、血の海にピチャンと落ちました。
「なによ?なんなのよ? さっぱり分からないわよ!」
 その悲痛な問いに答えられるのはアラベラ様だけですが、今はもうそれ以上何も教えるつもりはないようです。
 大統領は考えました。クラリスの死は、それもまたクラリスの計画の一部なのだろうか? それとも計画とは関係なく自らの運命と受け入れた結果なのだろうか? これから先クラリスは関わることなくアラベラが計画を引き継ぐのか? それとも全ては終わってしまってアラベラはただ傍観するだけのつもりなのか?
 ノア・・クラリスの娘ノアールが、クラリスの遺した最後のピースのようです。
 いえ、まだもう一つ残っています。


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