第2話 踊る人形たち
二体の人形は向かって左にかわいらしいバレリーナ・コロンビーヌ、右におどけた派手な化粧のピエロ。二体はそれぞれ外側の手を横に開き、内側の手を胸に当てて、揃ってお行儀よくお辞儀しました。
優しく夢のようなメロディが流れ出し二体は体を起こしながら両手をゆっくり上に上げました。驚いたことにお人形の顔が唇の端をにゅっとつり上げて白い歯を見せてニッコリ笑いました。ポロンポロンポロンとピアノによく似た深みのあるまろやかな音色が弾みだしました。チャイコフスキーの有名なバレエ「くるみ割り人形」の中でももっとも有名な「花のワルツ」です。二体は腕を振り、腰をひねり、脚をステップさせ踊り出しました。
なんともなめらかな動きです。動きも大きく素早く、小さなオルゴールや時計塔のしかけ時計の人形たちの動きとはまるで違っています。
まるきり人間そのものです。
座って見ていた子どもたちが怪しんで手を伸ばして確かめようとしてドロッセルマイヤーおじさまに優しくたしなめられました。実はクララも怪しんで手足の関節をよーく見てみました。継ぎ目もなくしわのでき方も自然でますます怪しく感じられます。これは発明ではなく手品なのではないでしょうか?
人形たちの踊りは見事でした。軽やかにステップを踏みながらご挨拶し、腕をさしあげ、体を開き、クルンと上体を腕といっしょに巡らしました。背中がつながれているので回転することはできませんがその場にありながら音楽に乗って実に楽しそうに仲良くワルツを踊っています。
気が付くとオルゴールは左右で別の演奏をしていました。二台ピアノの二重奏のように二つの旋律が重なって一つの曲を演奏しています。踊る人形たちも鏡に映ったように左右対称の動きをしていながら所々別々の振りをしてまたいっしょの振りに戻ってきてきれいに重なりました。
クララはもう夢中になって、曲が終わって人形たちがお辞儀すると盛大に拍手を送りました。
「まあ、素晴らしいわ! もう一度見せてくださいな!」
「さて、それでは今度はどの曲がいいかな?」
このお人形たちは他にも踊りを踊れるのかとクララはすっかり興奮してしまいました。コロンビーヌのオルゴールにはチャンネルが付いていて1から8まで数字があり、今は8が矢印に合わせてありました。クララは1に合わせてゼンマイのハンドルを回そうとしましたが驚くほど重くて、一回転させるのがやっとで、後はおじさまに巻いてもらいました。
短くトットットットット、とスタッカートが刻まれ軽快な曲が始まりました。これまたおなじみの序曲です。人形たちはまた目をパッチリ開いて踊り出しました。
とっても楽しい行進曲。
それこそオルゴールのようなかわいい金平糖の踊り。
どれがどれだったか忘れましたがロシアやら中国やらの弾むようなオリエンタルな舞曲たち。
そして最後にまた大好きな「花のワルツ」。
クララはもううっとり夢心地で二人の名ダンサーのバレエに見入っていました。
そういえば最後の年、十二歳の時におじさまにロンドンのロイヤルオペラハウスに「白鳥の湖」を観に連れていってもらいました。クララはそのあまりの美しさにひどく感動して、オデット姫とジークフリート王子の悲劇に涙しつつ、見終わってからはオデット姫になりきってタラララーンと踊って見せておじさまとお母様を笑わせてしまいました。「くるみ割り人形」はまだ観たことはありませんがチャイコフスキーの音楽はLPレコードで何度も聴いています。思えばいつか今度は「くるみ割り人形」をまたおじさまに連れていってもらいたいと願っていたものです。
追想とオルゴールのファンタジーとでクララはすっかり夢見心地になっていましたが、子どもたちにはこの出し物は高尚すぎてだんだん退屈してきたようです。一人の坊やが何かもっと面白い物はないかとピエロの入っていた黒い箱をゴソゴソ探り出しました。
するとピョコンと何か灰色の物が勢いよく飛び出しました。坊やはわっと尻餅をつきましたが、飛び出した物を見たご夫人がきゃっと悲鳴を上げました。旦那様はおいおいと笑ってご夫人に指さして教えました。
「おもちゃだよ。ネズミのおもちゃだ」
そうです、ピエロの箱から飛び出したのはゼンマイ仕掛けでしっぽをグルグル回しながら走り回るネズミのおもちゃでした。顔がとんがってとても凶暴そうな嫌な奴です。ご夫人は正体が分かってほっとしながらこの人騒がせなおもちゃを作ったおじさまを睨みました。
おじさまはなぜか大慌てしました。
「ああ、なんてことだ! すまない、男の子たち、そいつを早く捕まえてくれ!」
大きいお兄さんたちはやれやれとのんびり捕獲の体勢に移りましたが小さい男の子たちは大喜びでこの捕り物に駆け出しました。
しかし、男の子が手を伸ばしてネズミを捕まえようとしたところ、ネズミは突然くるりと振り返って後ろ足で立ち上がるとギザギザの歯の大口を開け閉めしてギーギー嫌な声で鳴き立てました。目玉がグルグル回りながらビヨンビヨン飛び出して、その気持ち悪いことと言ったら、男の子は一瞬ギョッとしてギャーギャー泣きだし、顔をしかめていたご夫人が今度は金切り声で悲鳴を上げました。
クララは、申し訳ないのですが、それがおかしくておかしくて、思わず笑い声を上げそうになるのを口を押さえてこらえました。
兄フィリップがひょいと金切り声を上げるネズミをうるさそうに拾い上げました。おじさまが急いで駆け寄りフィリップから受け取るとしっぽの下のスイッチを押してネズミの金切り声を止めました。
「五年間もこんなものを作って過ごしていたんですか」
フィリップはきつく責めるように言いました。おじさまはいやすまない、申し訳ない、面白いかと思って作ってみたのだがご覧の通りの有様で、研究所に置いてきたつもりだったのだがうっかり鞄に落としてしまったのだなとしきりと恐縮しました。
「違いますよ」
フィリップはオルゴール人形たちを指さして冷たく言いました。曲が終わって二体はお辞儀をしたかっこうで止まっています。
「これだけの物を作る頭脳と腕があるなら連合軍に協力してドイツ軍をやっつける兵器を開発すればよかったんだ」
居間はしーんと静まり返りました。クララは夢中になっていて気付きませんでしたがオルゴール人形を一生懸命見ていたのはクララ一人きりでした。子どもたちは途中ですっかり飽きてしまっていましたし、最初は感心して見ていた大人たちもあんまり本物らしすぎて逆に馬鹿馬鹿しさというか、気味の悪さを感じてきてしまったようです。お兄さん方、お姉さん方もとっくに自分たちのおしゃべりを再開していました。
ようやくみんなの雰囲気に気付いてクララはおじさまが気の毒になって思わず潤んだ瞳ですまなそうにおじさまを見ました。
おじさまは嫌われ者のネズミの頭をなだめるように撫でながら、寂しい笑みを浮かべていました。
「わたしはね、子どもたちを喜ばせるのが大好きなんだよ。子どもたちから笑顔を奪うようなことはしたくないんだ」
クララは泣きそうになってしまいました。にいさまのバカ。おじさまがあまりにかわいそうです。
おじさまはクララには心底優しい嬉しそうな笑顔を見せて見つめ返しました。
「おまえの笑顔を見られてわたしはとても幸せだよ」
クララはとっても嬉しくなって心の中でイエスさまへの感謝の言葉を唱えました。
戦争ごっこに夢中だった子どもたちもそろそろ眠そうに大あくびをして元気がなくなってきました。遠くからのお客様は屋敷にお泊まりですが、近くからのお客様たちはぼちぼちおいとまの挨拶を始めました。お父様お母様にせかされてぐずりながらも坊やたちは立ち上がりました。明日もまた遊びに来るので兵隊は床に転がしたままです。
「よいクリスマスを」と挨拶して我が家へ帰っていきます。
残ったお客様たちも子どもたちを寝かせるためいったん自分たちの客室へ向かいました。お姉さんたちも夢の中で素敵なクリスマスを迎えるために挨拶をして解散しました。お母様はまだまだ政治論議を白熱させているお兄さんたちを別の部屋へ追いやりました。
気が付いてみるといつの間にやら広い居間にクララはおじさまと二人きりになっていました。あれからクララはお姉さんたちの仲間に戻り、おじさまはお母様とお父様がお相手していました。お母様はもちろんですが、お父様も教養が高く思慮深い方なのでおじさまには同情的で暖かく温かいチョコレートでおもてなしをしていました。
おじさまは空になったカップを口に持っていって思い出してクララに恥ずかしそうに微笑んで受け皿に戻しました。ちょっと疲れているようです。
クララはいたずらっぽく笑いかけて二体のオルゴール人形に近づいていきました。ゼンマイの切れた人形たちは目を閉じてくたりとうなだれています。指先でつんつん頬をつついて鼻の先に手のひらを当ててみました。ぴくりとも動かず呼吸もなく、たしかにお人形はお人形のようです。
クララはおじさまを振り返ってニッコリ笑いました。
「びっくりしちゃった。本当に生きているようなのだもの。今でも半分くらい疑っているくらいよ」
おじさまは目尻のしわを深くして優しく微笑みました。
「クララは何歳になったのだったかな?」
「十七歳よ」
「うむ、そうか。そうだったね」
二人はなんとなく視線を逸らせ、それぞれ過去に思いを巡らせました。
再び視線が合って、クララは「ああ、そうだわ!」と小さく叫びました。
「わたし、おじさまにお願いがあったの。ちょっと待っていてくださる?」
と二階の自分の部屋へ急いで駆け上がりました。途中お母様に見つかって「まあ、なんですはしたない」と叱られてしまいました。クララは見つからないようにこっそり舌を出しました。
クララはまた急いで戻ってくると「これを」とおじさまにある物を差し出しました。
くるみ割り人形です。
高さほぼ三〇センチ、抱きしめるのにちょうどいい大きさです。赤い顔にロシアの黒い毛の帽子をかぶり、青い士官服を着ています。とっても凛々しい顔をしている、とクララは思って「まあ、かっこいい!」と言ったらいとこたちに笑われてしまいました。いとこたちに言わせると「変な顔」のようです。眉毛がつながって鼻の頭まで真っ黒でTの字になっています。ぎょろりと睨み付けるような目つきをして横に大きく開いた口に鋭い歯ががっちり噛みしめられています。黒い髪の毛もばりばりに突き立ってなんだかすごく怒っているようです。大きなあごが張りだして、ふつうのくるみ割り人形はここに長いお髭をたらして口を開いたときに顎の下に穴が開くのを隠すようになっていますが、そこは細かい仕掛けが得意のおじさまのこと、胸飾りのスカーフが折り重なって穴ができないようになっています。背中にマントを模したレバーがあり、引き上げると両腕が上がり、大口が開きます。頭も後ろに反っくり返るのでリンゴくらいの大きなくるみも噛み砕けそうです。
クララは一目見るなりこのくるみ割り人形がすっかり気に入ってしまいいとこたちに取られないよう両手で抱え込んでしまいました。でもいとこたちは誰もこの珍妙なくるみ割り人形を欲しがらず、大慌てのクララの様子に大笑いしました。クララは恥ずかしさに真っ赤になりながら、それでもお気に入りのくるみ割り人形がすんなり自分のものになったことを大いに喜びました。おじさまに訊いたらこれはロシアの偉大な皇帝「イワン雷帝」がモデルだそうです。
でもせっかく自分のものになったというのに意地悪な兄フィリップが取り上げておもしろ半分に次から次にくるみを噛み砕かせ、暖炉の薪まで無理やり口に押し込んで力任せにレバーを下ろしたのでとうとう「バキッ」とひどい音がして顎が外れて壊れてしまいました。クララは大泣きして兄をののしり、自分の部屋に駆け上がりベッドに潜り込みました。
しばらくしてトントンと優しくノックがされておじさまが修理したくるみ割り人形を持ってきてくれました。イワン雷帝はすっかり元通り凛々しい顔立ちで歯を食いしばり、嬉しさに抱きしめるクララの頭をおじさまは優しく撫でながら「フィリップはうんと叱っておいたからね」と言いました。嘘です。おじさまは誰も叱ったりなんかしません。たとえフィリップのような憎たらしいいたずらっ子でも。
クララは嬉しくて嬉しくておじさまの頬に感謝のキスをしました。
五年前、みんなで集った最後のクリスマスのことです。
「これ、また壊れてしまったの。直してくださいますかしら?」
マントのレバーを引き上げると右腕がガタガタと何か引っかかるような感じで途中までしか上がらず、口も完全に開き切りません。
「どれどれ、診てあげよう」
おじさまは人形を受け取ると具合を調べ、ジャケットの内ポケットから小さな道具箱を取り出しました。ドライバーを使ってキリキリと木の組み合わせをほどいて体を半分開いて腕を内部の歯車といっしょに引き抜きました。
「ふむふむ、なるほど」
おじさまは歯車を子細に調べています。
クララはおじさまの様子を見ながらこのお人形の壊れた時のことを思い出します。
最後のクリスマスの翌年兄フィリップはロンドンの寄宿学校に入学しました。そして夏に、ドイツ軍爆撃機による空襲が行われ、兄は腕を負傷しました。後で知ったところによるとその程度ですんだのは奇跡的であったようです。その話を聞いてクララはこのくるみ割り人形が兄の身代わりになって命を救ってくれたのだと思いました。ちょうどその頃から、何をしたわけでもないのに、こうして人形の腕がおかしくなってしまったからです。
しかし、クリスマスに帰省した兄に嬉しそうにそのことを話すと兄は激怒しました。負傷した兄は郊外の病院に入院し、その後もっとひどい空襲が続き、多くの学友が志願兵として軍隊に入隊したそうです。兄はこの腕のケガさえなければ自分もそうしていたと言ってクララを悲しませました。
ドイツ軍はイギリス本土攻略をあきらめたようで、兄は無事高校を卒業し、そのままロンドンの大学に入学しました。なんと運が良かったのだろうとクララは思うのですが、兄はいまだに腕のことを根に持ち、おじさまにまで筋違いの恨みをいだいているのです。
「兄のこと、ごめんなさい・・」
クララは小さくおじさまに謝りました。
おじさまは困ったようにクララを睨みました。
「フィリップが怒るのも当然だろう。気持ちは分かるし、そのことであのやんちゃ坊主を嫌いになったりはしないよ」
クララはおじさまの優しさに感謝しました。
「さて、しかし困ったねえ、歯車が完全に砕けてしまっている。これはまるごと作り直さないといけないなあ」
くるみ割り人形の腕は思った以上に重傷だったようです。
「直らないの?」
おじさまは安心させるように笑いました。
「いいや。ちょっと時間がかかるが今夜中に直してあげよう」
「まあ、そんなに急がなくてもいいのよ。しばらく泊まっていってくださるのでしょう? 直してくださるのは明日でもかまいませんわ」
「いや、それがそうもいかん」
おじさまは申し訳なさそうに言いました。
「行かねばならぬ所があるのだ。明日には発たねばならない」
「そうなんですの・・・・」
クララはひどくがっかりして寂しくなりました。
「これはきちんと直してあげるから許しておくれ」
「あの、おじさま」
クララは思い切って尋ねました。
「おばさまのことをお訊きしてもよろしいでしょうか?」
おじさまは意外な言葉にちょっとびっくりして目を丸くしました。
「ああ、それはかまわないが、何を聞きたいのかな?」
「おばさまとはどういう風に知り合ったのです?」
「ふむ」
おじさまはいじくっていた歯車をテーブルに置いてクララに向き直るとクララに別の女性の姿を映すようにじっと見つめ、幸せそうに微笑みました。
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