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庸滅亡 作者:文叔

第二章 宮廷

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第二章 宮廷 2

「ほほう、なるほど、張どのが…」
 が、士大夫派の恐怖はそれだけではなかった。宦官のねばついたうれしげな声が恐怖を、そして憎悪と怒りを湧き上がらせる。宦官たちもこの事態が戦慄せんりつすべきものだとわかっているはずなのに、彼らの性根は目の前の相手の失策をえぐり、なじることへの欲求をこらえることができなかった。それがゆえに彼らは下等であり、自分たちが下等であると気づけないところがさらに下等であった。
 宦官であることが罪なのではない。彼ら自身の人間性が問題であった。


 彼らのいやしいうれしげな視線は士大夫派へ注がれる。相手の失策は宦官にとって蜜の味なのである。このようなことをしている場合ではないのだが、好物を目の前に差し出されてこらえられる彼らではなかった。
「張どのは確かじょどのの管轄下に入られているはずだが、これはもしや徐どのの指図でらっしゃる?」
「三花」である宇厳うげんのねめつけるような視線と粘り着くような問いを受けたのは徐雄じょゆうである。
 徐雄は初老の士大夫で彼らの派閥の重鎮だった。張堅のことを若い頃から見所があるとして援助してきたのだが、ここのところの張は思い詰めることが多く、息抜きも兼ねて辺境への左遷を受け入れるように説いたのだが、このような暴挙に出るとは予想もできなかった。当然徐雄の預かり知らぬことである。
 が、徐雄は無用に宦官へ反発しなかった。相手の言葉尻を取り、揚げ足を取るのは、彼らの最も得意とするところだったからである。逃げ場がないのなら堂々と正面から立ち向かうしかない。
「そのようなことはそれがしの預かり知らぬところである。だが確かに張はそれがしの部下。上役としてそれがしに責任があるのも間違いなかろう」
「ほほう、そのようにいさぎよいのは殊勝しゅしょうなことだが、それは自分も関与していると暗に認めているようにも聞こえるが…?」
「そのような詮索せんさくはそれがしの社稷しゃしょくへの忠誠を汚すもの、宇どのには控えていただきたい。それにまだ張が北狄を長城内へ招じ入れたか判然としてはござらん。仮にそうであったとしても、張を北方へ転属させるように進言したのは朱どのでらっしゃる。それがしに責任があるとすれば朱どのにも同様の責任があると思われるが、如何いかん?」
 朱叡しゅえいは宦官派の重鎮の一人であり「二花」と呼ばれている。四十代の壮年だが、すでに体はふやけたようにたるみ、まともに歩くことも困難なほど太っている。当然この場にもいるが、おのれの思い通りにいかないことがあると、こめかみを震わせ、顔の肉を波打たせるという癖がある。今はまだそこまでではないが、士大夫に非難されること自体が不愉快である。表情や声音にその思いを隠そうともせず口を開く。
「それがしは北方へでも転じてみてはいかがかと提案しただけじゃ。その他にも西方や東方へも赴任先はあったはず。そのどれをも選ばず張どのを北方へうつしたは徐どのの判断ではないか。それがしに責任を転嫁するのはやめていただこう」
 不機嫌さを鋭さに変えて、朱叡は徐雄を非難する。

 これは確かに事実であると言えた。朱叡は張堅を北方へ転任させよとはっきり言明してはいない。だが宦官派の重鎮の言葉は、たとえ強制したものでなくとも他の者たちに逆らえるものではない。ゆえに彼らは常にはっきりとは断言せず暗に強制し、それでいながら曖昧あいまいな自分の発言を盾に責任は取らないのである。士大夫派やそれ以外の廷臣にとっては歯ぎしりで済ませるには抑えがたい卑劣さであった。
 この時の徐雄も他の士大夫派も同様であり、うそぶく朱叡へ斬りつけたい衝動は抑えがたいほどだった。もちろん宮廷へ上がるに帯剣は許されない。このことが宦官派たちの命を救い、同時に士大夫派の命も救っている。たとえこの場の宦官派を皆殺しにしたとしても、武力を抑えている他の宦官派の報復から逃れられるはずがないからである。またそうでなくても宮廷で剣を抜くことそれ自体が死に値する罪である。その点も宦官派は突いてくるであろうし、名誉や宮廷での秩序を重んじる士大夫派は唯々(いい)として従わざるを得ない。そして彼らは宦官たちに名誉のすべてを穢された上に命も奪われてしまうのだ。
 宦官の絶対数は少ない。だが彼らは力ある少数派であり、士大夫派は力なき多数派であった。

 なぜこれほどまでに庸帝国において宦官が勢力を増すことになったのか。それは韓嘉かんかがズタスへおこなった説明において詳述したい。


太祖たいそ陛下(初代皇帝・陳隆ちんりゅう)が崩御ほうぎょなされ、その跡をいだ太宗たいそう陛下(二代皇帝・陳裕ちんゆう)の治世、太祖陛下が最も信頼し、最も勢力の強かった臣下である張雄ちょうゆうが背いたことが一つの契機けいきでした…」
 張雄はおのれが帝位を欲してというより、陳裕の即位に不満があったのだ。
 陳裕は陳隆の三男で、兄である次男は亡くなっていたが、もう一人の兄・長男の陳共ちんきょうはまだ生きていた。だが彼は病弱で、そのことが父帝の不安をさそったのだ。庸はまだ出来たばかりで基盤のゆるい国家であった。その庸を頑強な国とするには陳共では心許こころもとなく、また弟である陳裕は決して無能ではなかった。それゆえに陳隆は陳裕を後継者に指名したのである。
 それは結果としては英断だった。陳裕は有能な政治家として能臣を幾人も選び、育て、彼らを使いこなして庸帝国の基盤を完全なものとしたのだ。

 だが即位当時はそのような未来のことはわからない。そしてそれだけに、長子相続という央華の理念に反する行為を亡国の端緒たんしょと感じた者も多かった。その中に張雄もいたのである。彼は有能ではあったがかたくななところがあり、また長子である陳共とは個人的に親交も深かった。張雄からしてみれば私欲ではなく、能力的なことまで含めた公的な見地からも陳共が第二代皇帝になったとてなんの不都合もないと思えたのだ。それゆえなんの恨みもなく、陳共ほどではないが交友のあった陳裕に叛したのである。

 陳裕はその反乱を一年の歳月を使ってなんとか鎮圧したが、叔父のように感じていた張雄が自分に叛したことへの衝撃はあった。彼はこの後、皇帝として露骨に人への好悪や不信を表に出すことはなく公正な人事をおこなう。が、心の奥深くにわだかまりを内包して生きてゆくことになった。そしてその息苦しさを「家庭」で発散するようになったのである。
 発散の相手は皇后であったり皇子や皇女、愛妾であったりはしたが、彼らは異性や異世代であるため、壮年の男同士の話ができる相手がいなかった。そして彼はその寂寥を埋めるのに宦官を頼ったのである。


 それは一人、彼の側に優秀な宦官がいたことも大きな要素だった。王健おうけんというその宦官は、幼い頃に父親が大罪を犯し、そのとばっちりを受けて宮刑きゅうけい(性器を切り落とす刑罰)を受けたのだが、後宮に入るようになってから当時の皇帝、太祖・陳隆(初代皇帝。陳裕の父)に聡明さを気に入られ、たわむれに学問をさずけられたのだ。
 それからの彼はめきめきと知力を向上させ、それを知性に転嫁し、さらに人間性や人格にまで昇華させていった。また陳裕と同年代であったため彼と行動を共にすることも多く、いわば幼なじみの親友と言っていい関係にすらなっていたのだ。
 彼は知識のみに頼らず、知性と、それらに裏打ちされた想像力をもって陳裕に助言することが多かった。そしてそれらはことごとく的を射ており、現場を経験せずに真理を獲得するという点において、彼の進言は奇蹟とすら言える水準のものであった。
 それは陳裕が皇帝に即位しても変わることがなく、彼は「陰の宰相」といってもおかしくない存在となる。王健がひそかに陳裕に進言し――公には皇帝の考えとして――施行された法令も一つや二つではない。それどころか庸帝国の基礎となるべき法令や政策のほとんどは、王健の頭脳から発せられていたのだ。つまり王健の能力と功績は、央華史上に一つまみしかいない大宰相のそれに匹敵するほどのものだったのである。

 しかしこれでは朝廷にある「表の宰相」たちの心証が悪くなるのは必定で、陳裕は王健の存在を隠すことに腐心した。それだけに王健の名は陳裕が生きている間は朝廷でも世間でも誰も知らず、王健が死に、陳裕が死後発表する皇帝自筆の「業績録」によって初めて知られることとなった。

 王健の人格が高潔とされるゆえんは、ここにこそあった。彼は自身の名声や蓄財にはまったく興味を示さず、皇帝に対しても決してれようとはせず、私欲や私心からは無縁で、皇帝と国家のためだけに己の能力を使い切ったのである。この事実は当時の廷臣だけでなく庶民の間でも激賞されることになった。なぜなら央華史において政治に口を出す宦官といえば、私利私欲のために国を誤らせる存在と同義だと思われていたのだから。
 また王健の存在を最後までひた隠しにした皇帝の見識にも彼らは賞賛を惜しまなかった。そして陳裕がなぜ彼ほどの能臣を隠さなければならなかったかに思いをせ、自省する。それは宦官に偏見をもっている自分たちが原因だったのだから。


 これら陳裕と王健の行為、そして彼らに対する廷臣や民衆たちの想いは尊いものであった。だがやや行き過ぎの面もあったかもしれない。この後、庸において宦官たちへの「締め付け」が甘くなったのだ。彼らは通常の士大夫同様官職にくことが認められ、未来への希望を得られるようになった。だが王健のように有能で高潔な宦官の存在は、やはり例外に近かったのである。
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