挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
庸滅亡 作者:文叔

第十一章 サガルとタクグス

しおりの位置情報を変更しました
エラーが発生しました

ブックマークしました。

設定

更新通知 0/400

設定を保存しました
エラーが発生しました

カテゴリ

ブックマークへ

以下のブックマークを解除します。
よろしければ[解除]を押してください。

ブックマークを解除しました。

75/81

第十一章 サガルとタクグス 6

 騎兵隊が突出した形になっているが、後方の歩兵隊や輜重隊が追撃をやめて立ち止まったわけではない。いかに有利な態勢といえ相手は強力な騎馬民族軍である。後方部隊の援護が必要になるかもしれないし、仮にそうでなくとも、歩兵隊も輜重隊も騎兵隊同様、逃げる騎馬民族軍の姿を見て心も体も浮き立っていたのだ。止まれるものではなかった。

 突然だった。正確には突然ではなく、しばらく前から地鳴りや地響きは聞こえていたのだが、浮き立った彼らは気づけなかったのだ。
 が、気づいた瞬間に全身に鋭い悪寒が走り、反射的に振り向く。彼らが最も聞きたくなかったもの、感じたくなかったもの、見たくなかったものだと悟ったのだ。
「…北狄ほくてきだあ!」
 これまでの戦いで何人の庸兵が何度叫んだことだろう。込められた感情すら同じである。だが後の戦いになればなるほどその感情は、濃く、深く、彼らの心身にえぐりこみ、急速に浸透してくる。現れた騎馬民族軍はその染み込んだ感情を呼び水に、庸兵たちの心と体の奥深くにもともとあった同じ感情――恐怖を簡単に噴出させた。
 後方から急追してきた敵の数は一万から二万。今庸軍が追っている(と思いこまされていた)騎馬民族軍より倍以上の騎数である。いったいこれだけの兵がどこにいたのか。斥候は常に四方八方へ放っていたというのに。
 しかしすでにその疑問に意味はなかった。後方から突進してくる騎馬民族軍は、圧倒的な統率力をもって庸軍へ迫り来る。
「ひ、ひいぃいぃぃっ!」
 最後尾にいた輜重隊の兵は精鋭とはいえない。もともと弱兵の庸軍の中でさらに弱兵であるのだ。敵軍への反撃など考えることもできず、それどころかほとんどの兵は逃げることすらできず、その場にうずくまり、頭をかかえて悲鳴をあげるだけだった。
 が、騎馬民族軍は彼らの脇を通り過ぎていった。
「は……」
 輜重隊と彼らを守る(はずだった)兵は、土煙をあげて遠ざかってゆく騎馬民族軍を、間の抜けた表情で見送る。
 もちろん彼らはただ見逃されたわけではない。輜重隊は物資の山、騎馬民族軍にとっては宝の山である。それをわざわざ使えなくする必要はない。今は前方の庸軍を完全に撃滅することに専念し、その後で彼らの荷を奪えばいいのだ。その間に輜重隊の兵が右往左往していれば、帰ってきた時に殺して奪う。それだけのことである。
 また恐慌と自己保存を優先させた庸兵が物資を盗んで逃げてしまっても、この際は構わない。庸最後の抵抗軍を撃滅してしまえば、その後は央華大陸の大半を奪い放題、喰らい放題である。彼らが持ち去った物資など、その時まで貸しておくに過ぎないのだ。

 が、この騎兵隊の最も恐ろしいところは、「目の前のお宝を見のがす」という行為を実行してのけていることだった。騎馬民族にとって略奪は本能の域に達するほど刻み込まれている。戦いも略奪のためにおこなうもので、優先順位は後者が上なのだ。それだけにいかに庸軍を先に叩くと決めていても、目の前の物資に心奪われ、そちらへ先に手を出す可能性も低くなかったのである。
 が、彼らは輜重隊の物資には目もくれず走り抜けた。兵が精鋭であることも確かだろうが、率いる者の統率力が圧倒的なのだ。
 だが、取り残された輜重隊の兵たちにそんなことはわからない。呆然としたまま、へたりこんですぐには動けない。それゆえ自分たちを見逃した騎兵隊の先頭にいた者が、少年期をわずかに越えた程度の若い男であることを見極めた者もいなかった。


 騎兵隊に置き去りにされながらも、庸軍歩兵隊は彼らを必死に追っていた。隊列も崩れがちだがなんとか秩序をたもち、短いながらも訓練が無駄ではなかったことを証明している。
 だがそんな彼らの訓練も努力も無意味に終わろうとしていた。隊列は輜重しちょう隊、歩兵隊、騎兵隊に分断されるほど細長くなり、すでに軍隊としてのていを成していない。そんなところを襲われたらひとたまりもないし、事実、ひとたまりもなかった。
「……?」
 輜重隊が命拾いしたことを呆然と実感している頃、歩兵隊も地響きを感じた。そして振り向いた。悲鳴を挙げた。ここまでは輜重隊と同じだった。が、その後はまったく異なる運命が彼らを襲った。
 騎馬民族軍は機動力も攻撃力も比較のしようもないほど劣る相手を、なんの容赦もなく撃砕した。歩兵隊の有利は数の多さだけだったが、それはまったく発揮されることなく終わった。
 騎馬民族軍は歩兵を全滅させることに固執しなかった。それゆえ生き残った兵も多かったが、だとしても歩兵隊のうち二割は殺され、二割は負傷させられた。そして生き残った幾人かは、騎馬民族軍の先頭で最も勇猛に戦う指揮官が、思ったより若く、そして片頬が人外の笑いのように耳まで裂けているのを見た。


 最前線の庸軍騎兵隊は、後方の輜重隊が無力化されたことや歩兵隊が粉砕されたことにしばらく気づかなかった。それほど自分たちの前を逃げる騎馬民族軍に気を奪われていたというのもあるが、やはり迂闊うかつだったと言わざるを得ない。兵も未熟だったが総司令官をはじめとした将軍たちも力量不足だったのだ。
 彼らが異変に気づいたのは、それこそ輜重隊や歩兵隊と同じ理由であった。どこからともなく地響きと、それにともなう一種の圧力を感じたのだ。そこで反射的に振り向き、ようやく自分たちが歩兵や輜重隊から孤立しているのを知る。が、そのこと以上に彼らを戦慄させたのは、後方から迫るありえない量の土煙であった。
「……」
 庸軍騎兵隊は無言で、惰性で、馬を走らせ続ける。中には隣を走る馬と接触して落馬しそうになった者もいたが、他の誰もそれに構う余裕がなかった。
「まさか…」
 言葉にならない言葉が彼らの口から漏れる。今現在、この近くに自分たち以外の庸軍騎兵隊はいない。いや、もしかしたら北狄に撃ち破られた敗残兵を誰か有力者がかき集め、援軍として参戦して来てくれたのかもしれない。が、彼ら自身もそんな夢想を心から信じてはいなかった。信じたくはあったが信じることはできなかった。
 ゆえに彼らは、全身を口にして絶叫した。
「…北狄だあ!!」
 ほんの少し前に輜重隊や歩兵隊が放ったのと同じ言葉が、同じ感情とともに庸軍騎兵隊をおおった。その感情――恐怖は、庸兵のギヤマンの士気を無惨にも打ち砕いた。もう、庸軍は軍隊ではなかった。
「なぜだ、北狄など他にいなかったではないか!」
 前方の逃げる騎馬民族を撃破し、これまでの鬱積うっせきした連敗の恐怖を打ち払えると、まるで一兵卒になったかのように遮二無二馬を走らせていた総司令官も、氷水を浴びせられたように我に返り叫んだ。彼の疑問も当然である。このような事態にならぬよう、慎重に慎重を重ねて斥候を放ち、騎馬民族軍の動向を探らせていたのだ。その報告の中にこれほど大量の敵軍が潜んでいるというものは一つもなかった。
「北狄どもは空を飛べるのか」
 似たようなあえぎを、かつて摂津せっしんの戦いでズタスに後背を突かれた孫佑そんゆうも漏らしていたことを、彼は知らない。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ