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庸滅亡 作者:文叔

第一章 長城突破

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第一章 長城突破 7

 馬上から燃える兵舎を見ていたズタスは、ふと思い出し背後を振り返った。張堅ちょうけんはどうしているのかと思ったのだ。
 だがそこには誰もいなかった。あるいはまだ長城の門の外で立ち尽くすか座り込むかしているのかもしれない。それとも自害でもしたのだろうか。
 ズタスにとってはどうでもいいことだった。彼は前へ向き直り、二度と張堅のことは思い出さなかった。


 それら央華の歴史の数々がズタスに染み入りはじめたのを見て取った韓嘉かんかは、いよいよ長城をはじめとする庸の軍制度についても講義を始めた。韓嘉にしてみれば、ここまで教えることにためらいもないわけではない。これは完全な軍事機密の漏洩ろうえいであり、利敵行為そのものだからだ。
 だが長年この地で過ごしたことで、韓嘉にもさらなる心境の変化もあったのだ。それはズタスの人となりをより深く知ったことが理由の一つである。
「このままでは長は、私が央華のことを教授しようがしまいが長城を越えて我が祖国へ侵攻してゆくだろう。しかし長にできるだけ我らの思想を染み込ませておけば、無用な破壊や殺戮を減らすことができるやもしれぬ」
 ズタスは勇猛だが残忍ではなかった。鋭利な知性を持ってはいても狡猾こうかつではなかった。その彼に純良な央華思想を注ぎ込めれば、あるいは侵略時に無駄な人死にを減らせるかもしれない。そう感じさせるものがこの北狄ほくてきの長の中にはあるのだ。
 それどころか韓嘉の心中には「いっそ長に庸を治めさせれば…」という想いすら湧いてきており、さすがに頭を振ってその考えを振り払う。韓嘉の危険な心情はそこまでズタスを心底から信頼し敬愛するようになっていたゆえだが、同時に庸の朝廷が末期的な状態であることも知っていたからでもあった。


 韓嘉に央華文明の講義を受けながら、ズタスは本来の目標も忘れていなかった。それはもちろん実力を身につけること。力を身につけ、勢力を拡大し、長城の北に一大勢力を築き上げること。そしてその戦力をもって南下し、庸を滅ぼし、央華大陸に史上初の騎馬民族による一大帝国を興すことがズタスの目標であった。
「とはいえ足りぬものが多すぎる」
 勢力が強くなってくると戦わずしてくだって来る部族も多くなってくる。それは喜ばしいことだが増えるのは純粋な戦闘力ばかりである。兵器その他の技術力という点では、同じ騎馬民族では得ようにも得られないのが現実であった。
「やはり庸人をさらってくる以外ないか」
 それはさほどめずらしいことではなかった。騎馬民族はもともと文化的な事柄について人材が乏しい。ゆえに略奪の項目には物だけでなく人も入っていた。とはいえさらってくるのは文学や芸術の類を得意とする人間ではなく、工芸や建築、武器製造など実質的なものを作り出す技術者がほとんどだった。騎馬民族には実際的なものこそが重要視されるのだ。ズタスのように、韓嘉に影響されたとはいえ央華の文明や文化に興味を示す者はめずらしく、また軟弱とそしられる対象でしかない。それだけにズタスは、今はまだ自分が韓嘉に央華の文明や庸の文化について講義を受けていることは、一部の者をのぞいて秘密にしていた。


 が、それはそれとして庸から人をさらってくるのも難しい。長城に守られているのだから当然である。長城を攻略するための技術者を得るために長城を越えなければならない。大いなる矛盾であり二律背反であった。
「やはりまだまだ時間はかかりそうだな」
 庸攻略を心に決めてすでに二十年。四十歳を越えたズタスは騎馬民族の中で有数の勢力を築くに至っていた。すでにコナレ族に対抗できる部族は片手の指で足りるほどしかない。しかし彼はいまだ自分が目的を果たす力を持ち得ていないことを知っており、そして自分の年齢に焦りを覚えはじめてもいた。
「全民族を統一することも長城を克服する方法も手に入れられず、わしはこのまま老いて死んでゆくのか…」
 すべてを成し遂げる能力を得る自信はある。だがその自信がわずかにゆらぎはじめているのも事実であった彼は、同檎どうきんする妻妾さいしょうの乳房を撫でながら、そんな弱気を覚えはじめた自分に老いを感じていた。


 だがそんな彼を天が哀れんだのか、あるいはただの偶然なのか、ありえないほどの提案が庸の一人の高官からなされてきた。男の名は張堅ちょうけんといい、提案の内容は「長城の扉を開けるゆえ侵攻してきてほしい。ただし条件はある。委細はいずれ。返書をう」というもの。条件というところが気になるが、にわかには信じがたい話である。庸にとって絶対に開いてはいけない長城の門を自ら開けるとは。それは大げさでなく国家の自殺になりかねない暴挙であった。それゆえズタスとしても最初はこの提案の真意がつかめなかったのだが、この頃はズタスの師としてだけでなく対庸対策首席顧問のような立場にもあった韓嘉は、悲しげな表情で弟子に解説した。
「長よ、この提案はそのままの内容でございます。裏はありません。この提案をもって待ち伏せして長たちコナレ族を壊滅させようという策でもございません」
「しかし師よ、それはおかしいではないですか。なぜ張堅は祖国に仇なすようなことをするのです。これでは張堅はただ国を滅ぼす賊臣ぞくしんとして歴史に汚名をのこすのみだ。それは央華の民にとって死すよりつらいことであろう」
 央華の民は名誉を重んじる。それは騎馬民族とて同じだが、彼らと央華人とでは名誉の質に異なるところがあった。騎馬民族にとっての不名誉は、戦場で敵に背を見せて逃げ出す等わかりやすい類のものである。もちろん央華でもそれらの行為は不名誉だったが、彼らは史書におのれの名が悪名として残ることを非常に恐れたのだ。

 央華文明は記録の文明である。文字を発明し、筆、墨、すずり、紙を生み出した彼らは、自らの行状ぎょうじょうを後世に残す術を手に入れた。央華の歴史が始まって二千年以上。そのうち相当数の事績が残っているのはこのためである。
 だがそれゆえに、彼らにとって相対さねばならない相手は同時代人だけではなく、後の世の民も含まれるようになった。そして後の世とは、数年、数十年という短さではなく、数百年、数千年を越え、人類が滅びるまで続く永劫の時という意味でもある。人が滅亡するまでおのれの名が悪名として残ってゆく。その恐怖は央華の、少なくとも士大夫(貴族)以上の立場にある者たちが共通して持つ心情であった。「自分が死んだ後のことなど知ったことか」という考えは彼らにとって野蛮人の思考なのだ。
 もちろん、なんの名も残さずに死んでゆく人がほとんどであり、そうであるならたとえ悪名でも歴史に名を残したいと考える者もいないわけではなかった。だがそのような者はやはり多くはない。
 また悪名を残してしまう者でも、最初からそのつもりである者も少ない。彼らとてすべては善意からおこなうのだ。だが人の世は、善意から始まっても悪行で終わってしまう事績も少なくなかった。歴史は彼らの思想や目的でなく「行為」の功罪を断じるのだ。中には悪行を為した者たちの、せめて善意だけは理解してやりたいという後世の史家もいる。歴史の評価とは一つだけではなく無数に存在するのだ。


 だが、この張堅の行為はそれにはあたらないとズタスは感じた。それはそうだ。祖国に歴史的敵対民族を招き入れるなど、「国を売る」という悪意か狂気かを持たなければなしえない行為である。
 ズタスのその考えに、韓嘉はゆっくりと悲しげに首を横に振った。
「いえ、長よ。張堅のこの行為も、確かに善意から発せられております。彼にとってこれが祖国と皇帝陛下に対する忠義そのものなのです」
 そう聞かされて目をむくズタスに韓嘉は静かに説明を始めたが、これは後に詳述したい。
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