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庸滅亡 作者:文叔

第十章 北へ帰る

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第十章 北へ帰る 6

 そしてその日がやってきた。
 時刻はまだ朝の範囲である。夜、静かに眠っていたズタスは、夜明け頃に目を覚ますと、近くにはべっていた者たちに告げた。
「おい、そろそろ死ぬぞ」
 その言葉に近侍きんじの者たちは戸惑った。族長の声は弱かったが常の明晰めいせきさがあったため、冗談を言っているのかと思ったのだ。だが今のズタスにとって冗談にしては深刻すぎる内容である。それもあって咄嗟とっさに反応しきれなかったのだ。
 が、目を覚ましたばかりのズタスがすぐに目を閉じ、そして呼吸がこれまでにない早さと苦しさをともなってきたのを見て近侍たちもようやく総毛立った。
「い、急げ! 医師と、主立おもだった方たちを呼ぶのだ!」
 彼らは蒼ざめた表情で医師たちを呼びに走った。

 近侍たちの報告に主立った者が駆けつけてきたとき、ズタスはすでに昏睡こんすい状態に入っていた。
「このまま目をお覚ましにならないかもしれません」
 呼ばれて来た医師は沈痛な面持ちで告げた。
 ズタスは死ぬに際し、すべきことはすべて終えていた。それだけにこのまま亡くなったとて構わないかもしれない。だがそれほど単純な想いですますには、ズタスの存在は巨大すぎた。
 ここは寧安ねいあん。今ここにいる者たちの大半は、つい先年までこのような場所にいるなど考えることもできなかった者ばかりである。北の、寒く、とぼしく、鋭く、厳しい、だが広く、雄々しく、力強さと誇りとに満ちた平原で、大自然と他族とを相手に戦う日々に何の疑問も持たない、苛烈かれつではあっても素朴な者たちばかりだったのだ。
 それが今、央華帝国の帝都というだけでなく、大陸全土でも有数の大都・寧安にいる。それも捕虜や客分ではなく支配者としてである。
 そんなありえない事態を引き起こし、彼らを巻き込んできた男がズタスであった。
 騎馬民族の歴史への造詣ぞうけいは浅い。だがそんな彼らであっても、いま死にひんしている自分たちの族長が一つの歴史を作り、これからの歴史に巨大な影響を与えたことは漠然とわかっていた。その理解が彼らの中に新しい感情を生み、戸惑わせている。
 その感情の名は畏敬という。彼らは神や自然に対してはそのような感情を持っていたし、強力な指導者に対しても抱いていた。だが、その畏敬とこの畏敬はどこか違う。そのことが彼らにもわかり、戸惑わせていたのだ。

 そんな中で、戸惑いも見せずおそれの感情を受け入れている男もいた。
 韓嘉かんかとタクグスである。韓嘉は歴史の民である央華人ゆえ当然だが、騎馬民族であるタクグスの理解は奇異と言ってよかった。彼もまた、ズタスと違う意味で騎馬民族の鬼子であり時代の申し子であった。


 全員が押し黙り、無言のまま立ち尽くす。相当長い時間だがほとんどの人間は気にしていない。表情はそれぞれの気持ちに応じて微妙に異なるが、笑顔は一つもなかった。当然といえば当然だが、中には内心、この後にやってくる権力闘争に思いをせ、ズタスの死を歓迎している者もいるかもしれない。しかしそんな者にすらなにがしかの感傷を与えずにおかないのがズタスの人生であった。
「あ…」
 誰かが小さく声を漏らした。ズタスの呼吸が止まったのだ。「崩御ほうぎょか?」と誰もが思ったが、そうではなかった。ズタスが目を見開いたのだ。
 全員がズタスを注視し、彼も全員を見た。
 そして小さく笑みを浮かべると、また目を閉じた。
 それからしばらくして、ズタスの呼吸は本当に止まった。
「…ご崩御ほうぎょなさいました」
 医師が脈を取り、瞳孔どうこうを調べ、その死を確認した。
「…族長」
 全員が、その名を呼んだ。全員の感情は、重なるところもあり、そうでないところもあった。だが重なる部分だけはまったく同質で、それをより濃く感じる者たちは哭泣こっきゅうを始めた。


 ズタスの死はすぐに全騎馬民族に公表された。隠していても仕方がないし、そもそも隠すことで得られる利点がなかった。正確には利点を独占できる者がいなかった。
 ズタスの後継者は確定されていない。公的には彼の息子であるクミルがその立場にあるが、真の後継者、実力による支配者は決まっていなかった。もしクミルにそこまで含めた後継者候補としての実力があれば、ズタスが死ぬ前から「真の支配者」への道を円滑に進むこともできたかもしれない。だがそうではない以上、誰か一人がズタスの死を独占することはできない。族長の死をさっさと公表して「次の支配者はおれだ!」と行動で示すしかなかったのだ。

 それは寧安にいる者たちだけではなく、北河流域から以北に到る各地を治めている将軍たちもそうである。むしろ彼らの方が有利であった。なにしろ治めている地域をそのまま自分たちの地盤とする「軍閥化」が可能なのだから。当然彼らもズタスが死病にかかったことは知っていて、その時点で軍閥化の準備は始めている。
 中には不正出発フライング気味に事を起こしかける者もいたが、実際はほぼ全員が自重した。いかに力が絶対の騎馬民族であっても、やはり族長は族長であり、その権威と権力は強大だった。ましてズタスは歴代の族長の中でも飛び抜けた実力と実績がある。露骨な抜け駆けは他の将軍たちに「族長への叛乱だ!」との名分を与え、袋叩きにされてしまう危険性があったのだ。そうなればその者の地盤は他の将軍たちに根こそぎ奪われ、自身は殺されるか、よくて北へ逃げ出すしかない。それはあまりに馬鹿らしかった。
 それだけに彼らは自重に自重を重ね、準備を進め、ズタスの死を待っていたのだが、ついにその時が来た。
 騎馬民族が支配していた領域は決壊をはじめた。


 ズタスの死を待っていたのは同じ民族だけではなかった。むしろ彼らの方が待っていたと言っていい。
 紅都こうとを中心とした南庸の民は「ズタス死去」の報に狂喜したが、宮廷人たちは爆発する喜びに浸ってはいられなかった。
「陛下、いま少し、いま少しのご辛抱ですぞ」
 興奮を抑えがたい重臣たちに言われるまでもなく、皇帝・陳戎ちんかいは玉座で彼ら同様紅潮した顔を上下させた。
「わかっておる。首魁しゅかいを失って混乱し、分裂必至であろう北狄ほくてきを討ち払い、我らが故地を取り戻そうぞ!」
「御意!」
 皇帝の息せき切った宣言に、臣下たちは勢いよく答えた。
 彼らとて騎馬民族の性向はよくわかっている。強力な指導者がなければまとまるなど不可能な連中なのだ。そしてズタスと同水準の指導者は今の騎馬民族には存在しない。
 それゆえ彼らはズタスが死ぬのを待っていた。人の死を望むのは人倫としては許されないことだろうが、彼らにはそれを望むだけの理由があった。
 そしてついにその日がやってきたのだ。この機を逃せば騎馬民族の中から新たな指導者が現れ、再度まとまり、自分たちを圧迫し、侵略を再開するに違いない。そんな真似をさせないためにも、これは絶対につかまねばならない好機だった。

 それは宮廷人だけでなく、南庸の将兵全員にもわかっていた。彼らは自分たちが弱兵であることを知っていた。それゆえ騎馬民族に勝てるのは、彼らが最も弱い状態であろう今をおいて他にないと、強く自覚していたのだ。それだけでなく、ここで負ければ滅亡への坂道を転がり落ちるであろうことも。
 それはただ国を失うというだけではない。民族としての存在を失うということであり、ただの王朝交代以上の切実さがあった。
 絶対に負けられない戦いだった。
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