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庸滅亡 作者:文叔

第十章 北へ帰る

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第十章 北へ帰る 5

 南庸がまとまったのに比べ、騎馬民族は縛っていた紐がゆるむように、徐々に分裂を続ける。
 が、その紐が切れることはまだない。切れるのは、ズタスが死んだ時であろう。その日は刻々と迫っていた。
「…あと数日もちますまい」
 その日の診察を終えた医師は、複雑な沈痛さを込めた表情で近臣の者たちに告げた。庸の宮廷医師だった彼にとって、北狄の首魁の死は諸手もろてを挙げて喜ぶべきことだったが、それをためらわせる心情が育っていた。それはどんな患者であろうと死を喜ぶことを許さぬ彼の医師としての誇りもあるが、同時にズタスに対する心服の想いが湧いてきていたためでもあった。一月ひとつきに満たぬつきあいでこれである。北の族長の人格的影響力の凄まじさは、彼の指揮能力、支配能力の上をいくものであったかもしれない。
 が、とにかくあと数日で一つの歴史が終わり、一つの分岐点がやってくることになる。医師の見立てがはずれるにしてもそれはわずかな誤差でしかなく、これから先ズタスが何年も生き続けることはありえない。近臣たちの思惑は様々に乱れ始めた。


 逆にズタス本人は、死の瞬間が近づいて来れば来るほど心穏やかになってゆく自分を感じていた。肉体の衰弱と苦痛を越えるほどの安らかさに、ズタスは返って自分の死を実感していた。彼にとって人生は、炎のような猛々(たけだけ)しさと、暴風のような荒々しさをもって駆け続けるものだった。その炎がやみ、風が止まる以上、彼には生きている意味と価値がなかった。少なくともズタス自身はそう思っていた。
「族長…」
 目をつぶっての穏やかな呼吸は眠っているようにしか見えない。それを確かめるように控えめにかけられた声に、ズタスは静かに目を開けた。
「おお、師よ…」
 そこにいたのは、ズタスの人生におけるただ一人の師、韓嘉かんかだった。彼は北河以北の領土を治める「族長代理」として激務をこなす日々を送っていたが、ズタス危篤のしらせに、激務をさらなる激しさをもって片づけてほんのわずかな時間を作り、弟子に会いに駆けつけたのだ。
 そのことを言葉によらずして知ったズタスは、まぶたに熱さを感じつつ力の入らない体を起こそうとする。が、そんな彼を韓嘉は押しとどめた。
「そのままで、族長。構いませぬ」
「…申し訳ない、師よ。このように情けない姿を師のお目にかけ、礼を失して応対するなど許されぬことでありましょうが…」
 謝意を告げながら再度寝台に深く横たわるズタスの近くに、韓嘉は断ってから腰掛けた。その椅子もズタスの寝台同様粗末なものである。ズタスはその韓嘉に、違う理由でもう一度謝った。
「師よ…不肖ふしょうの弟子をお許しください。いや、謝って許されることではありませぬが、師の教えや頼みをことごとく無視したこと、謝る以外に出来ることがございませぬ…」
 韓嘉は「略奪は最小限に」と何度も念を押していた。だがズタスはそれを止めることはできなかった。いや、止めるどころかあおった。略奪=士気という騎馬民族をひきいている以上、ズタスにとっては仕方ない話だが、韓嘉には耐えがたいことであり、師に対する弟子の違約と感じたことだろう。
 ズタスは、死を目前にしての破門と罵声とを覚悟していた。それは他の者が考える以上にズタスにとってつらいことだった。彼の韓嘉への敬意と感謝は本物であり、それゆえに師への違約は、常に彼の心を傷つけていたのである。
 が、韓嘉はそのどちらもおこなわなかった。死に至る弟子を静かに見つめながら、言う。
「…謝られることはありません。いや、私の方が謝らねばなりますまい。私とて最初からわかっていたのです。族長にも止めることなどできはしないと…」
 韓嘉にもわかっていたのだ。騎馬民族の猛々しい血を制御する方法は、殺戮と略奪という手段以外存在しないということを。
 それでも韓嘉には頼むことしかできなかった。同胞を殺し、同胞から奪うことを、どうしてがえんじえることが出来るだろう。
 それでいて韓嘉は、民族最大の裏切り者になってしまった。ズタスに央華の真髄を教え、彼に協力して「故郷」をおかし、そして今は統治者にすらなっている。韓嘉が反感を覚悟でその地位にいた目的は、少しでも同胞の被害を減らし、守るためである。
 そしてそれは実際にその通りであった。彼の統治や制御によって死なずにすんだ庸人は数万人におよぶであろう。
 だが周囲はそう見ない。特に支配されている庸人のほとんどから、彼は侵略者におもねって故郷を蹂躙する汚物同然の存在としか思われていなかった。

 韓嘉かんかはそのことを知っていた。そうなることも知っていた。ズタスの望みを受け入れて、彼の師となったときから。
 それでも彼は庸人であった。庸人であることをやめられなかった。それゆえ今の彼は発狂してもおかしくないほど懊悩おうのうしていたが、そんな韓嘉を救っているのもズタスであった。故郷への想いと罪悪感に対するズタス個人への心酔は、天秤のように彼の心の均衡を保ってくれていたのだ。
 韓嘉の人生を狂わせ、同時に救う。ズタスは韓嘉にとってあまりに複雑で、あまりに重い存在であった。が、韓嘉は、ズタス個人を嫌ったことは一度もなかった。彼と初めて会ったときからただの一度もなかった。韓嘉は、ズタスと出逢えたことそれ自体には、心から神に感謝していたのだ。


 だから死の床にある弟子の枕頭ちんとうに座る彼の想いは、純粋な悲しみに満ちていた。ズタスも師のその想いは感じ取っている。それだけにズタスの師への罪悪感と感謝も、あふれんばかりであった。
「師よ…」
「もうなにもおっしゃいますな、族長。私はあなたの師になるために生まれてきた。そのことを後悔しておりませぬし恨んでもおりませぬ。それだけは絶対でありますよ」
 ズタスの想いを感じ取る韓嘉かんかは、すっかり細くなった彼の手をやさしく握り、ズタスの謝罪をすべて受け入れた。韓嘉には韓嘉の生き方と戦いがあり、それをまっとうする覚悟もうにできていた。そこに踏み込む資格はズタスも含めて他の誰にもない。これ以上の謝罪は、韓嘉の人生と覚悟を侮辱することになる。ズタスもそれを悟った。
「師よ、私もあなたの弟子になれてよかった。天上でもあなたの弟子になりたい。今度は侵略のためではなく、ただ純粋に。私のあとにあなたがいらっしゃったとき、門下に加えていただけるだろうか」
「喜んで。族長」
「ありがとう存じます、師よ」
 歴史に巨大なくさびを打った二人は、そのようなものと無縁の師弟になることを、あらためて誓った。
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