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庸滅亡 作者:文叔

第十章 北へ帰る

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第十章 北へ帰る 4

 不穏さと不安定さは寧安の内部のみで収まりはしなかった。北河流域から以北にかけてが騎馬民族の支配地だったが、この領域すべてに広がったのだ。
 それも当然である。それらすべてをズタスの存在が抑えていたのだ。ましてズタスがいる場所から離れれば離れるほど威光が薄れるのも当然であり、各領域の統治を任されていた者たちは、ズタスによって抑え込まれていた野心を急速にふくらませはじめていた。

「ズタス罹患りかん」の報は、遅ればせながら紅都こうとにも届いた。実際、確認が取れたのは相当に遅く、ズタスが寧安の皇宮に病身を横たえた頃である。ズタスの病は隠されていたが、さほど強固な箝口令かんこうれいでなかったことは、寧安へ帰還する頃には騎馬民族すべての兵が知っていたことからも明らかだった。
 だのに南庸が確報を得るのにこれほど遅れたのは、要するに騎馬民族を心底から恐れて近寄らなかったからである。戦争をする以上、相手の情報を得るのは初歩の初歩であり絶対の基盤である。南庸軍はそのことを、少なくとも頭では騎馬民族たちよりよく知っていた。
 しかしこれだけ負けに負け、しかも大敗に次ぐ大敗を続けると、どうしても及び腰になってしまう。まして北河を渡り、寧安を占拠してからの騎馬民族軍の南下は怒濤どとうと言ってよかった。央華大陸をすべておおってしまうほどの天災とすら感じられ、南庸人としては逃げる以外に対策がなかったのだ。
 が、それでも南庸唯一の味方――広い大地――がその大波を跳ね返してくれた。それは逗河とうがの手前で騎馬民族が軍を返したことからも明らかであり、その報告が届いた日の紅都は急遽祝日になったほどであった。皇帝も、宮廷人も、民衆も、あまりの安堵に人生で初めてと言えるほどの狂態きょうたいを示したものである。寧安と違い、彼らは本当に安全だった。


 しかし北へ帰る騎馬民族をそのままにしておいたわけでもない。南庸の斥候たちは恐る恐る彼らのあとをついて行った。とはいえあまりに離れてついて行ったため、本来の目的である情報がほとんど得られなかった。が、それでもちらほら聞こえてくる「兵だけでなくズタスも疫病えきびょうおかされた」という噂は、彼らの全身に電流を走らせる。
 すぐ紅都へ知らせたかったのを自重したのは、さすがに自分たちの情報収集に疎漏そろうがあることを自覚していたからである。
 緊張感のありすぎる期待と願望にさいなまれつつも、南庸の斥候せっこうは騎馬民族軍の後を追い、少しずつ情報を仕入れ、そしてついに「ズタス罹患」の確報を得ると、まず彼ら自身がその事実に狂喜した。
「天は正義を見捨てたまわず!」
 自分たちは何一つ悪くなく、ゆえに正義である。これは、古今東西侵略された側の自然な感情であり、おおむね間違ってはいない。が、今回は、自分たちの内紛を騎馬民族を招き入れることによって解決しようとした愚行があるため、彼ら南庸人にまったく罪なしとは言えなかった。が、そんなことにこだわる余裕は今の彼らにはない。
 歓喜の想いを全身に満たし、引き続き騎馬民族を探索するための数騎を残し、あとは紅都へ馬を走らせる。ほとんど不眠不休の強行軍で紅都へ到着し、ズタス罹患の報告をした途端、全員が倒れた。張りつめていたものが切れ、歓喜に忘れていた疲れを心身が思い出したのだ。内一名がそのまま死亡してしまったことからも、彼らがいかにズタスの病に狂喜したかわかろうというものである。

 ズタス罹患の報は、紅都の宮廷に生色をよみがえらせ、そしてさらなる躍動も生んだ。
「このまま一息に北狄どもを長城の外へ押し返そうぞ!」
 宮廷で叫ぶ高官がおり、それに賛同する声は無数に湧いた。
 喉元のどもとすぎれば熱さ忘れるという面もあるが、戦略として間違っているわけでもない。騎馬民族が巨大な個によってしか一枚岩を保てないというのは、南庸に限らず央華人であれば誰でも知っている。その要が倒れたのだ。騎馬民族が分裂するのは目に見えている。そこに攻撃を仕掛ければ、いかな弱兵である南庸軍でもきっと勝てる。そう考えるのは無理もなく、正しくもあった。
 が、当然反対意見もあった。
「今の我らはまともな軍隊を持っておらぬ。これから徴兵して訓練をするにしても、すぐに北伐というわけにはいかぬ。それにズタスは病に倒れたが、まだ死ぬと決まったわけではない。そのことを確かめずにのこのこ北上すれば、病の癒えたズタスに率いられた北狄に、またも壊滅させられるぞ」
 それなりに真っ当な意見ではあるが、目の前に放り出されたあまりに甘美な好機は、恐怖感と閉塞感が取り払われた紅都の宮廷ではほとんど取り上げられなかった。これまでの敗北と劣勢を一気に挽回し、正しき央華の主人としての立場と誇りを取り戻せるかもしれない。その誘惑と渇望に逆らえる者など皆無に等しかったのだ。
 それは宮廷人だけでなく民衆も同様である。南江近辺に住む彼らにとってズタス率いる騎馬民族は、まだはるか北の脅威だが、自国を侵略されて喜ぶ者などまずいない。それに北から逃れてくる数万、数十万の難民は、彼らの同情心と愛国心を強く刺激していた。
「北狄許すまじ」は、すでに南方に住まう南庸人の総意になっていたのだ。

 それゆえ、緊急の徴兵にも民は進んで応じた。「北狄の首魁しゅかいが死にかかっているそうだぞ」という噂は、すでに紅都から他の地域にまで広がっている。あまりの朗報のため隠すに隠せなかったし、宮廷としてもそのつもりはなかった。ここで一気に逆転してしまわなければ、自分たちは央華大陸から追い落とされるか、滅亡させられてしまうかもしれないのだ。起死回生、乾坤一擲けんこんいってきのために挙国一致体制を敷く、最後の機会なのである。それを民衆に伝えるためにも、ズタスの罹患は隠すべきではなかった。
「これに勝てばすべてがくつがえる」
「これに勝てばすべてが終わる」
 という思いから、
「戦いもこれが最後だ」
 という思いに変わるのは自然であり、そして最後であれば民衆も積極的に全力を傾ける。
 官民が真に一つになった、南庸にとって本当に最後の、死力を尽くした反攻が始まろうとしていた。
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