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庸滅亡 作者:文叔

第十章 北へ帰る

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第十章 北へ帰る 1

 帰るというズタスは、どこへ帰るつもりだったのだろう。ひとまずは寧安ねいあんへ戻ることを全軍に命じていたが、その先はわからない。
 寧安で英気を養い、周辺をまとめ、あらためて戦力を増強し、再度の侵攻を企図していたのだろうか。それとも北河以北まで退しりぞき、韓嘉の統治のもと徐々に秩序を取り戻しつつあったの地で新王朝の始祖にでもなるつもりだったのだろうか。あるいはさらに北へ向かい、長城も越え、自らの故郷へ帰り、そこで静かに余生を送るつもりだったのだろうか。
 だがそれは、生きてる者には永遠の謎となってしまった。帰途についたズタス自身が疫病におかされてしまったのだ。

 それは突然のことだった。頑強な外見のみならず、内面においても強靱きょうじんさを誇っていたズタスは、いくさ場での負傷が元で高熱を出したことはあったが、これまで病などにかかったこともなかった。それがここに来て突然である。
 が、ズタスに近しい者は、その理由をおぼろげながら感じていた。彼らの族長の中で、何かが切れたのだ。人生のすべてを懸けて突き進んできた事業が終焉しゅうえんを迎えたのである。それも騎馬民族どころか央華の歴史を含めてでさえ空前の大事業である。そのほとんどすべてを独力で敢行かんこうしてきたズタスの心身にどれほどの負担がかかっていたか、理解できる者は近臣どころか歴史上にもほとんどいなかっただろう。それが中途でさえぎられた今、凄まじいばかりに疲弊ひへいした彼の体が、病魔を退けられなかったとしても無理はなかった。

 それでもズタスは、寧安に戻るまで常に馬上にった。日中進むあいだ馬から降りることはなく、野営地にたどり着くと崩れるように天幕内の寝台へ倒れ込む。近臣がどれほど言葉を尽くしてもこれをあらためようとしなかった。
輿こしに乗って進むような姿を見せれば、それだけで叛乱が起こるであろうよ」
 とは、高熱と下痢とによって日に日に蒼ざめてゆくズタスが苦笑しながら言ったことである。それは、極端ではあったが間違いではなかった。すぐに脱走や叛逆が起こるとは限らなかったが、その素地は必ず出来てしまう。ズタスは自分が死んだ後のためにも、兵に弱った姿を見せるわけにはいかなかったのだ。

 だが、それが焼け石に水の行為であることもズタスは知っていた。ズタスには息子がいる。その息子は勇敢で勇猛だったが、父ほどの器量には恵まれていなかった。彼がれられるのは、長城の北にいた頃のコナレ族程度のものでしかなかったであろう。今現在、他の部族を吸収し、央華の半ばを征すほどに巨大化した騎馬民族を掌握出来るとは思えなかった。

 それはズタスだけでなく、他の将軍や兵たちにも見抜かれていた。ズタスの死後がどのような事態になるか確定されているようなものである。
 そしてそれゆえに、ズタスにも意地があった。彼が死ぬまでの騎馬民族はなんとしても一枚岩にしておく。央華征服を成し得なかった上、死の直前に勢力が解体するようなことになっては、天上で彼が倒して来た者たちに嘲笑されてしまうだろう。
 それだけはズタスの誇りが許さなかった。


 ズタスが病にかかったことは箝口令かんこうれいが敷かれ、兵たちには知らされていなかった。それでも人の口に戸は立てられない。彼らの中で「族長が疫病に」との噂が立つのは止められなかった。それが噂の域から出なかったのは、馬上のズタスがまったくその素振りを見せなかったからである。
 背筋を伸ばし、常と変わらぬいかめしい表情は、いくさ場に在る彼らの総大将そのものであった。近くまで寄れば顔色が蒼いことには気づくかもしれないが、それもほんのわずかで、よほどに注意しなければわからない範囲である。ズタスの凄まじいほどの精神力は、最後までその威容いようを崩させなかった。それはこれまでの庸軍とのどの戦いよりも困難で苦しいものだったが、ズタスは寧安の城門をくぐるまでやりおおせてしまったのだ。


 寧安の宮城きゅうじょうへ入ったズタスは、そのまま皇帝の私室に置かれた寝台へ直行した。最初に寧安へやってきたときにも入った部屋だったが、その時と様相はまったく違う。
「落ち着かぬ。もっと硬い寝台はないか」
 寧安に到着したことでさらに何かが切れたか、ズタスの衰弱は一気に進んだ。頑強な筋肉はしぼみ、頬はやつれ、目はくぼみ、顔色も黒くなってくる。明らかに死相であったが、それでも表情と口調は常と変わらぬ。ズタスの中では肉体と精神が分離しはじめたのかもしれない。豪奢ごうしゃで柔らかすぎる寝台に不平を述べ、戦場での寝台を求めたことからも、その印象を周囲の者たちに与えた。
「なりませぬ。本心から治癒をお望みなら、体に負担をかけるような真似はなさいますな」
 ズタスの要求を医師はたしなめる。
 この医師は庸の宮廷医師である。寧安に騎馬民族が乱入したとき幾人もの医師も殺され、生き残った者でも騎馬民族に使役されることに耐え切れず自害した者もいた。彼もその中の一人になりたいと考えもしたが、寧安の惨状にほんのわずかでも自分の医術で庸の民を救いたいとの想いが湧いたため、屈辱と恥辱とにさいなまれながらも、野蛮な異民族に統治された寧安で生きる道を選んだのだ。

 その彼がズタスの治療を引き受けたのは脅されたからではない。いや、実際に脅されはしたが、そのことを恐れたからではなかった。断れば殺され、寧安の民の治療ができなくなるからである。
 ズタスを治療の折、この好機に敵の首魁しゅかいを毒殺してしまおうかとも考えたが、それは彼の医師としての誇りが許さなかった。なにより寝台に横たわるズタスを見て、彼の余命がほとんどないのをすぐにて取れたことがこの考えを捨てさせた。だがそうであっても、彼は治療に手を抜くつもりはなかった。


 騎馬民族に医師がいないこともなかったが、彼らは占い師や呪術師に近いところがあり、実際の役にはほとんど立たない。文明度や技術力で騎馬民族は、央華民族の足下にも及んでいなかった。
 すべての騎馬民族がそうとは言えないが、ズタスは自分たちが央華民族に劣るところは劣っていると素直に認めていた。ゆえに庸の医師の治療は素直に受けたが、彼が彼であることをやめる気もなかった。
 寝台はこのままでという医師の勧告は、静かに、断固として拒絶した。
「いや、これでは寝るに寝られぬ。その方が体に悪いであろう。北狄ほくてきには北狄に似合いの寝台というものがあるのだ」
 語調はわずかに弱いが、それ以外は何も変わらないズタスの言は、北狄という蔑称を使っていることから自嘲とも取れるが、医師にその感情は伝わってこなかった。それどころかごく自然にすべてを納めてしまっているズタスに、異民族をさげすむ央華人の傲慢ごうまんさをさらされたようで、戸惑いと羞恥とを覚えてしまう。
「…わかりました、では手配しましょう」
 その感情はなんとか隠しつつ医師は応じ、準備の指示をしながら「これでは我らが負けるのも当然だ」との想いを強くする。その事実に屈辱感や敗北感も覚えたが、納得の思いが最も強く、そのことが医師の敗北感をさらに強めさせた。

 用意された寝台はさすがに陣営地の下級兵たちが眠るようなものではなく――そもそも彼らは寝台でなく床に敷物を敷いて寝る――、簡素ではあっても頑丈なものが用意された。敷布しきふ掛布かけふも一枚の布ということはなく硬くなった綿が積められたものだったが、それでこそズタスは落ち着いて眠れたようであった。
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