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庸滅亡 作者:文叔

第一章 長城突破

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第一章 長城突破 6

 燃える兵舎からは火のついた紙も舞っている。文字の国である庸では当然のことで、報告書や日々の決済書なども含まれているのだろう。ほとんどの騎馬民族にとって無意味で無価値なものだが、ズタスは数少ない例外だった。
寧安ねいあんでは保護せねばならぬ書物も多かろうな」
 寧安とは庸帝国の首都であり、彼の視界はすでにそこまで届いている。それは侵略者であれば当然のことだが、書物のことまで考えるようズタスに影響を与えたのは、彼の師であった。


 ズタスは字が読めなかった。それはズタスのみが特別だったわけではなく、騎馬民族のほとんどは読み書きができない。
 それゆえ韓嘉かんかのズタスへの教育は口頭によるものがほとんどだった。
「よろしいか、おさよ。我が央華の歴史は、天上の神々に統治をゆだねられ、地の神々に統治の代理を任された帝土の御代みよより始まります」
 韓嘉はズタスに対し、央華の歴史から教授しはじめた。それは神話の時代から人が治める世になり、そして人の世においての治乱興亡のすべてが網羅されたものになる。
 ズタスもこれには面食らった。彼が知りたかったのは極論を言えば「どうすれば長城を打ち破ることができるか」だけであったのだ。それについての知識や技術、多少範囲が広がったとしても現在の庸の宮廷や軍についての概要や組織についてだけ知れればいいと考えていたのである。
 それがいきなりこれである。さすがのズタスも当惑するのが当然で、困惑気味に質すのもまた当然であった。
「師よ、わしはなにも央華の神々や帝のことを知りたいわけではないのだが…」
 そんなズタスを韓嘉はぎろりと睨むと硬質の声音で答えた。
「長は私になにを教えるかを指示できるほど習熟しておりましたか。では私がお教えすることはなにもございません。ここまでにいたしましょう」
 と、彼のみが持っていた書物を片づけると、立ち上がってズタスの天幕から出て行こうとする。それを見たズタスはあわてて韓嘉を引き留め、心から陳謝した。
「師よ、申し訳ない。許されよ。わしが無知で無礼であった。どうか座って、わしの至らぬところを正してくれ」
 央華の常識からいえば、師に対する弟子の言動としてまだ礼儀がなっていない。しかしズタスの心中にある想いは、形は整っておらずとも礼の神髄からはずれていなかった。「礼」は思想であり「儀」は形である。形を整えれば中身が勝手にともなうとする者は、礼を真に理解したとは言えない。現在の庸の知識人にはこのような者が多く、韓嘉としては鬱屈する日々を過ごしていたのだが、ズタスはその逆であり、儀は整っていないながら彼を不快にはさせない。
 しかしその感情は面には出さず、韓嘉は重く硬い表情のままズタスをさとす。
「師に付くということは、おのれをむなしくし、師のすべてを吸い取る覚悟のある者のみに許されることです。そして弟子を取るということは、その者におのれのすべてをそそぎ込む覚悟と能力がある者のみに許されたことです。ゆえに弟子は師を選び、師は弟子を選ばねばなりません。師たる資格のない者を師とするのは弟子の不明であり、弟子たる覚悟のない者を弟子とするのは師の不明です。私は長を弟子とするに値する方とお見受けしたからこそ師事しじすることを許したのであり、長もまた私をそのような師と見てくれたからこそ私に師事してくださったのでしょう。互いに師として弟子として、ふさわしい振る舞いをいたしましょう」
 厳格でありながら真情のかよった韓嘉の訓諭くんゆはズタスの心に染みた。彼は自分が師を選び間違わなかったことを知り、そのような師にふさわしい弟子になろうとあらためて誓った。
「仰せの通りです。師よ、不明の弟子をお導きください」
 ズタスは他のコナレ族にとっては捕虜でしかない男に心から頭を下げ、それを見た韓嘉はわずかに表情をゆるめると、あらためて座り直し講義を再開した。


 ズタスは学生に専念したわけではない。彼には族長としての責務が山積しており、本来はそれをこなすだけでも時間が足りないほどであった。しかし彼はどんなに忙しかろうとも必ず韓嘉の講義を受ける時間をもうけた。それはいずれ央華を我が物とするために必要だからというだけでなく、純粋に韓嘉の語る央華の歴史がおもしろかったからだ。
「なるほど、では褐王かつおう姦計かんけいあざむかれ捕虜となりながら、そこから這い上がり、ついに天下に覇を唱えたのですか」
「さよう、一兵も持たぬ身に落ちながら、不屈の心と尋常ならざる努力をもって、王として返り咲きました。褐王が碧王へきおうを打ち破り、革命を果たした『棟協とうきょうの戦い』は、央華史上でも初めておこなわれた天下分け目の決戦といってよいでしょう」
「それはどのような戦いだったのですか」
「褐王軍二十万が碧王軍四十万に挑む戦いでありました。その日は豪雨が襲い、戦場となった棟協も沼地のようであり、しかしこれは馬に引かせる戦車が一番の兵器だった当時、その数も質も劣る褐王軍にとって天祐てんゆうでした…」
 ズタスたち騎馬民族に文字はない。伝承は存在するが、それは父祖から口伝で語られるもので、多分にあやふやで伝説性が強かった。「歴史」とはそのようなものだと考えていたズタスにとって韓嘉が語ってくれる央華の歴史は新鮮で臨場感があり、また族長の立場として学ぶべきものも多く、そして純粋におもしろかった。
 それは師である韓嘉の手腕にもよる。彼はズタスが興味を持ちそうな話を中心に講義を進め、その中で彼に「君主」として必要なものを巧みに教えていたのだ。
 言ってみれば帝王学である。韓嘉はズタスの師になると覚悟を決めた時から、手を抜くことは考えもしなかった。


 しばらくしてズタスは文字も覚え始める。先述した通りコナレ族を含む騎馬民族に文字はないため当然央華文字ということになるが、このようなことは戦場で剣を振り矢を射ることとあまりに勝手が違い、さすがのズタスも手に余ることが多かった。だが彼は、央華の文物をより楽しみたい、より知りたいという欲求に押され、徐々にではあるが確実にそれらを覚えてゆくと、数年のうちに完全に獲得してしまっていた。
 そのことにより、彼の学習能力も知識も飛躍的に向上してゆくことになる。


 そしてそのような日々を過ごすうち、ズタスは央華の歴史を学ぶことが長城を打ち崩すために必要だと知るようになる。
 なぜ長城ができたのか。なぜ必要であったのか。それは央華民族を知らなければ理解することは難しい。
 対象の国の歴史を知ることがそこに住む人々を理解するために有効な方法であることをズタスは感得してゆく。それはより深い意味で「敵を知る」ということである。このことが央華民族との戦いにおいてこの上ない武器になると、学はなくとも聡明なズタスはすでに理解していた。
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