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庸滅亡 作者:文叔

第八章 寧安陥落

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第八章 寧安陥落 5

 宮廷を出たタクグスたちは、さらに回廊を奥へ進む。彼らが求めるのは皇帝の身柄のみである。もしかしたらすでに逃亡してしまっているかもしれないが、宮廷にあれだけの重臣が残っていたのだ。逃げるなら連中も一緒に逃げているはずで皇帝だけが逃げるに任せるはずもない。必ず皇宮内にいる。タクグスはそう信じていた。
 そしてその信念は、事実として報われた。
「いた!」
 一人の兵が前方にいる男を指差して叫んだ。騎馬民族の誰も庸の皇帝など見たこともないが、皇帝のみが着ることの許された皇帝服の特徴だけは聞かされて知っている。その特徴に合致する服を着た男を見つけたのだ。ただ、皇帝を逃がすために影武者が着込んで騎馬民族の目をごまかそうとしている可能性はある。
 が、それに関してはタクグスに腹案があった。
 タクグスは兵を引き連れ皇帝服を着た男に走り寄ると、立ったまま短くただす。
「皇帝か」
 鋭く射るような視線で皇帝を見るタクグスのよろい砂塵さじんと返り血に汚れ、ここまでの道程を如実に表している。凄惨なその姿は気の弱い女官ならば見ただけで失神してしまうほどだったが、そんな彼を皇帝は、静かとも重いとも取れる目で見据え、問いにふさわしい短さで答えた。
「さよう。ちんが大庸帝国皇帝・陳徹ちんてつだ」
「まことか」
 確認するタクグスに陳徹は苦笑する。
「そう尋ねられても困る。汝がそのように疑っておるのなら、どのような形で証明しようと信じぬであろうが」
 タクグスは騎馬民族の中では繊弱せんじゃくに見える。が、芯には大族を率いるにふさわしい強靱きょうじんさがあり、凡庸ぼんような者であればまともに相対あいたいするなどできはしない。ましてタクグスの後ろには強悍きょうかんさを体現したような兵が十人以上いるのだ。凡庸以上の男であっても平静さをたもつのは難しいだろう。そして陳徹は、本来、凡庸以下、惰弱だじゃくとすら酷評されるひととなりのはずであった。少なくともタクグスはそう聞かされていた。
 が、今の陳徹は敵兵の発する圧迫感をまるで感じていないようであり、タクグスを小さく混乱させる。あるいはやはり影武者なのだろうか。
「……」
 タクグスは無言のまま一人の男を引きずり出した。賢花けんかの一人、二花にか朱叡しゅえいであった。彼は皇帝を見ると、指を差し、甲高かんだかい声でタクグスに告げた。
「こ、皇帝です! 陳徹です! 間違いございません!」
 朱叡は、皇帝の顔を知らない騎馬民族のためなかば進んでタクグスたちについてきたのみならず、君主である皇帝を指差し、敬称もつけないどころか名を呼び捨てにするという幾重もの不忠と不敬を一息に働いた。しかし陳徹は乾いた目で朱叡を見やり、何も言わない。賢花がこういうひととなりであることは陳徹にも重々わかっていたのだ。わかっていてこれまで彼らの言いなりになってきた。何を言う資格も自分にはないと、彼にはわかっていた。

 そんな朱叡に不快感といきどおりを見せたのはタクグスであった。
「そうか、ご苦労であった。どこへなりとも行くがよい」
 が、タクグスはそんな朱叡を放してやった。「皇帝を見分けられれば助けてやる」とでも約束していたのだろう。突き飛ばされるように自由になった朱叡は、多少の狼狽ろうばいを見せながらタクグスと陳徹をおろおろと見比べていたが、すぐに身をひるがえして走り去った。
「よいのか」
 とは、そんな朱叡を乾いた視線で見送った陳徹である。皇帝の問いにタクグスは、逃亡者への侮蔑ぶべつを込めて答えた。
「全兵士に宦官はすべて殺すよう命じてある。逃げられるものなら逃げ切ってみせるがよい」
 タクグスに限らないが、騎馬民族にとって宦官は、本能的な嫌悪感と気色悪さとを覚える存在であった。彼らにとって性は即物的なものであり、男でも女でもない宦官は異質すぎて受け入れがたいのだ。ましてこれほど庸を腐敗させ弱体化させた要因が宦官だという事実も知っている。情においても理においても、生かしておく価値を覚えさせない存在が、彼らにとっての宦官だった。そして皇宮にはすでに騎馬民族軍が充満しており、前述した通り、ひげのない宦官は簡単に見分けがつく。よほどの機知と幸運がなければ逃げ切れるものではない。
 現にこの後、皇宮内の宦官は一人残らず斬殺ざんさつされてしまう。当然、朱叡も逃げ切れなかった。
 この大虐殺によって庸中枢に巣くった宦官派は一掃された。これは、ズタスと内通して長城の門を開き、庸崩壊の大きなきっかけを作った士大夫・張堅ちょうけんの悲願が達成されたということでもある。ズタスは彼との約束を守ったのだ。
 ただ、それだけのことだったが。

「そうか」
 タクグスの言うことにうなずいた陳徹は、あらためて彼に向き直る。が、なにを言うわけでもない。剣戟けんげきと悲鳴と叫喚きょうかんがそこかしこから聞こえてくる中、沈黙に耐えきれないように口を開いたのはタクグスの方だった。
「宮廷に残った連中も、すでに全員死んでおる。命乞いのちごいをする者もいたが、そうでない者もいた」
 タクグスは、陳徹に同情していたのかもしれない。無自覚にそんなことを教えてやっていた。命乞いをする者は宦官が多く、あくまで屈せず騎馬民族を難詰なんきつしてきた者は士大夫が多かった。だが、これもまたそれだけの話であった。
 陳徹は表情も変えずにうなずき、そして口を開いた。
「で、朕をどうしたいのだ。殺すのか?」
 陳徹の問いはなにがしかの意志も込められており、タクグスはやや居住まいを正して応じた。
「いや、汝には我らとともに来てもらう。我らがおさも、汝には会いたがっていた」
 これはズタスの当初からの方針であり、タクグスも異論はまったくなかった。皇帝は殺さず捕らえるべし。その方がただ殺すよりはるかに益がある。いや、殺してしまった方が害があるのだ。それも計り知れないほどの。
「そうか、さすがに北狄といえどこれほどのことをやってのける男はわかっておるな。が、そうであればこそ、朕は汝の主君に会うわけにはいかぬのだ」
 やや自嘲気味に笑みを浮かべた皇帝は、ふところから小刀を取り出し、さやから抜いた。それを見た騎馬民族たちは反射的に身構えたが、次の瞬間、皇帝がなにをしようとしているかを知ったタクグスは、目を見開き手を伸ばす。
 が、それより早く、小刀は手にした皇帝自身の頸動脈けいどうみゃくを切り裂いた。勢いよく血が噴き出し、皇帝は回廊かいろうに崩れ落ちる。
「くそ…!」
 タクグスは急いで皇帝に駆け寄り、片膝をついて彼の傷口を調べる。が、それは絶望しかタクグスに与えなかった。武芸に一応の心得がある皇帝は、手のほどこしようがないほどきれいにみずからの動脈を切り裂いていたのだ。繊弱せんじゃくに見えて歴戦であるタクグスにもそのことはすぐわかった。舌打ちは皇帝の身命をおもんぱかってのことではなく、陳徹の意図を正確に感じ取ったからであった。そしてその推察が正しいことを、陳徹はか細い声で証明した。
「汝らに…我らは…一人も…残さん…」
 声の最後はほとんど聞こえず、陳徹の目からは急速に光が失われ、そして流れ出る血液がほとんどなくなったところで、声も光もすべて消え去った。
 崩御した皇帝に渋面を見せるタクグスだったが、陳徹の言葉の意味にようやく気づき、らしくなくあわてて背後の兵たちに命じた。
「皇子たちを探せ! 皇女もだ! 急げ!」
 タクグスの命令に跳ねるように反応した兵たちは、部屋を一つ一つ確認しながら皇宮の奥深くまで進む。そしてようやく見つけたのは皇帝の子供たち、子のあとを追って自害した彼らの母、皇妃、愛妾たちの遺体であった。
「…やられたか」
 その報告を受けたタクグスは、生き残っている士大夫に首実検をさせて、彼らが真実、皇妃や皇子であることを確認した。遺体にすがりついて泣き崩れる士大夫には構わず、タクグスはさらなる渋面を作り、すでにしかばねとなった皇帝のところへ戻って彼を見下ろす。開いたままになっていた陳徹の目を閉じさせてやったのはせめてもの情けであるが、タクグスは思っていた以上にこの死せる皇帝にしてやられたことを実感していた。
「皇帝と皇妃、皇子たちの遺体は生き残っている士大夫に任せて、連中のやりたいように安置させてやれ。葬儀その他はすべてが終わってからだ」
 タクグスがいかに博識であっても、央華帝国の葬儀の手順を知っているはずもない。勝者の特権としてこのまま北河に叩き込んでも構わないだろうが、それはこれからのことを考えれば下策であった。タクグスはそのことがわかる男ゆえにズタスに帝都攻撃軍の総指揮官に選ばれたのだが、それゆえに自分の失敗も自覚していた。
「…庸、いまだあなどりがたし、か」
 寧安陥落をもって、百四十四年続いた庸帝国は、事実上滅亡した。ズタスの代理としてこの歴史的壮挙を達成したタクグスに、しかし勝利感は薄かった。陳徹は無能・惰弱を絵に描いたような皇帝であり、その皇帝に統治される庸帝国は彼らにとってくみしやすい存在であるはずだった。
 が、それが間違いであったとタクグスは知った。
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