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庸滅亡 作者:文叔

第八章 寧安陥落

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第八章 寧安陥落 4

 タクグス率いる七千五百は、皇宮をあっという間に埋め尽くしていった。城壁を乗り越えた時点で勝敗は決している。近衛兵は、勇敢に戦う者もあり、逃げ出す者もいたが、逃亡に成功した者以外ほぼ全員が殺された。武器を持っていたからだ。タクグスの指示は「武器を持つ者、抵抗する者は殺しても構わん」であった。
 女官の中には暴行を受けた者もいたが、ほとんどは見逃された。タクグスが選んだ精兵の大部分は「皇帝確保」という最重要の目的を忘れていなかったのだ。
 が、宦官は容赦なく殺された。彼らの見分け方は簡単である。男性器のない彼らにはひげが生えていないのだ。士大夫は自分たちが宦官と同類に見られることを忌避きひし、髭の薄い者ですら必死になって生やしていたため宦官と誤解されて殺される者は皆無に近かった。ただし皇宮を蹂躙じゅうりんされる屈辱に耐えきれず抵抗する士大夫は多く、その勇気と誇りは彼らの命とともに消えていった。
「皇帝はどこか」
 徐々に皇宮の深く深くへ侵入してゆくタクグスは、出会う文官にしばしば尋ねる。死をして無言を貫く者は捨て置き、恐怖に駆られる者をおどして聞き出すと、さらに奥へ。
 皇帝と国家の重臣たちがいる宮廷まであと少し。


 ついに宮廷にすら、怒号、悲鳴、剣戟けんげきの音がはっきり聞こえるようになってきた。中には「北狄だあ!」との悲鳴も聞こえ、皇宮乱入の暴挙に出た者の正体を知らせてくる。
 すでに徐雄じょゆう王潔おうけつも黙っていた。人格や見識の高さからではない。ありえない恐怖が彼らの顔を蒼ざめさせ、口を開いたまま声を失わせたのだ。
 そんな中、皇帝は立ち上がった。そして扉へ向かう。
「へ、陛下、どちらへ」
 徐雄がかろうじて声をらし、尋ねる。王潔も口を開くが、むなしく開閉するだけだった。彼ら宦官の思考は、自己肯定と責任転嫁を旨としている。それは主君である皇帝に対してすら同様で、この時の王潔も「お一人でお逃げあそばすか」という非難を浴びせようとしたのだが、自分たちの内世界をはるかに越える恐怖の前に声が出てこなかった。
 そんな彼らに皇帝は振り向いた。
ちんが何を言おうと考えようと、汝らに聞く気はあるまい」
 冷たいというより乾いた表情と言葉は、即位してからこれまでの陳徹ちんてつの真情を余すことなく表していた。
 彼はこれまで無視されてきた。最も尊貴そんきな地位にありながら、彼の言うことを聞く者は宮廷に誰もいなかった。それを怒るには彼の心は乾ききっており、また怒る資格がないことも知っていた。
「朕の無力が汝らをあやまらせた。ゆえに北狄にくだるも許す。好きにせよ。しかし最期くらいは朕のすることに口出ししてくれるな。頼む」
 そう言いおくと陳徹は扉の向こうへ消え、そんな主君を士大夫も宦官も呆然と見送るしかなかった。


 そして自失が去ると、彼らは恐慌きょうこうに陥った。本当にどうしていいかわからなくなったのだ。
「に、逃げるか?」
「ど、どこへ。どうやって。もうここには北狄があふれかえっているに決まっておるぞ」
「で、ではどうする、戦うか」
「それこそどうやって! 北狄にかなう者が我らの中におるものか!」
「大声を挙げるな! ではどうするのだ、降るのか」
「そ、それしかあるまい。陛下もお許しくださった」
「汝らはそれでも大庸の忠臣か! 北狄に降るなど恥を知れ!」
「恥で生き抜くことができるか! 死にたければ汝一人で死ね。わしは嫌だ、まだまだすべきことがあるのだ」
「汝のしたいことなど酒池肉林しゅちにくりんだけであろうが! 私欲のために大庸の臣下としての道を踏み外すか」
「汝と同じにするな! わしは大庸の民のために生き残り、すべきことがあるのだ。そのためなら泥水をすすっても生き延びてくれるわ」
「どの口がそのようなことを言うか! 民の血肉を喰らって私腹を肥やしてきた者が、それこそ恥を知れ」
「汝にだけは言われとうないわ!」
 士大夫も宦官も関係なく、互いへの罵詈雑言ばりぞうごんが乱れ飛ぶ。
 中にはどこか奇妙に空白を覚える者もいて、この絶望的状況においてまで互いを罵り合うことしかできない自分たちに恐怖すら感じてへたり込む。
「我らはいったい、なんだったのか…」
 それはこの世に生まれ落ちて数十年、はじめて彼が正気に戻った瞬間だった。
 が、それは本当に一瞬のことでしかなかった。ついにタクグス率いる騎馬民族が宮廷へ押し入ってきたのだ。
 すべてを終わらせるために。


 陳徹ちんてつは、一室に家族を集めていた。
 人数は九人。皇妃が一人、正式な愛妾が三人。
 娘は二人。十三歳と九歳。
 そして息子が三人。十二歳、十歳、六歳である。
 娘は二人とも皇妃の子で、皇子三人のうち長男は一人の愛妾、次男と三男はもう一人の愛妾の子であった。
 全員が皇宮の異様な状況におびえきっている。特に二人の娘や最年少の皇子はそれぞれの母親から離れられず、母たちも子供を抱きしめながら蒼ざめていた。
 と、そこへ陳徹が現れ、彼女たちはホッと安堵のため息をつく。が、すぐに不安と恐怖にいろどられた顔に戻り、皇帝ににじりよる。
「陛下、いったいなにが…」 
 皇妃が尋ねた。彼女も女である以上、愛妾の存在にややわだかまりはあるが、それでもこの状況では些末事さまつごとである。全員が、今は夫であり父である皇帝にすがるしかなかった。
 が、陳徹は妻の問いに答えず、乾きと烈情のこもった目で彼女たち、特に子供たちを見やると、おもむろに手にしていた剣を抜いた。その行為に目をく陳徹の家族だったが、彼の次の行動は驚くどころの話ではなかった。 
 いきなり最年長の皇子を、剣で突き刺したのだ。
「…! 陛下! なにをなさるのです!」
 刹那せつなのち、母である愛妾の一人が悲鳴を上げて床に崩れ落ちた我が子を抱き上げる。が、ほとんど無防備のまま心の臓を貫かれた長男は、恐怖や苦痛を浮かべる余裕もなく、なにがなんだかわからないという表情で、すでに事切れていた。
 母も同様になにが起こったかわからなかったが、息子を失った現実だけが彼女を半狂乱にさせかかる。が、続けての皇帝の行動が彼女を狂わせることすら許さない。陳徹は、我が子を次々と刺し殺しはじめたのだ。
 逃げる間もなく皇子が次々と殺され、あまりの光景に自失していた愛妾が我に返ったように我が子を抱き締めるが、急速にむくろと化してゆく息子たちに声にならない悲鳴を上げる。
「陛下! 陛下! なにを、本当になにをなさるのです! おやめください、おやめください!」
 義理の息子たちが立て続けに父親に刺し殺される光景は、皇妃も恐慌きょうこうおちいらせた。皇妃は怯えと恐怖とに全身を染めた娘二人を両腕に抱き、部屋の隅へと逃げてゆく。が、狭い部屋である。逃げ場などほとんどない。扉と逆方向に逃げてしまったこともあり、皇妃と二人の皇女はすぐに追いつめられてしまった。そこへ血塗られた剣を持つ皇帝が歩み寄ってゆく。
 皇妃は、夫が乱心したと思った。騎馬民族に攻められ、さらに今は皇宮内に――騎馬民族なのか叛乱を起こした臣下なのか彼女にはまだわからなかったが――武器を持った敵が乱入しているらしい。それらの心労で夫はきょうしたのだ。そうでなければこのような人倫じんりんにはずれる暴挙に出るはずがない。皇妃はそう思った。
 が、夫の目を見た彼女は殴られたような混乱に陥る。陳徹の瞳は激しい哀惜あいせきとたとえようもない無力感にさいなまれてはいたが、決して正気を失っていなかったからである。
「陛下……」
北狄ほくてきどもに我らを残してやってはならぬのだ」
 皇妃の震える唇から漏れたのは夫の尊称だったが、皇帝は彼女が本当に訊きたかったことに答えてやった。
 陳徹はそのまま三人に近づくと、父の異常さに圧倒され泣くこともできず固まったままの娘たちを、一人一人刺してゆく。母である皇妃も夫にされ、腕の中の我が子を守ることができなかった。陳徹は武芸の心得があるため子供たちは苦痛の時間も短く絶命してゆくが、それがなんのなぐさめにもならないと、消えかかる皇妃の理性はかろうじて感じている。
 我が子を全員刺殺した陳徹の手から血塗れた剣が床に落ち、乾いた音を立てた。それぞれの母に抱かれた我が子のむくろながめやる彼の目に、わずかに激情が戻ったように見えたが、それはまたすぐ消えた。
「ならぬのだ…北狄どもに我らを残してやっては…」
 もう一度つぶやくように言うと、皇帝は妻と愛妾たちを見やる。
「汝らは好きにせよ。北狄に降って慰みものになるもよし、子を追って自害するもよし。朕もすぐに行くが、天上へは汝らだけで行くがよい。朕は地下へ落ちるであろうからな。その子らには父がびていたと告げてほしいが、朕には詫びる資格もなかろうな…」
 我が子の骸を抱え、泣くことも発狂することもできないまま茫然ぼうぜんとする彼女たちに告げると、皇帝はふらつきそうになる足に力を込めて、自らが作り出した惨劇の部屋から出ていった。
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