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庸滅亡 作者:文叔

第七章 摂津(せっしん)の戦い

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第七章 摂津(せっしん)の戦い 5

 北河に浮かぶ軍船の数は、大小あわせて百を越えるほどであった。それでもまったく埋まる様子のない北河は、確かに大河である。
「噂に聞く海とはこういうものか」
「馬鹿を言うな。海はこれよりずっと広い」
「ずっと? どのくらいだ?」
「わからん。だがずっとだ」
 騎馬民族の兵の間でそんな会話も交わされていた。彼らにとって、北河や南江すら見たこともないほどの水の連なりである。海の広さなど想像のしようもなく、どこか下半身から力が抜けるような感覚すら覚え、あわてて首を振ってその畏れを振り払う者がいるほどだった。
 人ですらこうなのだから、馬たちはさらなる恐怖にさらされた。が、馬までも精鋭を選んでの渡河である。兵たちの叱咤と慰撫とで彼らは落ち着きを取り戻す。どうにか船に乗り込んだ馬たちは、水に浮かぶ未知の足場と、初めて体験する揺れにもよく耐えた。そしてそれに加えて大量の武器や食糧、水、その他の必要なものも積み込まれ、ついに渡河の準備は整った。
「族長、いつでも」
 副将ゲボルの報告にズタスはうなずくと、間を空けることなく命令を発した。
「出撃!」
 銅鑼どらや鐘が鳴らされ、ズタスの命令が全船へ伝えられる。騎馬民族に指揮される史上初の船団は北河を渡り始めた。それはズタスの統率力と騎馬民族の勇猛さを示す、見る者に整然さと力強さを感じさせる進発だった。


「来たか」
 北河南岸に待機する庸の迎撃軍にも、騎馬民族軍進発の報はもたらされた。
 庸軍、約十万。騎馬民族軍の二倍である。が、彼らに必勝の信念はまったくなかった。
 庸本来の主力軍はすでに騎馬民族軍によって壊滅状態にあり、この軍の内実は、徴兵されたばかりで実戦経験もなく訓練もままならない新兵や、すでに退役した者をあらためて徴用した古参兵、さらにこれまでの騎馬民族との戦いで生き残り、なんとか逃げ帰ってきた敗残兵と、真っ当な将軍であれば戦う前からさじを投げ出しかねないものだったのだ。
 しかも将軍の方も主立おもだった者はすでに戦死しており、この軍を率いる孫佑そんゆうは、高級軍人とはいえ後方での経験しかない軍官僚であった。官僚としては決して無能でもなければ無責任でもない。だがこれで必勝を期せというのは、無理というより無茶であるのは誰の目にも明らかだった。


 しかしそれでも彼らは踏みとどまる。
「ここで北狄ほくてきどもを抑えなければ後がない」
 この防衛線で彼らが負ければ、央華大陸は燎原りょうげんの炎のように騎馬民族に焼き尽くされ、食い尽くされてしまう。その恐怖と認識は、将軍から一兵士まで骨髄に刻み込まれていた。皮肉なことながら彼らの士気と意思の統一は、これまでのどの庸軍より高く強かったのだ。
 また戦略も戦術も今回は単純である。
「上陸しようとする北狄を遠目から攻撃する。そのための矢も投石機もふんだんに用意してある。そうして連中の足を止めればいずれ食糧も水も切れて北岸へ帰るしかない。そして北河以北で略奪する物が無くなれば、連中は長城を越えて故地へ帰るしかなくなるだろう。そうなれば我らの勝ちだ」
 基本の戦略と戦術は、長城を使って騎馬民族を撃退してきたものと変わらない。城壁が河になっただけである。だが有効な戦略と戦術であろうことは疑いなかった。騎馬民族は騎馬民族ゆえに強く、それゆえに弱点も変わらない。彼らの勇猛さと機動力を発揮させず、戦線を膠着こうちゃくさせ、食糧を使いきらせさえすれば、彼らはそれ以上戦うことが出来ないのだ。
 孫佑も庸兵も、この一点にすがって満身の恐怖と戦っていた。
 そして庸は、すでに北河以北の民のことを考えていなかった。考えてもどうしようもなかったのだ。今の庸に彼らを救う力はどこにもない。それどころか自分たちを守るだけで精一杯だった。彼らは自分たちが生き残るために、罪悪感と無力感に目をつぶり、北の同胞を見捨てるしかなかった。
 北河以北の庸人は、騎馬民族の生け贄となり、同国人から切り捨てられたのだった。


 騎馬民族が渡河を始めたとの報告があってから丸一日後、北河南岸に彼らの船団が艦影を見せた。
「来たな」
 孫佑は南岸に布陣したまま冷えそうになる肝を抑えつつ、船団を強い目で見た。もし自分だけのことだったら彼もその恐怖に耐えきれなかっただろう。だがこれは庸帝国存亡の危機である。どれほど恐怖に満たされていようと退しりぞくことはできないし、救国の使命感が彼を奮い立たせてもいた。なけなしの勇気も絞り出せようというものである。
 また総司令官は孫佑であるが、実戦そのものに関しては副将格の将軍たちが担当する。彼らとて敗残の身であったり経験不足の若将ばかりであった。それでもこの戦いの目的と戦い方とは熟知し、そのための準備は可能な限り完璧におこなわれていた。
「旗艦らしき船にコナレ族の族旗ぞくきがはためいております。また各艦の喫水線きっすいせんは荷を満載にしていることを示しております」
 将軍の一人が敵船団の様子を報告してきた。コナレ族の族旗が掲げられているということはそこにズタスがいる証であり、また喫水線の高さは人馬が大量に積み込まれている証拠である。目測の計算でも五万の人と馬が積載されていることは確実だった。
「よし、当初の予定通りにせよ」
 孫佑は各将に命令を出した。


 船団は、南岸に近づいて来ても接岸はしなかった。目の前に庸軍がいるため躊躇ちゅうちょしているようである。
 そのため船団は庸軍の邀撃ようげきけようと上流へ向かう。が、当然庸軍もそちらへ向かって移動する。その追撃をかわそうと今度は下流へ向けて舳先へさきを向けるが、庸軍もそうはさせじと追いすがる。
 庸軍は弱兵ではあったが行軍の機敏さと統一だけは、短時間ながら徹底して叩き込んであった。それがなければ騎馬民族軍のこのような動きに対応できず、上陸を許してしまうかもしれなかったからだ。敵を素直に上陸させてしまえば勝ち目はない。とにかく執拗しつようにに「後の先」を取り続けるしかなく、庸軍は全霊をもってそこに活路を見出していた。


 騎馬民族にとっても上陸地点はどこでもいいわけではない。できるだけ安全に、できるだけすべての兵を降ろせる広い場所がいい。広大な北河南岸ゆえ条件に合った場所はそれなりにあるが、そこはすべて庸軍の予測内にある。央華大陸は彼らの大地であり、北河は彼らの母なる大河だった。地の利は圧倒的に守る側のものなのだ。
 また、船団をいくつかに分けて南岸の様々な位置に上陸してくる可能性もなくはなかったが、それでは自ら兵力を分散することになり再集結が難しくなる。いくさ上手の騎馬民族がそのような愚行を犯すとは考えにくかったし、仮にそのような策を取ってきても、庸軍は対応できるように準備していた。
 船の喫水線きっすいせんから各船にだいたいどのくらいの兵が積まれているのかは、船団発見時から計算されている。それに応じて庸軍も兵を分けて邀撃すればいいのだ。本来であればこれも愚策ではあるが、庸軍は騎馬民族軍の二倍の兵力である。敵の兵数がわかる以上、分散した敵兵のそれに倍する兵を当てればいいのだ。圧倒的な兵力を持つ者のみに許される戦い方であった。

 騎馬民族軍は船団を分けることはなかった。といって有効な策があるわけでもなさそうだった。ひとまとまりのまま上陸場所を求めて北河上を右往左往するのみである。
 騎馬民族に率いられているにしては操船がとどこおりないのは、脅されてか積極的にかはわからないが同国人が担当しているからだろうことは庸軍にもわかっていた。ゆえに船団がふらふらと暗礁あんしょうに乗り上げたり、岸壁に激突するような、庸軍に有利な醜態をさらすとは期待していなかった。北河を庭とする庸の船人たちが練達れんたつであることは、庸の民にとって誇りですらあるのだ。
 庸軍はひたすら騎馬民族軍と根比べをするつもりであった。このまま時間が経てば騎馬民族軍は食糧も水も尽き、北岸へ帰るしかなくなるのである。
 自軍の強さに自信のない庸軍にとってはそれが最善の結果であった。


 そんな状態で丸二日以上が過ぎた。騎馬民族船団も今は北河上にたたずみ、動く気配もない。どうすることもできず、戸惑い、立ち尽くしているようにも見える。
「どうせならこちらから討って出るか?」
 孫佑は幕僚たちとそんな相談をする余裕すら出てきた。もちろん全面的に攻撃を仕掛けるわけではない。足が速く小回りの利く小舟で近づき、嫌がらせの攻撃を仕掛けようというのだ。それだけでも敵軍に物心両面でなにがしかの被害を与えられるだろうが、実行まではしなかった。今は敵船団も何をすることもできず、あせりだけでなく「だれ」もおぼえているに違いない。が、ここで自分たちがちょっかいを出すことによって返って活気づき、全面攻勢を仕掛けてこないとも限らないのだ。騎馬民族の蛮勇はちょっとしたことをきっかけに暴発する。そうなれば庸軍としてはくみしやすい結果になるやもしれぬが、逆に全面潰走ぜんめんかいそうを誘発する恐れもあった。
 今の庸軍は腰の引けた弱兵ばかりである。騎馬民族の喚声かんせいだけで逃げ出しかねない。相手が「だれ」と飢えで引き返してくれるかもしれない可能性を、自らむわけにはいかなかった。
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