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庸滅亡 作者:文叔

第一章 長城突破

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第一章 長城突破 5

 馬上のズタスの半面が赤く染まった。血を噴いたわけでも浴びたわけでもない。コナレ族の誰かが兵舎に火を放ったのだ。突入早々に放火しなかったのは、食糧等の略奪品が置いてある場所を確認する必要があったからだ。火がつけられたということは、それらを確かめられるほど余裕ができた証である。ズタスは暗さに慣れた目を細めて火を見やる。


 それからの二十年はズタスにとって、戦いと、敗北と、勝利との繰り返しだった。敗北の数に比べて勝利の数は圧倒的に多く、それに比例して彼の勢力は巨大化していった。
 だがズタスは騎馬民族同士の戦い以外にも敵を持っていた。いずれ雌雄を決しようと腹蔵している央華民族、央華文明である。彼の他にもそのような気概を持つ者もいたが、その中で央華のことを知ろうと努めていたのはズタスだけだった。
 ズタスは時に北へやってくる央華の民の中から学識がありそうな者を雇い、あるいはさらって、央華についての知識を求めた。央華と騎馬民族は宿命的な敵同士であっても、まったく交流がないということはない。中には長城の外に出てまで商売や旅をしようという央華人もいる。また商人や旅人だけでなく、正式な庸の使者が彼らの元へやってくることもあった。敵であればこそ、外交を結び、関係を良好にしておく必要を、少なくとも庸の方は知っていたのだ。
 その使者もズタスは捕らえ、自らの「教師」としてしまう。むしろズタスにとって庸の官人である彼らの方が教師としては歓迎すべき存在だった。当時の知識人のほとんどは官途に就く道を選ぶのだから。
「汝ら庸人、央華人、央華文明のことを教えてほしい」
 ズタスは捕虜である彼らに対して、威は持ちつつも礼を守って頼む。庸の、特に官人である使者は、まずそのことに驚く。彼らの認識では北の蛮人である彼らは、礼などとは最も遠い場所にいる存在なのだ。
 それでも彼らのほとんどは、まずは断る。当然である。なぜ敵に味方のことを教えなくてはならないのか。そのような「情報」が祖国に仇なす基になると彼らは知っていた。もちろん拒絶は命懸けである。ズタスの逆鱗に触れ、その場で殺されてしまうかもしれない。中にはそのことを恐れ、すぐに平伏してズタスの頼みを受け入れる者もいた。だがズタスは、そのような者をさほど重用しなかった。学問は気概であると、学のない身でありながらズタスは本能的に知っていたのだ。
 それゆえ彼は、断固として拒絶する者をこそ口説き落とそうと決めていた。


 そして幾人か現れた使者の中で最も硬骨の男である韓嘉かん・かを自らの真の師にしようと決めた。韓嘉は三十代の官人で、庸の宮廷でも将来を嘱望しょくぼうされている俊英だった。だが同時に自らに厳しく、同僚たちが尻込みする中、北方への使者などという危険な任務を進んで引き受ける硬骨さもある。
 この頃のズタスは三十歳前後。韓嘉とほぼ同年代であったが初めて会ったときから彼に一目惚れした。
「惰弱な庸にもこのような男がいるのか」
 ズタスにとって央華人・庸人に見るべき者はいなかった。もちろん会った庸人の絶対数が少ないのだから、それをもって庸人すべてを測る愚を犯すつもりはない。それでも実際に韓嘉を目にするまで自分が認める男が庸にいると実感することは難しかった。

 ズタスが庸人を心からさげすまなかった理由の一つは「長城」を造ったのが庸人、央華人でだったからでもある。彼は長城を通して庸人の強さを見ていた。あのような「強敵」を造れる民族のすべてが惰弱なはずはない。いかに聡明であっても、この時期のズタスはまだ力を信奉する騎馬民族の域から脱してはいない。他の騎馬民族同様、力が計器である点に変わりはなかった。
「まるで長城のような男ではないか」
 ズタスは彼が捕らえられている(実質的には与えられている)天幕テントを何度も訪れ、何度も自分に学問を与えてくれるよう懇願した。懇願と言っても決して卑屈にならず、しかし礼を守って頼み続けた。
 礼とは央華の思想であり、知識として知るのはまだしも体現して生きていける人間はほとんどいない。それほどに深淵で、真に到達するのが難しいことわりなのである。だがそれは理である以上、人である限り、あるいはこの宇宙に存在する個体である限り、誰の中にでもあるものであった。ただたどり着くためには、無限といえるほどの深さを潜り、遼遠というのも遠すぎる道を歩む必要があるのだ。たとえば、月へ歩いてゆくほどに。
 その礼をズタスは体現していた。すべてではないにしろ、礼の一端をごく自然に体現していた。しかも無自覚に。ズタスの要請を頑として断り続ける韓嘉だったが、そのことには心から驚嘆していた。央華人でも表面をかじっただけで礼のすべてを知ったような顔をして恥じることもない者がほとんどであるというのに、北の蛮族にこのような男がいたとは。韓嘉にとってそれは、驚きと同時に恥辱であった。
北狄ほくてきごときに央華の神髄である礼を体現されるとは、なんという…」
 だが韓嘉はすぐにハッと気づいた。そのような考えを持つ自分こそが卑しいのだと。
 おのれを恥じた韓嘉はあらためてズタスを見る。今度は素直に見た。そのようにズタスを見れば、果てのない奥行きと器量とが彼にあることがわかる。その器量は韓嘉すら吸い込みかねない大きさで、戸惑いと、そして納得とを彼に与えた。

 
 このようにズタスを知った以上、韓嘉に彼を拒むことはできなかった。
「いずれ帰国を許していただけるなら。その時に陛下に罰をたまわりたいと存じます」
 韓嘉にとっての「陛下」とは、当然庸の皇帝である。ズタスに教養を与えることは、あるいは彼に数十万の兵を与える以上の脅威を祖国に及ぼすことになるかもしれない。そのことを自覚し恐怖しつつも、韓嘉はズタスの師となることを受け入れた。
 ズタスはそれを心から喜ぶ。
「帰国の願いは聞く。だがいつかその願いは霧散させてみせよう。汝にとってわしのいる場所を『我が国』と感じさせてやろうほどにな」
 自分を弟子にするにあたって韓嘉の望みを一応は聞き入れながら、心中にそう宣言するズタスであった。
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