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庸滅亡 作者:文叔

第五章 荊上峠の戦い

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第五章 荊上峠の戦い 11

 狭い場所で大軍同士が正面から押し合っている。後から考えれば単純でおもしろみに欠ける戦いであろう。彼ら騎馬民族は馬を駆り、風を戦友として戦うのが本懐ほんかいなのだ。このようにせせこましい場所で力のみを頼りにぶつかるような戦いには爽快そうかいさを欠片かけらも覚えない。
 が、たとえそうであっても戦っている今現在は、文字通り命がけであった。
 そしてその均衡きんこうも限界だった。互いの戦力にさほどの差はない。しかし核となる部分に決定的な違いが出来てしまっているのだから無理もなかった。
「…もう駄目だ」
 誰かが口にしたわけではない。しかしどこかからその声が聞こえたような気がした。あるいは全員が思っていて口に出さなかった言葉を、全員が無意識に聞いたのかもしれない。
 ギョラン族。彼らの族長であるスッヅは死んだ。彼らはスッヅが死んだところを見たわけではない。致命傷を負うところを目撃したのだ。その後の彼の傲然ごうぜんとした姿に神格めいた畏怖いふをおぼえたのも確かだが、その想いが薄れてくると、現実が彼らを浸食しはじめた。
 あれで助かるはずがないと。あるいはスッヅが今生きて精気あふれる姿を見せてくれればより強い神格と士気とをおぼえ、一気にコナレ族を押し返し、潰乱させることもできたかもしれない。
 しかしスッヅは現れず「やはり」という絶望感が濃くなる。その絶望は、対峙たいじするコナレ族の圧力と、彼らの族長であるズタスの揺るぎない雄姿を見れば、薄れるどころか増大するのみであった。
 どこかが、崩れた。彼らの心の一角のように、ギョラン族の一角が崩れた。その場所を正確に見極めることはほとんどの兵にはできなかったが、つつみに開いた一穴いっけつはうがたれると同時に亀裂きれつに変じ、次の瞬間、一気にギョラン族を決壊させた。
「もう駄目だ!」
 今度こそ誰かが本当に叫んだ。それが駱駝らくだの背を折る最後の一石としてギョラン族を潰した。崩壊が全軍へ波及する速度は驚異的ですらあった。
「駄目だ! もう駄目だ! 逃げろ!」
「降伏する! コナレ族へ帰順する!」
「走れ! 走れ! 早く逃げろ!」
「邪魔だ! 死にたいなら勝手に死ね! おれは逃げるぞ」
「おれたちは降る! 受け入れてくれ!」
 兵たちの士気は強風に煽られた砂のように霧散むさんしてゆく。瓦解するギョラン族各部隊、各兵の行動は様々だった。
 逃げる者がいれば降伏する者もいる。いや、明らかに降伏する者の方が多かった。「強大な指導者がいなければ崩れ、いればまとまる」という遊牧騎馬民族の特徴が最も端的に現れる状況である。スッヅという巨大な指導者を失った彼らは、ズタスという別の巨大な指導者へ帰順し、あらたな富貴を得ようというのだ。央華の思想からいえばありえないほどの変節ぶりで他者の侮蔑ぶべつを買わざるを得ない行為だが、騎馬民族はこのあたり、素朴であり正直であり、なにより現実主義であった。
 彼らは自然環境を筆頭に、あまりに過酷な世界で生きている。まずおのれが強くなければ生き残れない。だが屈するときは屈せねば、やはり生きてはゆけない。強大な敵手は大自然の脅威と同じである。彼らにとってすべての優劣と高低、そして行動原理は、純粋に「強さ」のみが基準なのだ。
 死したスッヅにはもうなんの力もない。残った彼らに他に強大な指導者がいなければ分裂するのみである。が、今目の前にスッヅ以上の巨人がいる。彼に従わねば殺される。それゆえ降る。
 騎馬民族にとってこれは恥ではなかった。もしズタスに力がなくなれば彼らは彼も見捨てる。それだけの話であった。
 そのことはコナレ族の兵たちもよく理解していた。当然であろう。彼らの大部分も似たような経緯でズタスに臣従するようになったのだ。くだってくるギョラン兵たちの心情は、文字通り我がことのように理解できたのである。


 そしてこれこそがズタスの望む最高の結果だった。彼はギョラン族を全滅させる気など毛頭なかった。そんな無駄なことはできない。彼は兵が欲しかった。いくらでも欲しかったのだ。
 そのためには「強さ」を示す必要があった。それは相対的に敵を「弱く」することでもかなえられる。むしろその方が効率もよく、味方に損害が少ない。
 そして集団としての騎馬民族を「弱く」するのに最良の方法は、彼らの指導者を消してしまうことだった。たとえ指導者を殺したとて彼に強力な後継者が存在するのであれば集団の結びつきが壊れることはないが、スッヅにそのような跡継あとつぎはいない。ゆえにこれはギョラン族とスッヅに対して最も有効な手段だったのだが、そこまで自分たちにとって都合のいい事態が起こるはずもないだろうとズタスですら考えていた。
 だがその「最も都合のいい事態」を若き族長であるサガルが実現してのけたのである。彼の勝利は、万の敵を独りで破る以上の武勲であったのだ。


 急速に戦場の鋭気が薄まってゆく。続々と帰順者が相次ぎ、降伏がつらなって「敵」がいなくなってゆくのだから当然である。
 騒然とした空気と混乱とはまだ収束しきっていないが、いずれすべてが収まるだろう。
 そんな軍中を馬で歩むサガルの姿に、敵味方、いや「味方と新たな味方」は、ともに畏敬の目を向けた。
 この戦いを作り、終わらせたのは彼である。これほどまでにわかりやすく、騎馬民族の心をつかむ戦いと勝利を得る者もまれであった。
 今のサガルの姿は壮絶だった。全身は返り血に染まり、赤黒く汚れていない場所などないほどである。
 そしてなによりその顔。口の左端から耳にかけてが大きく切り裂かれ、しかもそれを無理矢理に縫い合わせている。頬からの流血は、これほどの重傷でありながらなぜか止まっていた。異常な興奮状態や強烈な意思の力で自ら血止めをしてしまう例が人間にはあり、今のサガルにもそれが作用しているのだろう。
「…口裂くちさけ!」
 どこからともなくサガルへ向けて声が挙がった。
 確かにサガルの左頬は、大きく裂けた口のように見える。それが耳へ向けて斜め上に走っているため、片頬で笑っているようにも見えるのだ。
 といってそれは冷笑や嘲笑の類ではない。不敵な笑い。それも通常ではありえないほどの「大きな」片笑いであるため、勇猛ゆうもうさと不気味さを見る者に与える、人外の笑いであった。
 ゆえにサガルの姿は味方にも新しい味方にも、どこか信心めいた畏怖を与えていた。
 それは死の直前、片腕を斬り落とされ、体を斬り上げられながら死を傲然ごうぜんと見下ろすスッヅの姿を覚えている者にはより顕著けんちょであった。
 あの神々しさすら覚える凄惨せいさんな姿の老人と互角に渡り合い、勝った男なのだ。いかに現実主義者ばかりの騎馬民族とはいえ、信心深さから自由になれるほど時代は下っていない。サガルもまた見る者に、神格化された畏怖を与えるのは自然なことであった。
「…口裂け!」
「口裂け!」
 最初に挙がった声に触発され、そこかしこから同様の声が挙がる。それはサガルの姿が見えない兵たちにも波及し、巨大な歓呼となった。
「口裂け! 口裂け!」
 奇妙な呼び名である。だがそこには無限の畏怖と敬意があった。自分をたたえる大歓呼にやや驚いた様子のサガルだったが、すぐに順応じゅんのうした。彼は兵に向かって片手を上げたのだ。それを見た兵は、騎馬民族の心にある最も根源的な激情を、爆発するほどに揺すぶられた。
 連呼の声が吠え上がる。
「口裂け! 口裂け! 口裂け! 口裂け!」
 そしてその激情が飽和ほうわした次の瞬間、凄まじいまでのどきが全軍をおおった。
「オオオオオオオォォッッーーーー!!!!」
 峠にあふれる怒濤どとうのような勝ち鬨の中、「口裂けサガル」は英雄になった。
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