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庸滅亡 作者:文叔

第五章 荊上峠の戦い

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第五章 荊上峠の戦い 10

「…爺のかたきを討つぞ! 爺を斬った奴を連れて来い!」
 馬上、剛毅ごうきな死体と化した祖父を凝視していたオドーは、全身を小刻みに震わせながら叫んだ。その声はかすかに湿しめり震え、瞳には実際に涙が浮かんでいた。そこで泣き出さず、祖父の復仇ふっきゅうを果たそうという気概は、確かにスッヅの孫にふさわしかった。
 が、静謐せいひつでありながら、聞く者には聞こえる情動をにじませた声が、幼すぎるギョラン族新族長を諫止かんしした。
「それはなりませぬ。このような状況でスッヅどのを斬った男を探し出すなど不可能。それどころかこのいくさ、すでに負けでございます。すみやかにお退きになりますよう」
 呂石のこの進言に、少年はカッとなって怒鳴りつけた。
「黙れ! 汝などに指図されるいわれはないわ! この臆病者の卑怯者が! 死すのが怖ければとっととね! わしに汝など必要ない! どこへなりとも行って勝手に野垂れ死ね!」
 オドーはここまででたまっていた負の激情を、すべて呂石へ叩きつけた。
 央華の大地へやってきて以来、自族がズタスのコナレ族に押され気味であること、祖父が無能で卑劣な庸の将軍を厚遇すること、その男を自分の師としたこと、そしてなによりむざむざ祖父を死なせてしまったこと。自分が幼くさえなければ。せめてあと五年あれば、ズタスなどに好きにさせはしないものを。祖父の代わりに祖父を斬った男と戦って勝利したものを。
 無自覚ながらオドーは無力な自分に最も腹を立てていたのだ。そして自覚がないゆえに、その怒りを蔑視に変えて、呂石をこれ以上ないほどおとしめ、罵倒したのである。
 が、呂石はその雑言を聞いても顔色一つ変えず、静かに剣を抜いた。呂石のその行為に、オドーも近臣たちもギョッとしつつ剣の束に手をかける。が、それより早く、呂石は剣の平でオドーの頬を殴りつけた。その殴打は強烈で、少年の奥歯を折り、馬上から大地へたたき落とす。
 だが少年も、近臣も、あまりのことに一瞬自失し、目を見開いて呂石を凝視するだけであった。オドーに至っては、打ちつけた体や頬、歯の痛みに気づかないほど驚いている。
 そんな彼らに構わず、呂石はえた目で馬上からオドーを見下ろしつつ、剣先を少年の眼前へ突きつけた。
「よいか小僧よ。このいくさはすでに負けだ。なぜだか教えてやろうか。それは汝が未熟だからだ」
 冷たさと底知れぬ重さをにじませながら、呂石は剣先を突きつけたまま少年へ冷然と告げる。今までにない呂石の重厚な迫力に、オドーは気を飲まれて声も出ない。
「汝の祖父は死んだ。実際に亡くなったのはたった今だが、致命傷を負ったことは幾人もの人間が目撃し、すでに全軍に知れ渡っている。それを隠し通すことなどできはせぬ」
 呂石の言うことは理にかなっており、オドーも他の者たちも何も言えぬ。が、それにかまう風もなく、呂石は冷然と続けた。
「それでももし、スッヅどのの跡継ぎにギョラン族の勇者すべてを押さえつけられる力量があればコナレ族への反撃も可能かもしれん。だがその男にそんな力はない。もう持ちこたえることはできぬ。わかるか。汝だ。汝に力がないゆえに、これよりギョラン族は解体する」
 遊牧騎馬民族の団結に必要な唯一無二の条件は、強大な指導者である。それさえあれば、どれほどの大族であれ一つにまとまることができる。だが逆に核がなくなれば、あっという間に分裂し、解体してしまう。単純でありもろくもあるが、それが現実だった。
 ゆえに呂石が冷然と告げる内容は正しい。だがいくら正しいとはいえ、わずか十歳の少年にすべての責任を叩きつけるとは、無慈悲と思えるほどの酷薄さであった。
 が、指摘された少年はハッと気づき、そして烈火のような瞳で呂石をにらむ。しかし口に出してはなにも言わぬ。言えぬこと、言う資格が自分にないことがわかっているのだ。自分が祖父に遠く及ばないことは、いかに未熟な少年であっても自覚している。

 それでも誇りを傷つけられ、踏みにじられた怒りは拭いがたい。
 そんなオドーを見て、呂石は内心でうなずくと、続けた。
「ギョラン族の央華侵略はこれで仕舞いだ。この戦いに負け、分裂し、長城を越えて北の故郷へ帰り、そこで終わる。だが汝にはそこで立ち止まる自由はない」
 呂石の眼光は鋭さと強さを増し、オドーを押さえつけ続ける。
「汝は成長し、力をつけ、新たにギョラン族を大族としてまとめあげ、央華へ再侵略を果たさねばならぬ。それが汝の祖父の悲願であり、遺志である。わしは汝がそれがせる男に育て上げることを汝の祖父に命ぜられた。汝には是が非でもズタスを越えてもらう。そして央華を支配してもらう。もしそれができぬ男であれば、わしは汝を斬る。そしてわしも死ぬ。祖父の遺志を果たせぬ孫は不孝、主の命を果たせぬ臣下は不忠。どちらも生きるに値せぬ」
 呂石の眼光はオドーに突きつけた剣先以上に鋭く、凄絶だった。それは呂石を侮蔑していたオドーにすら伝わり、彼を戦慄させる。央華の敗将は、オドーが考える以上に凄まじい男であったのだ。

 だがこの呂石はスッヅが生んだとも言える。彼に請願せいがん――命令されるまで呂石は精神的に半死人であった。皇帝からあずかった軍を敗滅させ、故国を裏切り、敵軍の中に身を置くことは、たとえ覚悟の上であっても心身におりがたまる。が、スッヅの命がけの頼みは、呂石にすべてを捨てさせ、すべてを覚悟させた。
 彼にはもう戻る道はない。ゆく道はあれど、それはすでに正道ではない。無能者として前半生を否定され、裏切り者として後半生を生きていくしかない彼に、大陸の歴史に名を残すほどの男であるスッヅが最も大切な孫を預けてくれた。意気に感じぬわけにはいかなかった。
 ゆえに彼のこれからの人生は、この少年にすべて捧げる。それは困難極まりない道のりだった。目的を達成するには、不断の努力と、人として限界に近い能力、そして万に一つの幸運すらが必要であろう。
 しかもそれだけではない。その目的――野望が達成されるということは、呂石の故国が滅ぼされるということである。それは単純に庸という国が滅ぼされるだけでなく、央華という一つの巨大文明が終焉しゅうえんを迎えることかもしれないのだ。歴史における呂石の罪科は、どのようにつぐなっても償いきれるものではなくなるだろう。
 だが呂石は、もうこの道を歩く以外にない。
 永遠に失われたこれまで。自分を捨てて生きるこれから。
 スッヅと自分と、二人の男の人生と存在と野心とをすべて託された少年に、今はその重さも峻烈しゅんれつさもわかるまい。

 しかしオドーも漠然とはそれを感じている。ゆえに彼は凝然ぎょうぜんと呂石を見つめているのだ。そのオドーに呂石はすべてを込めて尋ねた。今の呂石に昔日の優柔不断さは欠片かけらも残っていなかった。
「どうする、オドーよ。わしと共に祖父の遺志をぐか。それともこの場で無謀にも敵軍に斬り込み不孝と無能をさらして死ぬか。どちらでも好きな方を選べ」
 オドーにはすでに突きつけられた剣は見えていなかった。それほど呂石から発せられる迫力に圧せられているのだ。
 だが、それでもすべてを潰されてはいない。経験も、人格も、能力も、意志も、何もかもが圧倒的な上位者に対し、最後の最後で踏ん張って見せた。
「…汝についてゆけば、わしはじじを越えられるのか」
「それも汝が決めよ。他の者にくな。わしは弟子を選ぶ。汝も師を選べ」
 呂石はオドーの中に希望を見た。それはスッヅが見たのと同じものだった。望みのない弟子を教える師は、師として不完全である。そのことを呂石は知っていた。呂石はオドーを弟子として認めたのだ。そしてオドーにも自分が師としてふさわしいか測らせた。スッヅを継ぐ男であれば、たとえ幼少であってもその程度はやってのけねばならない。
 呂石はオドーにはそれが出来ると確信していた。でなければ、弟子にする価値もない。
 そしてオドーは呂石とスッヅの期待に応えてみせた。
「…認めよう。わしは汝とともにゆく。そして爺のこころざしを継ぎ、ズタスとコナレ族を倒し、央華を我が物とする!」
 力強いオドーの答えに、呂石はわずかに胸の奥をうずかせる。彼はどこまでいっても央華の人間なのだ。
 だがそのうずきを胸奥で踏みにじると、呂石は強くうなずいた。
「では立ち上がれ、おさよ。汝はたった今からギョラン族の族長だ」
 呂石はたったいま弟子になった少年に突きつけていた剣をさやに収めながら続ける。
「だがこれより汝はすべてを無くす。そして何も持たぬ身から再度すべてを得るための戦いを始めるのだ。その戦いに勝ち抜くために、長としての自覚を持て、オドーよ」
 呂石はオドーの師として最初の教えをさずけ、オドーは弟子としてその教えに従った。立ち上がり、小さな体に満身の力をこめて、呂石を鋭くも侮蔑とは逆の視線で射るように見たのだ。その目の光はスッヅのそれとうりふたつであった。
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