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庸滅亡 作者:文叔

第五章 荊上峠の戦い

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第五章 荊上峠の戦い 9

 ギョラン族は混乱していた。正面からコナレ族が襲ってくる以上反撃は必須であるし、当然それは全力でおこなっている。
 が、彼らは見てしまった。彼らの族長であるスッヅが斬られるところを。後方にいて実際に見ていない者たちも、前から伝わってくる「情報」で知ることになる。その情報は彼らの根本をへし折るに充分な衝撃であった。
 が、しかし直後に視覚に流れ込んできた新たな情報は、不可思議な静けさと別種の動揺をともなっていた。
 その「情報」は言葉ではない。一人の人間の形を持っていた。
 スッヅその人である。
 片腕を失い、胴から胸にかけては大きな傷がある。そのどちらからも血は噴出しているのに、スッヅの表情も剛毅さも変わらない。いや、血の流出に従って顔色は青ざめていっているのだが、半月の薄闇の中、そこまでは周囲の騎馬民族たちには見えなかった。
 傲然ごうぜんとしたまま馬を歩ませるその姿は、人であることを越え、どこか神格めいたものを彼の部下たち感じさせる。すぐにも絶命しかねない重傷だと部下たちにもわかるのに、スッヅの剛毅さを見ていると、死すら彼を屈服させることはできないのではないかと思わせ、静謐せいひつさと深い畏敬をともなった動揺が、全軍へ波及していっているのだ。

 部下たちは自然とスッヅをよけ、道を作る。誰の指示にもよらず作られた花道をスッヅは静かに進んでいたが、にわかに止まると、近くにいた兵に命じた。
「オドーと呂どのをここへ連れてこい」
 スッヅの声に弱々しさはない。だがこれまでとどこか違う。その差違の詳細まではわからなかったが、兵はおののくように点頭すると、急いでスッヅの孫と、新参の高貴な投降者を呼びに走った。
 それを待つ間、コナレ族との死闘が生み出す阿鼻叫喚あびきょうかんの中、スッヅは佇立ちょりつしたまま動かない。しかしその間にも傷口からは血があふれ出て、近くにいる者たちをも蒼白にする。
 そしてしばらくして、ようやくオドーと呂石が馬に乗って走ってきた。
じじ!」
 満身創痍まんしんそういの祖父を見てオドーが悲鳴に近い声をあげる。彼はまだ十歳だが馬を操ること自分の足以上であった。これは彼が特別なのではない。騎馬民族とは幼い頃よりその名の通りの存在なのだ。
 オドーの後ろから走ってきた呂石もスッヅの姿に声を失う。
 だがスッヅは自分を見た孫の、身内として当然の驚愕に鋭く叱責を加えた。
「なんとみっともない声をあげるか! 立場をわきまえよオドー」
 全身を激痛に乱打され、体内から血が抜け続けている老人のものとは思えない大声たいせいに、オドーは全身を硬直させる。彼の祖父は孫を心底から案じ大切に思っているが、それだけに接し方も厳しさをともなっていた。
 ギョラン族は騎馬民族の大族である。それは一つの「国家」と同程度の規模と人口を持つのと同義であり、よわい十歳でそれほどの大族を率いる運命を背負わされた少年を甘やかして育てることは、スッヅには許されていなかった。そしてこれからは、どのような形でも彼を育てることはできない。
 祖父に雷喝らいかつされ、文字通り雷に打たれたように全身を固まらせるオドーを見やると、スッヅは視線を呂石りょせきに移す。
「呂どの、頼みがある。いや、わしの汝への唯一の命令だ。受け入れてもらいたい」
 互いに違う理由で蒼ざめた顔を見合わせながら、スッヅは呂石に言う。
 要請でありながら同時に命令であるそれは矛盾しない。呂石はまだ正式にスッヅの臣下や部下ではなく、だが捕虜となった兵たちを無事帰還させることを条件に、彼に忠誠を誓うと宣言した身なのだ。
 呂石も当然そのことを忘れておらず、厳粛げんしゅくに頭を下げた。
「あなたへすべてを捧げた身です。どのようなご命令でも必ずお引き受けいたします」
 その呂石の謹直きんちょくな答えにうなずいたスッヅは、敗軍の将へ対する唯一で最後の命令を告げた。
「オドーを頼む。汝の力によってズタスを越える男に仕立ててやってくれ。そしていつか、孫をもって北の高原と央華の大地を征服させてやってくれ」
 その言葉に激しく反応したのはオドーであった。目を見開いて呂石を見、そのまま祖父を見やり、抗議のため口を開こうとする。彼にとって呂石は敗残の身であり、唾棄だきすべき無能者であり、軽蔑すべき軟弱な央華の民なのだ。それはオドーに限らず、一般的な騎馬民族の感情そのものであった。
 が、その孫を強い眼光で押さえつけると、スッヅは再度呂石へ向き直った。
「…汝へは過酷すぎるめいだとわかっておる。しかしわしには汝しかおらぬのだ」
 スッヅの声はこのようなことを頼まねばならぬ自身への無念と、呂石の心情を思いやってのこと、苦渋に満ちていた。それはそうであろう。老族長の頼みは呂石の故国を亡ぼす男を育てよということなのだ。聞いた瞬間、頭を垂れたままの呂石の体が小さく痙攣けいれんするように震えたのをスッヅは見逃していなかった。
 だが自分でも言うように、スッヅには呂石しか頼れる男がいない。オドーをただの騎馬民族の族長として育てるだけならば、族内にいくらでも適任者がいる。しかし今ギョラン族が戦っているのは、騎馬民族の枠を大きく越えた巨大な男なのだ。彼に対抗するには彼以上の巨人になるしかない。オドーをそのような男に育てられるのは央華の民しかおらず、今スッヅの手元にある央華人は呂石しかいないのだ。
 もちろん他にも幾人、幾百人と技術者として捕らえてきた央華人はいる。しかし教養があり、実践経験があり、成功と失敗と挫折とを身内に刻み込んだ人格を持つ「師」としての存在は呂石彼だけであった。スッヅは呂石を捕虜にしたときからそのことを考えていたのだ。
 ズタスと自分とは根本が違う。器量が違った。それを認めることはスッヅにとって死よりも耐えがたい屈辱であったが、認めねば前には進めない。そしてこの屈辱を未来でそそぐためオドーに央華人の師をつけることは、すでにひそかに決めていたのである。スッヅはズタスにも央華人の師がいることを知らなかった。それでもズタスと同じ結論に達したところに彼の進歩は表れていたのだが、しかしやはり、何もかもが遅すぎた。
 スッヅも本心を言えば、もっと時間をかけ、呂石と同等かそれ以上の男を探すつもりでもあったし、オドーや他の部下たちもじっくりと説得して自分の考えに感化させてゆくつもりであった。だがその時間がスッヅにはもうない。すべてが時期早尚じきそうしょうとわかっていながらも、強行するしかなかった。


 答えはしばらくなかったが、長い時間ではなかったかもしれない。
 周囲は叫喚きょうかん怒号どごう剣戟けんげきの交わされる音、馬蹄ばていの入り乱れる音と、戦場の混沌こんとんにあふれていたが、彼らの周囲だけが無音であるようだった。
 それら激音と無音の中、ついに呂石は答えた。
「…つつしんで、お受けいたします」
 この言葉をつむぐまでの時間、呂石がどれほど懊悩おうのうしたか。口にするためにどれほどの激情を抑え込んだか。スッヅにはわかった。この場にいた中ではスッヅにしかわからなかった。
 それゆえスッヅは安堵のため表情をゆるめ、申し訳なさのため表情を暗くした。
「そうか。頼む」
 言葉も少なかった。おのれの野心のために、過去も、未来も、存在すらも捨てさせた男に対してかける言葉を、スッヅは持ち合わせていなかった。
「……」
 無言が続いた。スッヅだけでなく他の者たちも押し黙ったままだった。
 その無言に全員が不自然さを感じはじめたとき、ハッとして顔を上げた呂石は、馬上にまたがったスッヅを見た。
 老人は、事切れていた。
じじ!」
「族長!」
 呂石に半瞬遅れてそのことを知ったオドーや部下たちが、声まで蒼白にして彼らの族長を呼ぶが、馬上に傲然ごうぜんとまたがったままのスッヅはなにも言わない。
 だが彼らは見た。死してなお敗北に屈しない、誇り高き老族長の姿を。
 ギョラン族の歴史と誇りを体現した族長スッヅは、志半ばにして、死んだ。
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