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庸滅亡 作者:文叔

第五章 荊上峠の戦い

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第五章 荊上峠の戦い 1

 庸軍を完全撃破した騎馬民族は、互いに勝利を祝うこともなく、それぞれの支配地へ帰っていった。彼らが共に戦ったのは「敵の敵は味方」の論理に従ったに過ぎない。またこの戦いで自分たちの軍がどれだけの被害をこうむったのか、他の部族に見せるわけにもいかなかった。最大の敵を退しりぞけた以上、次は真の敵との戦いに勝たなければならない。自分たちに不利になることをおこなう余裕はなかった。

 この戦いにおいて最大の損害を出したのはスンク族である。もちろんこれは三部族の中においてであり、庸軍の被害に比べれば多寡たかはしれている。それでも庸軍が直接攻め込んできたのは彼らの占領地であったし、それだけに彼らが主力として戦う余地は大きかった。なにより、領土を荒らされたことが最も大きな被害である。
 庸軍ももともと自分たちの領土であるし、奪還と解放を企図しての侵攻であるのだから略奪などはおこなわなかったが、それでも戦いがあっただけで近隣のむらには大きな迷惑である。また敗走時の兵には領地や領民を気遣う余裕もなかった。逃走経路にあったむら々は敗残兵に襲われ、その分生産力も治安も悪くなり、それらの回復のためにスンク族は力をかねばならない。支配者とはそういうものであるし、その部分をおろそかにするようであれば支配効率は悪くなり、瓦解がかいのきっかけにすらなりかねない。
「とはいえ、どこまでそんな方向へ手を伸ばせるか…」
 騎馬民族は移動民族であり、定住民族のような支配のための技術情報ノウハウは持ち合わせていない。捕虜にしたり支配下に置いた庸人をそのための役人として用いるにも限界はある。バジュは無能ではないのでそれらのことをおろそかにするつもりはなかったが、困難の巨大さに憮然とせざるを得なかった。
「さて、どうしたものか」
 バジュはため息混じりに参謀役の甥に相談する。彼を重用しているのはバジュの賢明さの現れではあるが、タクグスとておのれの力に限界があることは自覚していた。また、コナレ族とギョラン族と雌雄を決して戦うための準備も怠るわけにはいかない。これからが本当に苦しい死闘だということを、バジュもタクグスも知っていた。
「とにかく様々に無理を重ねなければなりません。我が族の存亡がかっている事態です。ですがこれをしのげば、我らの手にする富貴ふうきは想像を絶するものになりましょう」
「そうだな。苦しいのは我らだけではないはずだ。誰よりも先に音をあげるわけにはいかぬ」
 バジュも甥の進言に従い、表情をあらためた。


 ギョラン族の方は少し事情が違った。直轄地ちょっかつちに被害がなかったということだけではない。族長の意識の変化がそれである。彼もまたコナレ族とスンク族を滅ぼし、庸を亡ぼし、広大な央華大陸をおのれだけの手に入れようという巨大な野心があった。だが一つ大きな駒を手に入れたことで、その心理に微妙なゆらぎが生じたのだ。
呂石りょせきよ、不自由はさせぬ。必要なものがあれば遠慮せず言え」
 スッヅは戦場で捕らえた高貴な捕虜、呂石と対面し、そう告げた。呂石の方は押し黙ったままである。彼の欲しいものはただ一つ、これ以上名誉を損なわないための死のみだが、スッヅからそれを得られるはずもなかったし、彼自身同胞のため、自分だけが安らかな終わりを迎えるつもりはなかった。
「…生き恥をさらせというのならそうしてやろう。ただし他の兵たちの安全は保証し、この地にとどめておく必要なしとなれば、北河を渡らせ、帰国させてやってくれ。さすればわしは汝の思うがままに使われてやろう」
 捕虜になったのは呂石だけではない。逃げそこね、殺されそこなった兵たちも無数に捕らわれの身となっているのだ。呂石は彼らに対して責任がある。できるだけ多く、可能ならば全員を帰国させなければならない。それも無傷で。兵たちは言うなれば、呂石にとって人質も同然であった。
 ここで呂石は気づく。いま自分が捕らわれている地も、本来は庸の領土である。だがすでに異国であるかのように「帰国」などという言葉を使ってしまった。これこそが自分たちが敗北したなによりの証だと、呂石は胸中で耐えがたい苦みとともに思った。
 その呂石の苦渋を知ってか知らずか、スッヅは鷹揚おうようにうなずく。
「わかっておる。汝がわしの要望通りに働くのであれば、兵たちは無事に北河を渡らせてやろう。約束する」
「まずはその証拠を見せてもらいたい。捕虜となった兵たちが北河を渡るところをこの目で見ぬ限り、汝には何一つ協力せぬ」
 だがスッヅの言うことに、呂石は正面から異を唱えた。彼としては絶対に譲れない条件である。もしこの要求をスッヅが拒み、無理に協力させようというのであれば、その場で命を絶つつもりであった。無能にも自分が死なせてきた兵にはもうびることもできないが、生き残った兵たちはせめて生き延びてもらわなければならない。それすら果たせぬのであれば、自分に生きている価値は本当になくなる。命など惜しくはなく、逆に言えばそれさえ為せれば、その後の自分の人生は捨てても構わない。その覚悟が呂石にはあった。
 そしてそれはスッヅにも伝わる。呂石の方こそ口約束で、兵たちが帰還した後自死をはかるかもしれぬと疑わぬでもなかった。だが、彼の人となりと名誉とに懸けて、自分との約定を破る恐れはないとスッヅは判断した。
「…よし、わかった。ならば兵たちを帰還させること、汝の目の前でおこなうとしよう。その後は汝はわしのものだ。よいな?」
 呂石に劣らぬ威を込めてスッヅはうなずき、それを見た敗軍の将は、黙然とうなずき返した。


 スッヅは約束を守った。庸軍の捕虜を全員船に乗せ、北河を渡らせたのだ。
 全員である。ギョラン族もコナレ族同様、央華の人材を欲している。捕虜の中には幾人もその任に耐える力を持つ男もいた。だが呂石一人を手に入れるため、それらをすべてなげうったのだ。スッヅの器量と思い切りのよさも相当なものであった。
 呂石も別の船に乗せ、監視付きではあったが捕虜と同道させる。彼らが南岸へたどり着き、無事地平線に消えてゆくのを確認させる念の入れようで、これには呂石も完全に納得した。
 が、スッヅが約束を完遂かんすいした以上、呂石もそれに応じる義務がある。義務というより矜持きょうじの問題であった。北狄ほくてきさげすむ彼らが約定を守ったというのに、文明人を自認する自分が破ったとあっては、たとえ生き延びたとしても、先祖も主君も、誰より自分で自分を許せない余生を生きることになるだろう。
 呂石は、裏切り者として生きることに定まった己の後半生に思いをせ、そして考えるのをやめた。

「スッヅどの、感謝いたす。これで私はあなたのものだ。お好きに使うがよろしい」
 呂石はスッヅに深々と頭を下げ、心からの言葉で自分を差し出した。スッヅの方も呂石の言葉に真実がこもっていることを察し、自分の判断の正しさをあらためて知った。
「そうさせてもらおう。だがさしあたっては客人として遇させてもらう。部屋を用意させよう」
 今はまだ、一つの大きな会戦が終わった直後である。こちらもだし、大敗した庸の方はさらに混乱しているだろう。その庸の宮廷へなにがしかの交渉を持ちかけるのも一つの策だし、そのための材料として呂石を使うにしても、今日明日というわけでもない。とりあえずは接収した邸にでも軟禁しておくしかなかった。呂石の様子を見れば見張りすら必要なさそうであるが、それでは部下たちにいらぬ不安や懸念を覚えさせるやもしれぬ。形だけとは言え、監視下にあることを示しておく必要があった。
「さて、どうするか…」
 年の功を最大限発揮し、ズタスやバジュを出し抜かなければならない。スッヅの弱点は参謀がいないことであったし、彼本来の気質も策謀より突貫を旨とするものであったが、ここは誤るわけにはいかなかった。彼と、誰よりも彼の孫と部族のために。
 スッヅは黙考を始めた。
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