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庸滅亡 作者:文叔

第四章 昏晦平原の戦い

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第四章 昏晦平原の戦い 9

 庸軍六十万は全滅まではしなかった。だが後背から押しこまれるように削られ、揉み潰されていった。離散し、個々にちぎれた部隊や個人はなんとか目こぼしてもらえたが、主力はほとんどすべてが潰され切ってしまった。
 総司令官の呂石は生き残った。だが逃げきれなかった。ギョラン族に捕獲ほかくされ、捕虜となってしまっていた。ギョラン族が呂石を生け捕ることができたのは幸運が理由だった。彼らの追撃が集中した位置に比較的近い場所に呂石がいたことと、彼が落馬して足をいため、馬を操ることも歩くこともままならず、部下の馬に相乗りしていたため速度が出せなかったことなどが要因であった。
「素直についてきてくれてうれしく思うぞ、呂石。自死などされてはかなわぬからな」
 戦いが終わったあと自分の前に引き立てられてきた呂石へスッヅは鷹揚おうように、だが本心からそう告げ、敗戦に傷ついた呂石も毅然と応じた。
「それも考えたが、汝らにも我が朝廷に対する交渉材料が必要であろう。わしにその価値(人質)がないと朝廷が判断しても、汝らの不満のはけ口として殺される者はるはずだ。こうまで無能をさらしたわしにはすでにその程度しか存在価値はあるまい。他の者には類を及ぼすな。わしだけで満足せよ。それだけがわしの要求である」
 呂石は長年騎馬民族と戦ってきた男である。央華民族の言う「北の蛮族」の中にはその名にふさわしい野卑な者がいることを知っている。しかしスッヅはそれらの者たちと一線を画す男だということも知っていた。ゆえに自分を「生けにえ」に差し出すことが有効と考えたのである。
 呂石自身これほどの大敗をきっした以上、生にしがみつくつもりはない。自分の死を多少でも同胞の役に立てたい。そう思っての降伏であった。
 そして呂石がスッヅを知っているように、スッヅもこの敗軍の将をよく知っていた。
「なるほど、汝はそういう男であったな。では汝の望みどおりにさせてもらおう」
 そううなずくと、スッヅは配下の者に命じて呂石を後方へ送り、ごくにつないでおくよう指示した。
「決して拷問にかけたりするなよ。あくまで丁重にあつかえ」
 そう釘を刺すことも忘れなかった。


 総司令官を失った庸軍は、敗残兵をまとめることもできなくなった。全員がばらばらに、個人個人で、あるいは部隊ごとに、ただただ南へ向かって走るだけである。中には兵を集めて騎馬民族へ逆撃を加えようとする将もいたが、庸より精強な兵が優秀な将に率いられ、しかも勢いをもって襲ってくるのである。焼け石に水の効果も挙げられず無惨に散ってゆくだけであった。
 生きて北河へたどり着けた者も、この大河を渡って本当に安全な場所まで逃げきるのは至難だった。有能な指揮官が近くにいた兵は、近隣きんりんから船を接収し、安全に北河を渡る幸運にめぐまれたが、中には一艘の小舟に数十人が乗り込もうとして転覆させ、結局は全員がおぼれ死んだり、また少ない舟を奪い合って味方同士で殺し合う場面も続出した。
 そんな惨状を見、渡河をあきらめ、どこかへ行方をくらます者もおり、このとき無事に北河を渡って庸の勢力圏まで辿たどり着けた兵は十万人弱しかいなかった。
 最終的に生き残った数は三十万から三十五万程度だと言われている。推定なのは逃げたまま帰らない兵が多数あり、正確な数がわからないからだ。
 実際に再度庸軍に組み込まれた帰還兵の数は十二万というところであった。
 ここに庸軍の大規模な組織的戦力はほぼ壊滅に近い打撃を受け、北河を越えて騎馬民族と戦う力を失った。


 後世「昏晦こんかい平原の戦い」と呼ばれるこの会戦により、北河以北は完全に騎馬民族の領土となった。庸が奪還作戦を実施するにしても、失った兵力を立て直し、兵を鍛え、訓練を施し、これまでと同水準の軍を整えるのに、少なく見積もっても十年以上はかかるだろう。
 それどころかこれからは、北河を渡って攻め入ってくる可能性の高くなった騎馬民族を撃退することに集中せねばならず、にもかかわらず、それすら困難な状態に追い込まれてしまったのだ。下手をすれば騎馬民族に、北河を越えられるどころかさらなる南下を許し、央華大陸全土を蹂躙され、征服されてしまうかもしれない。それは自分たちの存在も、歴史も、なにもかもが失われるほどの恐怖であった。
 だがその心配はなかった。少なくともすぐに彼らが南下を企図することはなかった。
 なぜなら彼らも忙しかったのだ。央華北部の覇者となるべく、他部族を服属させるための戦いに。
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