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庸滅亡 作者:文叔

第一章 長城突破

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第一章 長城突破 1

 夜。月はない。そんな日を選んだのだ。
 ズタス揮下の兵三千は全員馬にまたがり、百長(約百メートル)ほど離れた長城の門を息を殺して注視している。馬にもばいを噛ませ、声を漏らさないようにさせていた。


 遊牧騎馬民族である彼らは自分の足を扱う以上に馬の脚を巧みに操る。そしてそんな彼らの中でも、今夜この場にいるのは精鋭中の精鋭だった。息どころか気配すら消して、長城からの合図を待っている。
 今夜、この時刻、彼らから見て南の大国であるよう帝国の高官の一人が、あの門を開く手はずになっているのだ。ズタスたちが裏切らせたわけではない。彼の方からひそかに申し出があったのである。
「長城の門を開くゆえ、汝らの力を貸してほしい」と。
 ありえざる申し出であり、にわかに信じがたいほど良い話である。だがズタスはそれを信じた。通常ならありえぬが、今の庸であれば、充分に起こりうる事態であったからだ。


「……長よ、本当に門が開くのでしょうか」
 暗闇の中、副将のケボルがささやくように尋ねてくる。彼とてズタスの説明を聞いて納得はしていたが、それでもは信じられぬ思いは消えない。
「開く。それにもし張堅ちょうけんが我らとの約定を破って門を開くことがなければ、必ず報復はする。その時は汝も遠慮をする必要はないぞ」
 ズタスはそう応じ、ケボルもうなずいた。当然のことであるが彼らの族長は甘い人間ではない。内通を申し出てきた庸の張堅が裏切ろうがどうしようが苛烈な態度は変わらない。そんなズタスに彼らは頼もしさを覚え、それにより闇の中での待機に焦れる心を抑えることができた。


「……来た!」
 それからさらに四半刻(三十分)が過ぎた頃、ついに合図が来た。城壁の上に松明の灯が灯り、それが円を描いたのだ。ズタスの命により兵の一人が松明に灯をつけ、同じように円を描いて返信すると、ズタスは三千の兵を率いて長城まで近づいてゆく。ズタスも兵たちも、安全であると自分に言い聞かせてはいるが、万一、長城から矢の雨や巨岩が降ってきたりすれば、被害が零ということはありえない。その時は逃げ出して出直すしかないが、やはり報復の理由になるだろう。


 だがそのようなことはなく、蹄の音もほとんどさせないズタスたちコナレ騎兵隊は難なく長城に近づくことができた。そしてそこからほんのしばらく待っただけで、長城全体から考えれば無数にある門の一つが開き始めた。
「おお……」
 ケボルをはじめ、兵たちの幾人かが小さく声を漏らす。許可があるまで絶対に口を開くなというズタスの命に背いた形になるが、族長は彼らをとがめなかった。彼も同じ思いだったからである。
「あの長城の門がおのれから開いてゆく…」
 この城壁を越えようとして、この門を開けようとして、いったい何人のコナレの勇者が死んでいったか。彼らにしてみればこの門は、コナレ族の男子全員の屍山血河を築いて初めて開くのではないかという想いもあったのだ。その門が自ら開いてゆく。それも自分たちを招き入れるために。目の前に見ても信じがたいことであった。


「…ズタスどの」
 門が完全に開き、中から数人の男たちが小走りに走り寄ってきた。先頭を走る男がこの件の首謀者・張堅である。見るからに文官という男で、暗闇のため顔はよく見えないが、ズタスは彼に何度か会ったことがあった。その時と同じように、きっと今日も頑なに何かを思いつめた表情をしているのだろう。頭はよく知識はあるが、視野が狭く、おのれの考えだけが正しいと思いこむ型の男である。ズタスとしては友人にも臣下にも欲しい型ではないが、このような男であればこそ、今宵のような暴挙に出ることができるのだ。


「張どの、開門感謝する。守備兵たちは?」
 ズタスは馬上姿のまま、売国そのものである行為を皇帝と社禝しゃしょくと正義のためにおこなっていると信じて疑わない張堅に尋ねる。普段の張堅ならばその無礼に眉をひくつかせることだろうが、今宵はその余裕もなさそうであった。神経質な口調で、すでにその必要もないであろうにひそめた声で答える。
「全員に正体を失わせるほど痛飲させておる。しばらく役に立つまい」
「なるほど。一兵残らずでござるか」
「残らずだ。中には酒に強い者もおったが、そのような者たちには薬を混入した酒を飲ませた」


 一兵残らずと断言する張堅に、ズタスは内心で失笑する。国境を守るという、国家にとって最重要の任を与えられた兵たちが、たとえ朝廷から送られてきた重臣に勧められたとはいえ、今夜の当番も残さず全員が痛飲するとは。自分たちの任務の重さを知っていればできないことであった。「庸に兵なし」とズタスはあらためて知る思いだったが、それを面には出さず、彼は張堅にうなずいた。
「なるほど、重畳ちょうじょうでござる」
「ではズタスどの、後はお頼み申す。我らは約定を果たし申した。汝も我らとの約定、違えぬよう」
「もちろんでござる」
 慣れない暴挙に出たことに抑えがたい興奮を見せる張堅へ短く応じると、ズタスは背後の兵たちを振り向く。


「さあ、長城を抜けさえすれば、ここから先は美果と美宝にあふれる沃野ぞ。まずは守備兵を皆殺しにし、そこからはやりたいようにやれ!」
 ズタスの扇動せんどうするかのような命令に兵たちは歓呼のときを挙げ、張堅は仰天する。
「ズタスどの、守備兵はすでに物の役には立たん。殺す必要はなかろう。それにそのように兵を煽るとは… 略奪は最小限に抑えるとの約定ではござらぬか」
 狼狽ろうばいする張堅たちの横を、兵たちは各隊長に率いられて長城内へ突入してゆく。そして最初に飛び込んだ兵は、すでに正体を失って道端で眠りこける一人目を刺殺する姿が見える。そこから五百名を越える守備兵の惨殺が開始された。


 それを見やっていたズタスは、張堅へ視線を移す。
「酒が抜ければ兵たちは武器を取り、我らの背後を襲うであろう。それでは我らは帝都にまで届かず深手を負い、張どのの望みも達せられぬかもしれぬ。それとも張どのは我らの全滅が真の望みであったか」
「い、いやそのようなことは…」
 自然と威を発するズタスの言には理もあり、張堅としては口ごもるしかない。それを見てズタスは続ける。
「それになにをもって最小限必要かを決めるのは、張どのではなく我らだ。コナレ族ではない張どのにわかるはずがないが、如何?」
 さらに威と理をもって張堅の抗議を封じるズタス。すでに何を言っていいかわからない張堅だが、それは門の中から聞こえてくるコナレ族の叫喚と、守備兵たちの悲鳴、そして火をかけられて燃え始めた物見台や倉庫、宿営舎などの建物に圧されたからでもある。戦場に来たこともない文官の張堅にはこらえがたい光景である。自分には覚悟があり、どのような凄惨な目に遭おうと自分を見失うことなどないとの自負があった張堅だったが、それはあっという間に揺らいできた。


 そんな張堅にズタスは告げる。
「ゆえにこれから先の我らの行動を掣肘せいちゅうする資格は張どのにはない。それでも止めようというのであれば、約定違反ということで汝を斬る」
 己自身の手で何十人も殺し、臣下に命じることで数千人以上を殺してきた男と、観念で彼に対抗できると思いこんでいた男の差であろうか。張堅は青ざめたままズタスを見上げるのみで、すでになにも言えずにいた。


 そんな張堅を一瞥すると、ズタスも門の中へ愛馬を駆る。ここにいるのは奇襲のための先鋒隊であり、この後、主力の兵三万が到着する。その後もさらに兵を増強する準備も進んでいる。目の前で燃える兵舎は、これから央華大陸の半ばを焼き尽くす炎の、最初の火種であった。
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