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泥濘

早久良

作者:いけちぃ
※近親相姦・性的虐待・流血シーン等がありますので苦手な方はご注意下さい。
大好きだった母が死んだ。
お葬式の日に取り残されてしまった父親と約束したことは"幸せ"になる事だった。
"北方 早久良" 来年の春に高校生になる。




「万里!万里っっ」
狂ったように人の名前を連呼する女が母親だと思うとゾッとする。
毎日部屋に忍んできては、肌の上をはいずり回っていく。
抵抗なんて物は、とうの昔にするのも馬鹿らしくて止めた。
殴り飛ばしてやったら、大泣きして縋り付かれて自殺未遂。冗談で笑い飛ばせなくなる頃は、あれが母親なのが堪らなく疎ましくなった。
家を出れば連れ戻されて、避ければ死んでみせる。
もう、息苦しくて殺してしまいそうだ。
そんな頃だった。
あの人に出逢って救われたのは。







母が亡くなってから数ヶ月して、遺産云々の事で弁護士から知らされた。
父が親から譲り受けた土地の一角に、花を育てるための温室を持っていたことを。
花や植物が好きで家でも世話をしていたけれど、まさか本格的に育てているなんて知らなかったから、温室を見たときは驚いた。
でも、ここが母の遺した物だから、温室の世話は自分が引き継ぐことに決めた。






中学を無事卒業して、高校も決まった。
だから休み中は花の世話。
「うわっ」
「いってぇ!」
今日も温室に向かう途中だったけど、思い掛けない物に躓いて、すっころんでしまった。
「え?ひ、人?!」
自分以外の声。
早久良は狼狽えながら振り向いて、そこでゆっくり身を起こした男子に目を奪われた。
整った顔立ち、歳は同じくらいなのに尋常じゃない色気を兼ね備えてる。
寝起きなんだろう男子は、面倒げに髪をかきながら、目を開けてこちらを振り向く。
うわぁー、めちゃ綺麗。
切れ長で迫力ある不思議な瞳。
早久良は人生初めて頬を染めたのに、相手からかけられた言葉で一瞬のうちに奈落の底だった。
「ドブス」
「え?」
「どこに目ぇつけてんだよ、このブス。うぜぇんだよ、お前みたいな女が、俺に触れて良いと思ってんのかよ」
早口で、しかも吐き捨てるように呟いて立ち上がり去ってしまった男子。
早久良は唐突に投げかけられた罵声に茫然とするしかなかったけれど、数分して脳が覚醒してくるとハッキリしたことが一つあった。
「はあ?!なんだ、あいつ?」
沸々と沸き上がってくる怒り。
初対面の癖に、理不尽極まりない発言の数々。
「アイツ、大っ嫌いだ」
ちょっと母に似てたかも、なんて思った自分を罵りたいほどムカついた。
自慢じゃないけど、母はとても綺麗な人だった。でも、だからってそれを鼻にかけたりしなかったし、心が何より綺麗な人だったから。
少しでもあんなのと似てるなんて思ったことを母に謝らないと。
「ゴメンね、母さん」
そうだ。
これから温室に行くんだから、笑顔笑顔。
花たちにも感情があるし言葉も話せる。そういった母を思い出しながら、早久良は足取り軽く温室へと向かった。




ずっと待ってきた。
あの日、初めてあの人にあったときは、あまりに汚らしい母と似ていて恐怖した。
でも自分を見付けて微笑んだあの人があまりに綺麗で優しくて、そう感じた瞬間にその場で泣き崩れてしまった。
そんな俺を戸惑いながらソッと抱き締めてくれたあの人。
人がこんなにも温かいんだと知って、自分が純粋な愛情に飢えてることも自覚した。
それからは、あの女から逃げるたびに此処へ来て、来るたびにあの人が優しく迎えてくれたから親に出来なかったように甘えた。
けど、いつからだったか、此処へ来てもあの人に会えなくなった。
しかも忘れられずにこの高校に入学して、もしかしたらまた、なんて可能性を期待してる自分に笑える。
「・・・母さん・・・」
あの人がそうだったら、どんなに幸せか。
あの人が大切にしていた温室はこの高校の中にある。
裏庭の更に奥。
林に囲まれた場所にひっそりとあって、普通の生徒なら気付かないし、入ろうとしても特別なセキュリティのために簡単には入れない。
あの人は温室の中にいるのかも知れないし、教えられたコードを使って中に入れば会えるかも知れない。
でも、あの人と初めてあったのは裏庭から林に続くこの芝の場所だったから、温室に入ろうとは思わなかった。
授業を受ける気はない。
だから、此処で寝転んであの人を待つ。

静寂を破ったのは、持たされた携帯電話。
今、これを鳴らすのは一人しかいない。
永遠鳴り続けるだろう音にウンザリして出れば、開口一番どこにいるの?と喚かれた。
「学校に決まってるだろ」
『嘘よ!またほかの女の所にいるんでしょ!』
「いい加減にしてくれよ、母さん」
『万里!!』
ヒステリックな声が響いて、あまりに聞き苦しくて電話を切っていた。
これから毎日こんな生活が続くのか。
そう思った途端、ため息が漏れる。
同時に感じた視線に顔を上げた。
「んだよ?」
親に犯されて以来、女共が自分に見惚れてアプローチをかける。
そんなのは日常茶飯事だったから、同じ制服を女が立ち止まっていたら目的は自分だと判る。
だから追い払うために睨んで威嚇すれば、思い掛けない言葉が聞こえた。
「マザコン」
「なっ」
絶句して言い返す間もなくその女子は林の奥へ歩いて行ってしまった。
「っんだ!あの女っっ!」
何より軽蔑している生き物は女。
その女から、此処まで屈辱的な思いをさせられるとは思ってもいなかった。



「なんで・・・?」
帰宅前に温室に寄ったら、昨日までしっかり生きていた植物や花が枯れていた。
水もやったし温度調整も確認した。
他人が入らないように鍵もした。なのに、一夜明けたら皆、死んでるなんて。
「ど  して・・・」
早久良は、目の前に広がる光景に愕然としながらフラフラと室内を歩き回る。
見えたのは、倒れている植木と通路に零れている土。
それから投げ出されている人の腕だった。
「!!」
しかも傍らには空き缶と煙草の吸い殻。それで解った。
ああ、コイツのせいだって。
そう感じた瞬間、転がっていた竹箒を片手にして寝転がる男に跨っていた。
竹箒の柄を男の首に宛って、そのまま強く押し付けてやる。
眠っていた相手は無防備だし、このまま絞め殺してやろうと思った。
「うっ・・・?苦し・・・・・・!!」
呼吸が出来ないことで目が覚めた男子は、自分のされている光景を目の当たりにしてギョッとした。
同時に跨っている相手が本気で殺意を持っていることに混乱した。
「おいっっ」
喉が潰される痛みと苦しさに呻きながら、下から箒の柄を押し返す。
そんな相手の抵抗を見るや、早久良は全体重をかけて押し戻す。
「マジかよ」
そんな声が今の早久良に届くはずはない。
完全に頭に血が上った早久良に気付いた相手も、チッと舌打ちして早久良の体を蹴飛ばした。
「なんなんだよ、お前は」
「っまえの・・・お前の所為で、母さんが・・・」
「はあ?なんだよ、いきなり」
相手の言葉を聞く気はない。
早久良は再び竹箒を握ると立ち上がり相手と向き合った。
振り上げて避けられれば突き出して刺す。
「いって!オイ、巫山戯んな!!」
それが最後通告だったんだろう。
聞き入れない早久良を見かねて、男子はチッと舌打ちしてから足場を固めて体制を整えた。
自分目掛けて突き出された箒を左腕で払うと、間合いを詰めて竹箒を握る手を強く叩いた。
衝撃と痛みで一度は手を離したが、それでも止めることせずに握る方向を変えて柄を相手に向けて体勢を立て直す。
長く続いた緊張感。
それを破ったのは携帯の呼び出し音だった。
「チッ・・・おい、ちょっと待て」
自分の物だと気付いた相手は、渋々ながらポケットに手を入れた。
視線が外れた一瞬、早久良は「待て」と言われたにも関わらず足を踏み出して箒の柄を目掛けて振り下ろした。
ガシャン。
加減のない攻撃を受けた携帯は無惨に壊れて割れてしまった。
「ありえねぇ」
冷や汗と呟き。
腰を抜かしたのか、目の前で崩れるように座り込んだ相手を見て、早久良はようやく攻撃の手を止めた。
背を向け、零れた土を集め倒れた植木の中に納める。
「・・・オイ・・・もう良いのか?」
あれだけ何を言っても聞かなかったのに突然止んだ怒りに拍子抜けしたんだろう。
再び襲いかかられても困るのに、そう尋ねる相手に早久良はムッと眉を寄せて振り向いた。
「此処で煙草吸ったでしょ?」
「は?あぁー、そういや、なぁ」
「此処の植物はデリケートで、特に煙草なんて猛毒。こんな密室でそんなもの蒸かされたら一日で全滅するに決まってる!」
吸い殻の入った空き缶を持ち主に投げ付ければ、少し驚いて目を見開き慌てて周囲を見渡した。
枯れたり萎れてしまった植物を目の当たりにして、蒼白になり男子は前のめりになった。
「マジかよ」
「・・・今更・・・後悔したって遅い」
「どうしよう・・・ここ、あの人の温室なのに・・・俺、とんでもないことを」
「あの人?」
「半年以上ずっと会えなくて、だから、此処にいれば会えるかと・・・まさか、こんな事になるなんて。なあ!どうにかなんないか?」
綺麗な顔が狼狽して座り込んだまま足下に縋り付いてくるから気色悪い。
「死人を生き返らせるなんて無理」
足を振り払って一歩下がれば、この世の終わりみたいな顔をされた。
それを、此処を枯らした張本人がするのか。
早久良は消えない憤りを感じながらも生じた幾つかの疑問をぶつける事にした。
まずは、どうして此処に入れたのか。
「あの人に、鍵と解除コードを教えてもらってたから」
「あの人って?」
「この温室の持ち主だよ!」
「・・・此処、私の物だから」
凄い形相で睨まれた。
「何言って、ここは、あの人が大切に育ててきたっっ」
「あの人って多分、私の母親のことだと思うけど・・・だったら半年くらい前に事故でなくなったから、今は私が受け継いだの」
「亡くなって・・・?」
「そう。死んでるから、どれだけ待っても来ないし、母さんが遺した大事な物も、アンタが殺したから何も残ってない」
絶望の淵に追いやって、気が済んだら出て行けと言うつもりだった。
居られたら目障りで。
口を開いた瞬間、相手に遮られてしまった。
「俺は"上野 万里"、今年からこの高校の一年」
「・・・だから?」
「そっちは?」
「二度と会うのゴメンだから、名乗る気にもならないけど」
「あの人の子供なんだろ?俺と同じ歳で、優しくて自慢の娘だって言ってた」
「あっそう」
「名前、教えてくれよ。あの人の名前は聞けなかったから」
掛け替えのない、大切な人だったんだ。
万里の苦しく歪んだ声がそう告げた気がして、早久良は拒絶することが出来なくなった。
「北方早久良」
「北方・・・早久良か。じゃ、これから宜しく」
立ち上がり制服の汚れを払って差し出された右手。
早久良は暫く眺めた後、応えることなくその手を叩き落とした。
「宜しくする気は毛頭無いね」
「まあ、そう言うなって。大事なもの、殺した償いぐらいさせてくれ」
「別にもう良い。どうせ一からやり直しなんだから」
「だったら尚更、」
「他人の干渉、受ける気ないから」
今度は確実な拒絶。
早久良は、これ以上万里が存在するのを許さず空気だけで出て行けと伝える。
閉め出して中から鍵をかけ他人が侵入できないようにした。
今度こそ、二度と、あの嫌な相手と顔を合わせなくて済む。
早久良はそう思いながら目の前に広がる温室の状態を眺めた。
まだ、生きてる物があれば良い。
そう願いながら、ひとつひとつと向き合って時間を過ごした。



あれから数ヶ月、残った植物の世話に追われながら安定した頃に新しく花を持ち込んで育てることにした。
知識が少ないから本を読んで色々学ぶ内に香水作りに嵌ってしまった。
その為の材料や道具等を温室に持ち込んでは入り浸る事も多くなった。
「北方さん」
昼休み、どんな香水を作ろうか模索してたら同じクラスで仲の良い杉田から声をかけられた。
「何書いてるの?」
「え?うーん・・・最近、手作りの香水のはまってて」
「へぇ、凄いね!」
「凄い、かな?」
「もう作ったりしてるの?だったら私にも何か作ってくれない」
「あー、うん。慣れてきたらね」
学年でも特に美人で注目度の高い彼女は、屈託ない様が母に似てる気がして少し好きだった。


「北方さーん!聞いて、私ね、彼氏が出来たの!」
幸福そうな満面の笑みで登校早々近付いてきた杉田。
早久良は面食らいながらもつられて笑顔を作っていた。
「おめでとう」
「ありがとう!でね、そのきっかけが北方さんに貰えた香水のお陰なの」
「ホント?」
「本当!だから、一番最初に報告したくて」
自分で作った香水が、こんな風に人を幸せに出来る。
それが嬉しくて早久良は自分のことのように嬉しくなれた。
「それで、誰?彼氏」
「よくぞ聞いてくれました!それがねー、上野君なの。凄いでしょ?」
上野と言えば、今や学校中のモテ男。
その名前を知らない人間は居ないだろう。
女性陣からは一度は付き合ってみたい憧れの相手。
男性陣からは女を寝取る最低野郎、殴ってやりたい男第一位に輝いている。
とりあえず、その容姿と纏っているオーラの妖艶さが半端じゃないことは誰もが認めていることで。
早久良は、少し考えてから「おめでとう」と繰り返すしかできなかった。


放課後、帰宅前に植物と話して返るのは日課になってたから今日も向き合ってた。
それから香水作り。
口コミで広まっているようで作ってほしいと依頼を受けるので小遣い稼ぎにもなっている。
それもこれも、母が遺してくれた温室のお陰。
だから、この温室に生きている植物には愛情を惜しまず注いでる。
「早久良」
「!」
「よぉ」
「・・・・・・どなたでした?」
鍵は閉めた。
なのに無断で温室に入ってこれる人間は、1人しか心当たりがない。
顔を上げて、案の定の相手が不敵に笑んで立っているのを見て早久良は表情を無くした。
「あららぁ、見覚えない?」
耳障りな猫なで声と調子に乗った軽口に苛々する。
早久良は、無言で立ち上がってテーブルの隅に立てかけておいた竹箒に手を伸ばすと、通路の先にいる万里に向かって柄を突き出した。
「出てけ」
「つれないのな」
「そんなこと言われるほど、アンタに面識ないから」
「んだよ。親友の杉田さんの彼氏だぜ?」
「はあー」
初対面は最悪で、その次はささやかな仕返し。
まともに顔を突き合わせたときは、生涯感じたことのない怒りと殺意を覚えた。
それで、今度はこれ。
万里を相手にしていると、確実に自分の調子が狂っている。
「何の用?」
ギスギスするのは止めよう。
自分が疲れるから。
早久良は、全身の緊張をといて握っていた箒から手を離した。
「俺にも香水作ってくれよ?」


香水を作れと言われたあの日から、今まで顔を見ることも少なかった万里が、毎日のように温室へ現れるようになった。
そればかりじゃなく、早久良の友人でクラスメートの恋人であるために、休み時間や昼に現れては良く会話に割って入るのだ。
杉田は幸せ一杯だし、他の友人達も滅多なことではお近付きになれない万里と"彼女の友達だから"親しく話せる、その状況を実に喜んでいるようで。
そんな彼女等を前にして、水を差すようなことも態度も取れない。
「なぁ、北方さん家って学校から近いわけ?」
他愛のない話しで、それが自分に関与しないなら、特別万里が居ることを気にすることんなんて無かった。
「・・・それなりに」
「そうなの?どの辺?北方さんて自転車通学だったよね」
「歩いてきても良いんだけど、時間が勿体ないから」
万里の質問から話しは広がって、杉田が喜々として自分の家の場所を語り出す。
話しの流れとしては至極当然。
だからこのまま、恋人同士のお互いを知るための会話が始まるのかとホッとしてれば、友人と盛り上がり始めた杉田を放って万里が再び話し掛けてきた。
「一人暮らし?それとも父親と一緒?」
一瞬、場の空気が止まったのを感じた。
早久良は誤魔化すための切り返しを杉田に向けて発する。
「杉田さんは家族とだよね。家の人がいると不便じゃない?彼氏が出来た今は特に」
含みを込めた言葉に杉田は赤くなることで返事をし、お陰で場に笑いが生まれた。
万里もそれが聞きたかったのかと笑いの中に混じって理解が含まれ、早久良は心から安堵のため息を吐いた。
「北方さん、兄弟は?」
彼女たちと言葉を交わし、家族の話題から兄弟の話。
そうなると万里の中に新たな疑問が出来て、早久良を振り返る。
「一人っ子。そーゆー上野君も、兄弟居ないんじゃないの?ねえ?」
「うん、そんな感じするー」
主役を杉田に戻せば、万里も彼女を振り向いて話しに花を咲かす。
そう。
こうやってこのまま、お互いを見合って話しをしてくれればいい。
なのに万里は気付けば早久良に話し掛けてきては、度々杉田や周囲の目を曇らしてしまうのだ。
他の友人に比べれば格段、早久良に振る回数が多い。
杉田と会話途中でも平気で早久良へ話しを切り替える。
それが目につくようになって、流石の早久良も参っている訳なのだ。
休みの終わりを告げるチャイムが鳴って、どれだけ早久良が喜んでいるか。
「万里、それじゃあ、放課後ね」
「おぉ」
恋人同士に飛び交うラブ光線を無視で、こっちは散らかった机を片付ける。
そのまま教室を出て行ってくれれば良かったのに、思い出したように万里が「あ」と声を上げた。
当然、いち早く反応したのは杉田。
「北方さんも一緒に帰らねぇ?」
「・・・は?」
今、自分が呼ばれた気がして顔を上げて、全員がこっちを見ていた事にギクリとする。
追い打ちをかけて万里が。
「家知りたいしさぁ、偶には良くねぇ?」
「お、お邪魔だから遠慮しとく」
「邪魔じゃねーよ」
いや、思いっ切り邪魔だろ!
心で毒突きながら、チラリと杉田を見て、引きつった笑顔で「そうよ、邪魔じゃないから」と言われて余計に雰囲気が悪くなった。
「用!そうそう、用があるから無理」
「温室の世話か?だったら待って、」
「今日は帰りに映画観て行くって杉田さん言ってなかったっけ?」
「あ!」
「やだなー、忘れてたの?結構大事なことでしょ、デートなんだし。てわけで、私がいるわけにはいかないから、今回は本当にご遠慮致します」
「ごめんね、北方さん。思い出させてくれて、ありがと」
「いいえ」
デートの予定を思い出した途端、杉田は頬を染めて微笑んだ。
お陰で不穏な空気はなくなったし、万里には完全な拒絶を伝えられたことだろう。




植物の世話を終えた早久良は、幾つかの精油を並べて何通りもの香り作りに集中していた。
これをやっているときは時間も気にしないし、温室だと邪魔が入らないから続く限りの集中力を駆使して永遠作業を続けてしまう。
「ふぅー」
疲れと鼻の麻痺。
一息ついたとき、微かな物音がして振り向いた。
「よぉ」
「・・・デートは?」
「とっくの昔に解散した」
「ちゃんと送ってった?杉田さん、モテるんだからね」
「興味ねぇ」
当たり前のように温室に入ってきて、もう、万里が居ることに違和感を覚えるのが面倒になってきた。
「帰るだろ、送ってく」
「結構です」
机に広がるものを片付けながら近付く万里へ視線を上げた。
「何しに来たのさ」
「俺の香水出来たかと思って」
「作るなんて言った覚えないけど」
「今模索してんの、俺のじゃねぇのかよ」
「違います」
「お前ぇ・・・この俺がこんなに毎日通ってやってんのに、下心ひとつ湧かねぇのか?」
「・・・自分で言ってて恥ずかしくない?」
有り得ないと言い切る姿に早久良は呆れ返り、心の底から変な奴だと実感した。
そしたら何故か可笑しくて、意味もないのに吹き出してしまった。
「んだよ?」
「あははっ」
「何笑ってんだ?」
「だって、はは、いやさ~・・・上野って変わってる」
「はあ?」
片眉上げて訝しむ万里の顔を見たら余計に面白くて、存分に腹を抱えて大笑いした。
一頻り笑って最後にため息をつくと、目尻に溜まった涙を拭って言葉無く立ち尽くしている万里と向き合った。
「こんな笑ったの久し振り」
「俺は、こんなに笑われたのは初めてだ」
不快だったのかムッとしている。
まあ、確かに。ああも意味無く笑われたら腹も立つだろう。
早久良は謝ろうと口を開いて、万里が頬の筋肉を緩ませたことで言葉を詰まらせた。
「どんな女だって、俺を変だって言った奴はいないんだぜ?一目見てすぐ、セックスアピールしてくるんだからよ」
「あぁ・・・上野の色香は半端じゃないね、確かに」
「それもこれも、母親のお陰だな」
「綺麗に産んでくれて有り難うって?」
「実の息子に手ぇ出してくれて有り難うってな」
一瞬、空気が変わる。
早久良は一拍以上間を空けて自分の耳を疑った。
万里を振り向けば、苦笑混じりで何とも言えない表情を向けているから冗談だろと聞き流すことが出来なくなった。
「・・・悪いけど、今のは聞かなかったことにするから」
数十秒だけの沈黙。早久良は悩む素振りも見せずに言い放つ。
「何で?」
当然万里は不服だった。
生い立ちに同情をして欲しいとは言わないが、もう少し何かしらの反応はしても良いんじゃないかと眉を顰める。
「重いから」
「んな、身も蓋もない」
「それに、私は母さんとは違うから」
後片付けを終え鞄を持って万里の横をすり抜ける。
「おい、待てよ」
閉めるんだから出てもらわないと困る。
追いかけて来たことを好都合に、万里が外へ出てから扉を閉めた。
「おーい、言っとくけどなぁ、こんな話、あの人にだって言ってないぜ?」
「・・・言えなかっただけじゃないの?」
「一生誰にも言うつもりはなかった」
口調は強くなかったけれど、言い切った万里の表情が確固たる決意を物語っていたから嘘ではないんだろう。
一度止めてしまった歩みを再び動かして、並んで歩く万里にため息。
「だったら何で言うわけ?」
「わからねぇし、弾みみたいなもん」
「何でも良いけど、とりあえず私は聞かなかったことにするから」
「だから、どうして無かったことにすんだよ。普通、つけ込むなりなんなりするだろ」
「上野につけ込んで何の得がある?下手に寄り掛かられる方が迷惑」
「・・・つまんねぇ・・・」
「知った事じゃない」
中心にいるのが当たり前。相手にされなかった経験はない。
誰もが一度は彼の容貌に心奪われるから、自負するのも当たり前だと思う。
けれど早久良は、失ったものを補うことに必死で何かに構っている余裕はない。
「上野あっちでしょ。じゃあ」
「送ってく」
「いい。それと、明日から私に話し掛けるの止めて」
「はあ?!」
「杉田さんが良く思ってないのくらい、気付いてるんじゃないの?」
それには答えずの万里。
ああ、性格が悪いコイツと今更ながら実感して、早久良は踵を返して背中を向けた。
拒絶をすればついてくる相手じゃない。
望まなくても押し掛けてくる不特定多数の異性を抱えてるんだから、母親しか繋がりのない早久良を追うわけがないのだ。
「早久良!香水は作ってもらうからな」
「気が向いたらね」



自宅に帰るなり、女の喚き散らす声が聞こえる。
今ではこれが日常。
とは言え、帰宅した自分を見付けるなり体にまとわりついて離れないこの女には嫌悪しか感じない。
「万里っ、こんな時間まで何処にいたの?」
「連絡しても出ないから心配したのよ」
「女と会ってたのね?私の万里をたぶらかすなんて、なんて女なの!」
1人で何かを喋って、最終的には目的が肉欲に変わる。
鬼の形相が静まれば、その手や唇は嫌な意図を持って肌を撫でていく。
反応ひとつしない万里は、携帯の呼び出し音で現実に引き戻る。
名目上は恋人となっている相手からだった。
「万里!!」
ひったくられる携帯。
長くウェーブのかかった黒髪を振り乱してメールを確認している。
嫉妬に揺れる目が大きく開かれて、携帯が床に叩き付けられる。
「私よりもそんなっ、そんな薄汚い女がいいって言うの、万里!」
「貴方を誰よりも愛しているのは私なのよ」
「薄汚い女共、雌ブタどもっっ」
「私から万里は奪えない、貴方は私だけの物なんだから」
暗示のように続けられる言葉。
昔はどれほど恐ろしかったことか。
衣服をはぎ取る母が、肌に触れる母が、重くのし掛かってきて訳の解らぬままに快感を引きずり出される事が。
普通じゃない。汚い。怖い。
優しく微笑んでくれていた母は何処へ行ったのだと。
「アア・・・万里ぃ・・・」
胸をはだけさせ、実の息子のものをくわえ込んで、自分に跨って腰を振ってよがっているこの、汚らしい生き物は何だ。



いつからだろう。
コレを「お母さん」と呼ばなくなったのは。
止めて欲しいと抵抗しなくなったのは。
悲しみ・恐怖・憎悪を感じなくなったのは。
もう、コレが何なのか、認識すら出来なくなったのは。





「上野君、おっはよ」
「・・・ああ・・・?」
あの後も、夜更けに部屋へ忍んできて、朝方までしつこく喘いでいた生き物。
眠気と吐き気、激しい頭痛で視界も歪んでいる。
だから、肩に触れて横へ並んだ女が誰なのか解らない。
「昨日返事待ってたんだよぉ?」
ああ、今の相手だ。
「悪い。体調悪くてさ、その上、便所に携帯落としてメモリ全部飛んじまったんだよ」
「え!嘘!携帯は?」
「ぶっ壊れたから今日新しいの買いに行く」
「それじゃあ、私もついてこっと」
腕にまとわりついて体を密着させる。それがどれだけ気色悪いのか、こいつ等には解らないんだろう。
振り払おうとして女から香る甘い匂いに手を止めた。
「・・・早久良が作ったの、つけてるのか?」
「早久良?」
「香水」
「ああ、うん。ベースはラベンダーとか言ってたけど・・・上野君、北方さんのと仲良いの?」
香りが鼻に付いた瞬間、まとわりついていた嫌な重みが軽くなった気がした。
気のせいじゃない。
頭痛が軽くなって、思考も正常に回り出す。
「どうして北方さんの下の名前知ってるの?」
もっと嗅げば頭痛は治まるかと思った。
相手の声を無視して、首筋に鼻を近付ける。
「きゃっ、う、上野君?」
「・・・ふける?」
「え?」
匂いに誘われて首筋へ舌を這わせれば甘さが口に広がる。
何故か安まる気がした。
女が頬を染め小さく頷いたのを見て、爪先から沸き上がってくる不快。
やっと嫌な感情が軽くなったのに、何もかもが冷たくなる。
だから、全てをぶち壊したくなった。



一時間目が終わった頃、万里は杉田と共に教室へ戻った。
「よぉ~、お揃いで遅刻ですか」
入るなりやっかみと揶揄の視線が向けられて、杉田は真っ赤に顔を染めた。
興味を示さない万里は無反応で杉田の側を離れようと足を進めた。
「あれ?三人一緒だったの?」
万里、杉田に続き、早久良までもが遅刻での登場。
クラスの女子は驚きで声を上げ、万里は思わず振り向いていた。
「北方さんも一緒にいたの?」
「は?」
「二人も今来たところなのよ」
「どこぞで3Pか?」
男子の下品な笑い声が伝染して、早久良は眉を寄せた。
教室に来て早々、訳の解らないことで馬鹿笑いされ、その原因に万里がいる。
それだけで早久良の不快度は増した。
相手をする気も失せて足を進めれば今度は間抜け面で突っ立っていた万里に止められた。
「温室にいたのか?」
「温室?何で?」
「い、いや・・・」
「・・・もう行って良い?」
一応は聞く形は取るけれど、返事を聞く前に横をすり抜けた。
不自然に焦っていた万里に、いつもなら不信を抱いているところだけれど、今日はそんな気にならない。
挨拶を交わした女子と二言三言会話をしてからは一切口を開かず頬杖突いて仏頂面。
妙にすり寄ってくる杉田を煩わしいと感じながら、万里はそんな早久良を視界の先においていた。
正直、自分の行いに酷い後ろめたさを感じていたから。
杉田を温室に連れ込んだときは、そんな思い微塵もなかったのに。



今朝、登校途中で携帯が鳴った。
殆ど活用されないから珍しい事態に首を傾げながら電話に出れば父からだった。
『さっちゃん、事故っちゃったよ』
第一声がそれで、あまりに覇気のない声に背筋がゾッとした。
「ちゃったよって、何処で?車?!」
『信号無視の車に突っ込まれちゃって、あぁ・・・頭から血が・・・』
「救急車呼んだ?」
『このまま死ぬのは嫌だから、最初にさっちゃんに電話したよ』
ハハハと笑い、痛みで呻く父の声。
あまりに唐突で、想像してなかった状況。
母の死が受け入れがたくて家を出て行った父とは数ヶ月会ってない。
一人での生活が慣れてきて、失う恐怖を忘れようとしてたのに、瞬間、思い出させられた。
父まで逝ってしまう。
そう思ったときは、父に居場所を聞き出して回れ右。
何も考えられずに目的地まで走り出していた。


人はそう簡単に死なないから。
大切な人を置いて、何処かへ行ったりはしないもの。

そんな言葉を何処かで聞く度に、全部を否定したくなる自分がいた。
母が亡くなって以来、ポッカリ空いた心の穴は埋められない。
幸せな家族を見ると、喪失感が膨らんで無くなったものを痛感させられた。
だから、父が現実から逃げ出してもどうでも良いと思ってたのに。



昼休み
父が病院へ運ばれて、緊急手術が終わるまでは病院にいた。
でも、麻酔で眠って意識がない人を待っているのは耐えられなくて、早久良は学校へ戻ったのだ。
食事は取る気になれないし、意識が戻ったら連絡が入るから、ずっと携帯と睨めっこをしていた。
「早久良」
自分が呼ばれていることに気付かなかった。
一拍送れて顔を上げると、罰の悪そうな表情で立っている万里がいた。
「どうかしたのか?」
「・・・別に・・・」
「・・・なぁ、今朝、温室に、」
「温室?」
またその質問。
苛立って何も考えたくない早久良でも流石に引っ掛かる。
この男がウジウジ同じ事を聞いてくる時点で可笑しいのだから。
眉を寄せて睨み上げれば、グッと言葉を詰まらせた万里が意を決して口を開く。
「今朝、その・・・杉田を連れ込んで、その・・・・・・」
そういえば二人も揃って遅刻したと言っていた。
万里の気まずいオーラ、それに「連れ込んだ」と言った。
「ホテル代わりにしたの?」
聞くまでもないけど不快が半端じゃなくて、罵るために聞かずにはいられない。
「悪い!!」
オーバーなほど頭を下げた万里。
プライド高くて、女軽蔑していて、誰に何を言われてもダメージを受けない男が、クラスの前で堂々頭を下げる。
行為だけで万里の反省ぶりは判断できた。
"聖域"を汚した万里には、罵声を浴びせて蹴っ飛ばして半殺しにしたい憤りはあった。
でも今は、失った人の思い出よりも失うかもしれな恐怖で支配されていた。
そんなとき、携帯が鳴り響いて早久良はビクリと体を震わせた。
直ぐさま応対して、安堵で体の力が抜ける。
「ありがとうございました」
意識は戻ったし、とりあえず後遺症の心配はない。
命にも別状はありません、そうハッキリ言われて涙が零れそうになった。
「オイ?誰から」
「私、今日は帰る。それじゃあ」
「おい!」
職員室によって許可は取るけれど、万里と話すことはない。
鞄を持って教室を出て行った早久良を呆然と見送った万里は、自分のしたことを許されたのかも解らなければ、彼女が怒っているのかどうかすら定かではなくて、暫く立ち尽くすしか出来ずにいた。




夏休みを迎える頃、女子が殺到するほどの噂が飛び交っていた。
早久良の作った香水を付けると、美人しか相手にしない万里が一夜を共にしてくれると。
これには、風貌に自信がない女子達も凄い勢いで食い付いて、校内で早久良が香水を作っていることを知らない者はいなくなった。
売り上げは上がったけれど早久良は苛立ちを覚えていた。
杉田との恋人関係は解消していないのに、事実そこら中で女とイチャ付く万里が目撃されている。
元々節操がないから大して問題でもなかったけれど、いかんせ杉田は早久良の友人。
しかも、浮気の原因が自分の作っている香水にあるから頭を悩まさないわけにはいかない。
「北方さん、休みの間も香水作り?」
「あー、うん、まあ・・・でももう、学校では売らないことにしたから」
終業式も終わり生徒が帰宅する中、前と変わらず笑顔で話し掛けてくれる杉田に申し訳なく思う。
こうまで肩身の狭い思いをする必要もないのに、とは思っても胸が痛む。
「気にしなくてもいいのに、単なる噂なんだから」
「そうだとしても、杉田さんだっていい気はしないでしょ?」
「・・・ごめんね」
「杉田さんが謝る事じゃないよ。ほら、彼氏がお待ちかね」
廊下を指せば、女子に取り囲まれている万里の姿に杉田の表情が暗くなる。
「恋人同士のことはよく解らないけど、二人には上手くいって欲しいよ」
「ありがとう」
「夏休みの間は邪魔されないで思いっきりデートできるし、楽しんで」
「そうする。北方さんも、恋人出来たら教えてね。それじゃ」
「始業式で」
手を振って万里の元へ行く杉田を見送った。
肩の荷が下りた気がして、ホッと息をついて鞄を取って立ち上がる。
視線に気付かず居られたら良かったのに、顔を上げて万里と目が合ってしまう。
ギクリと肩が揺れたものの、すぐに万里が目を反らして杉田を連れて去ったため、緊張は続かないで済んだ。




父が事故に遭ってから、誰であっても側には寄せ付けなかった。
杉田が昼を誘っても断ったし、何度か温室に現れた万里も相手にしなかった。
今は退院して全開になったとは言え、あの事故で心に落とされた爆弾は半端じゃなく大きい。
払拭するために趣味と温室の世話に励んだけれど、他人と口を聞きたいとは思わなかった。
だから、最後には温室のロックを換えて万里が入ってこられないようにした。
最初からそうしても良かったけれど、母が万里に許可を出していたんだから、それを勝手に入れなくすることに抵抗があったから今までは許していた。
でも、やっぱり余裕がない。
だから閉め出した。
それ以降、万里が話し掛けてくることもなくなった。
ただ、気付くと強い視線を向けてくる万里と目が合うようになった。
きっと責めているんだと思う。
母を救いだったと言っていたから。



温室に入れなくなって、自分の行為が人を傷付けたんだと解った。
聖域だと言い切った早久良が守っていた場所を汚したんだから、立ち入り禁止になっても文句は言えなかった。
あの人が大切にしていた場所にいると落ち着いて、嫌な感情が抜け落ちていく。
まだ少し、正常でいられる自分を自覚できて安堵した。
けれど自分で温室にいられなくしたんだから、どうしようもない。
負の感情に支配されて、何も感じなくなって、そこから救い出すように香りが鼻を掠める。その度に靄が晴れる。
心地良くて、また香りを探してしまう。
気付いた頃には、妙な噂が校内を取り巻くようになっていた。



「万里っ、何処へ行くの?!」
夏休みに入って、次の日だ。
自宅にいれば息が詰まる。朝一で出掛けようとして、アレに捕まった。
「休みなんでしょう?ずっと、私の傍にいてくれるわよね?」
フラリと近付いて、手が腕に触れる。
吸い付くような長い指先、抱き付いてくる細い体。全てが気持ち悪い。
「貴方、ずーっと帰ってきてくれないから、母さん、淋しかったのよ?」
フフフと笑みを零しながら、血の滲んでいる手首の包帯を視界に入れさせられる。
「この家には、貴方と私だけ。邪魔者はいない」
「ベッドへ行きましょう。ね?抱いてちょうだい」
クスクスと笑い声が木霊する。
背を伸ばした女が、首に両腕を巻き付けて口付けをねだる。
応じもしない、抵抗もしない。
口腔内に舌が侵入して、舌を絡め取ろうとしつこく動く。
「ねぇ、欲しいのぉ・・・万里」
媚びた声が自分の名前を呼んだ瞬間、言い得ぬ感情が心を支配して、衝動のままに女を突き飛ばしていた。
「万里?」
それが完全な拒絶だと、今湧いて表れた感情が殺意だと、それから自覚した。
血の気が引いて、目の前で見る間に表情を強張らせていく女を気持ち悪いと思う。
触られるのも嫌で、伸ばされた手を避けるために体を引く。
吐き気が込み上げて、口元を覆ってしまう。
これまでは、同時に感情が押し寄せてきたことはなかったから解らなかったけれど、自分はこんなにも、目の前にいる女に不快感を抱いていたのか。
存在自体が間違いで、消してしまいたい汚い物。
ああ、コレは母親なんだ。
頭の隅で自分が呟いて、瞬間、家を飛び出していた。
悲鳴のように自分の名前を呼んだ女を振り返るのも嫌で、兎に角、走って逃げた。
込み上げる物を何度も必死で飲み込んで、当てもなく外を走る。
耐えきれずに吐いたのは、裏の路地。
「う゛えぇ─────うぇっ、げほっ」
触れられたことを思い出すと、無い物を吐き出そうと胃から込み上げてくる。
液体しかでなくなって、ボロボロになって、思い浮かんだのは学校の裏庭だった。
どこにも居場所がない。
あそこしか、いられる場所がない。
虚ろな瞳を揺らしながら、万里の足は学校へ向かっていた。



母が尤も愛していたのは、薔薇の花。
証拠に、温室の更に奥地に、もうひとつ完全な設備を整えた温室を持っていた。
温室と呼んでいいのか解らないけれど、非常にデリケートで容易くその生命を維持できない特別な薔薇を母は育てていた。
最新機器を投入して、一本一本をガラス張りの部屋に入れて、一定の温度を維持するためにコンピューターで管理しているくらい、兎に角徹底している。
一体この施設の維持費は何処から出てるんだろうと疑問を父にぶつけたら、某国の政府機関がコンピューターから送られる日々のデータの見返りとして、全ての資金を出してくれてるらしい。
此処に来ても全くすることはないけれど、見たこともない薔薇を一目見たくて通うことが多い。
此処は涼しいし。
小一時間、香水作りを思案しながら過ごして、温室の様子を見に向かう。
「?」
まさか、温室の扉の前で人が倒れてるとは思わなかったけれど。


縋るなんて、柄じゃない。
でも、もしかしたら許されてるんじゃないかと自惚れた。
「・・・やっぱ、駄目か・・・」
コードを入力してエラーになるまで淡い希望を抱いていた自分に失笑した。
一気に意識が遠のいて、体が鉛のように重くなる。
立っていられなくて、そのままズルズル地面に崩れ落ちた。
意識を手放す寸前、誰かの声を聞いた気がした。


「死んで・・・ないか、良かった」
真っ青で生気がないから、息をしているのか確認してホッとする。
早久良は温室の鍵を開けると、想像以上に重かった万里の体を引きずって中に運んだ。
日射病にかかって、これ以上、病状を悪化させるよりはマシ。
とりあえず病人に必要な物は揃えようと万里を残して温室を出ることにした。


「ん・・・ここ・・・」
「起きたなら水分とって」
「は?」
「はじゃなく、飲み物」
空耳ではない、久し振りに聴く声に万里は飛び起きて自滅する。
頭がクラクラして再び撃沈。
仰向けに倒れて、頭の下に柔らかい物があるのに気付く。
身を捩って確認すれば、それが枕だと解る。
次いでビニールシートが引かれているのに気付いて、体の上にはタオルケットが掛かっていたのを確認した。
「一人で起きれないわけ?」
呆れたとため息が聞こえ、視界を上げれば目の前に手を伸ばした早久良がいた。
状況が呑み込めていないのに、早久良に急かされて掴まないわけにもいかない。
足に力が入らず、思った以上に早久良への負担をかけて立ち上がった万里は、フラフラしながら誘導されてイスに腰掛けた。
倒れ込んでテーブルに突っ伏す万里を余所に、買っておいたスポーツドリンクを並べて好きな物を選ばせた。
ペットボトルを手にとって蓋を開けようとする万里だったが、全く力が入らずで滑ってばかり。
腕は震えだしてるし、見るに見かねて早久良が蓋まで開けてやることになった。
どうせ仰ぐのも億劫だろうからストローを挿して渡す。
「はぁー・・・生き返る」
何度もむせながら、殆どを一気飲みしてしまった万里はホッと肩を落として呟いた。
「それは何より」
早久良はもう一本蓋を開けてやると万里の前に置いた。
倒れていたときより顔色はずっと良くなったけれど微塵の生気も感じない。
瞳は虚ろで、安堵はしているのに何かに怯えてる感が拭えない。
絶望が取り巻いていて、いつかの自分や父の姿を思い出してしまった。
「・・・なあ、迷惑かけたな・・・」
覇気がない。
声がか細くて、今にも消えそう。
「・・・・・・・・・」
「・・・何も無し?」
自嘲気味に笑う万里が哀れだった。
見て見ぬふりするのは簡単だったけど、求める場所が此処しかないと行き倒れになっていた者を追い出せるほど人の痛みに鈍感に出来ていない。
早久良は小さくため息を漏らした。


二時間後
「やっと起きた」
「・・・デジャブ?」
あのままテーブルに伏して眠ってしまった万里の第一声に早久良は大いに呆れた。
「呆けかます前に、ちゃんと目を覚ませ」
「あれ?どうなってんだ?」
「・・・うん・・・本気で腹立ってきた」
空腹も限界まで堪えてやったのに、いつまでも寝惚けたままの万里。
「帰るよ、上野」
「は?あ、おう」
やっと血の気が戻った万里を盗み見て、足下の覚束ない姿に目を細める。
先に外へ出て、ゆっくり出てきた万里が複雑な表情をしていたことから、ようやく事の次第を思い出したんだと解る。
オートロックだから扉を閉めて施錠を確認した。
「おい、その、何だ、」
「改まらなくても良いから」
「・・・・・・」
言い訳を始めようとした万里を止めれば嫌な沈黙が作られた。
俯き加減の様子と、重くなる空気。
早久良はすぐに気付いた。
「ああ、これは拒絶じゃないよ」
父が事故った日も、万里は本当は泣き付いてきたかったのかも知れない。
余裕がなくて気付かなかったし、最初から関わる気もなかったけれど。
今は気付いてしまったし、見放せなくなったから仕方ない。
財布からカードキーを一枚出して、万里へ差し出す。
「認証コードは後で教えるけど、二度とホテル代わりにはしないこと」
「良いの、か?」
「他に縋る場所が無いんでしょ」
「・・・俺はそんなに惨めじゃねえ」
「自分で惨めだと思ってるの?」
哀れだと思っても、惨めだとは思わない。
同情だけど、それくらいしかしてやれることはない。
「腹減ってるから、この話題止めたいんだけど」
「・・・奢る」
「え?」
思わず顔を歪めてしまい、万里から反感の目を向けられた。
「何だよ?」
「別に、此処で解散してもいいんだけど」
「それは、つまりだ、俺とは一緒にいたくないと」
「杉田さんでも頼ってけば良いじゃん。私はお役ご免でしょ」
「・・・そうはいくか」
ボソッと呟いて視線を上げた万里が、自信満々の不敵な笑みで言い切ったから、早久良は一気に顔面蒼白となる。
やっぱり、下手な情けをかけるもんじゃない。
万里と関わることを選択した早久良は、今後避けられないだろう様々な出来事を予期していなかったけれど、疫病神にとりつかれたことだけはハッキリ自覚していた。
冗談じゃないと叫んでみても、それは後の祭りである。



夏休みも半ば。
台風が去って一段落する中、早久良は温室内に広がる香りに眉を顰めた。
香水作りを止めて顔を上げれば、やはり万里が近付いてきて片手を上げて挨拶。
「よぉ」
「不快な匂いをさせて此処に入ってくるな!」
何度言っても聞かないから、いい加減怒鳴りたくもなる。
これ見よがしに鼻に付く香水を大量に振りかけて、意識的に嫌がらせをする万里に早久良は心底ウンザリだった。
「大体、毎日毎日鬱陶しい」
「それはお互い様だろ。お前も男の一人くらい作れよ」
「大きなお世話だし、本気で殴りたい」
俺様的な笑顔が定着しつつある万里にこれほど暴言を吐いてやりあえるのは早久良だけだろう。
どれだけフェロモン全開にされても、早久良が万里に靡くことは無い。
「真面目にさぁ、上野」
遊びをはこれまでとトーンを変えて傍らに腰を下ろす万里を見れば、意志を汲み取った万里も耳を貸す。
「香りがわかんないから、此処に来る気なら何も付けてこないで」
「・・・俺も、そのつもりではあんだけど・・・」
「?」
「あの女の匂いが染み付いてて、気色悪ぃんだよ」
家にいる間ずっと離れない。
出掛けようとすれば半狂乱になってくる。
指一本でも動かせば、そのまま首を絞めて殺しそうだから、結局何も出来ずにされるがままになる。
杞憂で虚ろな瞳に記憶を映す万里に、早久良は何とも言わず口を閉ざした。
干渉しないし聞かなかったことにする。
これはお互い解っていることだから、万里の零す言葉が独り言に近いことも解っている。
そうでなくても、一言返しただけで巻き込まれるのは必至だから早久良は決してこの話題にだけは触れないようにしている。
「香水、作ってくれよ」
「やだよ。友達無くしたくないから」
「友達の彼に香水やったところで、なんてことないだろ?」
「友達の彼と、こうやって会ってること事態、大間違いなんだけど」
「あー・・・まあ、そうかも」
これまでは、友達だろうが何だろうが、アプローチかけてきた女とは抵抗無く関係を持ったから、一線を越えない一定の関係を保っているのは新鮮。
万里はジッと早久良の顔を眺めた。
「お前ってさー」
「何?」
「これっぽっちも、俺とヤりたいとか思ったことねえ?」
突然何を言い出すのか。
呆れて万里を振り向き、純粋な疑問だと知るや暫し沈黙して口を開いた。
「従兄相手にさかるなんて、まず有り得ないから」
「従兄?誰が?」
「私と上野」
「はあ?!」
「うっさい」
「どーゆー事だ?」
知らない事実があったことが不満なのか、頗る不機嫌になった万里が声を固くする。
「どうもこうも、母さんには双子の妹がいたから」
「なっ、どうして言わねぇんだよ!」
「・・・・・・」
どうもこうもない。
こっちだって、確信を得たのは最近のことだし。
その上、親子で近親相姦、息子は母親を汚物呼ばわりしているのを聞いているのに、今更それは言えないだろう。
答えない早久良を見て、万里も「ああ」と納得した声を漏らした。
自嘲気味に笑って「そりゃそうだわな」と続ける。
「身内だって知ったら、下手に逃げられねぇもんな」
「・・・否定しないけど・・・母さんは知らなかったから、言っとくけど」
やっぱりどいつもこいつも同じだと笑う万里に、早久良はムッと唇を尖らせながら反論した。
「大昔に別れてそれっきり、ずっと居場所探してたって言ってたから。上野のことだって、妹の子供だって知らずに死んで・・・分かってたら絶対・・・」
何とかしようとしたはず。その言葉を飲み込んで、万里を窺った。
一瞬の情けを見せて万里と視線を合わせた早久良はすぐに後悔したけれど。
「それで?生きてたら俺を見捨てない人の自慢の娘で、血の繋がった従妹のお前は?」
含みを帯びた言葉。
「助けてくれないわけ?」
「・・・・・・」
「勿論助けてくれるよな?だろ?」
「私は、」
「身内なんだから、関係ないわけ無いだろ」
その、失望しきった目で見ないで欲しい。
望みなどとうに捨ててる癖に、頼ってこようとしないで欲しい。
血のつながりを言えば、万里がつけ込んでくるのは想像できたから言わなかったのに。
言えば、拒否できなくなるから黙っていたのに。
「耳は貸してやる。けどっ、それだけ!今までと何も変わらないから」
「上等」
黙っていたことは許してやる、そう万里が言って笑った気がした。



血の繋がりがある。
それを聞いた瞬間、憤りより何より、これで早久良を拘束できると感じた。
たかが従妹程度の繋がりでも、あいつは逃げられなくなる。
知らなくても、俺みたいな人間は放っておけない性質だ。
しかも母親が探していた大切な双子の妹の息子だ、こんなに都合のいい話はない。
最初は手込めにでもすれば、簡単に居場所を確保できるし気兼ねなく逃げ場に出来ると思ってたのが、誘惑してもピクリとも反応しやがらなかった。
まさか、そんな理由があったとは。
もし従妹じゃなかったら?
あいつは俺に惚れたんだろうに。
そっちのがずっと簡単な話なのに、馬鹿な奴。
けれど、それでいい。
血の繋がりで縛れなくなったとき、そうすればいいだけなんだから。




「何処にいたの万里!」
「夏休みに入ってから、一度だって私の傍にはいないじゃない」
「この匂い、女と一緒だったわねっ、誰?!何処の雌ブタ!」
帰るとまたあれが喚く。
匂い?
「最近ずっと、そんな薄汚い女の匂いを」
最近ずっと?
アレが一人で喚き続けるのは耳に入らない。ただ、匂いは気になった。
自分では解らない。
でも、早久良以外とは誰とも接触してない。
あいつと一日過ごしてから、盛った女共を相手にする馬鹿げた気にはならないからだ。
大体、家に帰ればコレの匂いが充満していて鼻が麻痺する。
ベッタリ触れた手に悪寒が走り振り払って横を素通りすれば、一度息を詰めたアレが言葉じゃない呻き声を上げた。
いつものことだと階段を上ったとき、鋭い痛みを右腕に感じた。
「・・・あ?」
振り向けば、アレは両手に血の付いたナイフを握っている。
また訳の解らないことを叫んでいる。
痛みを追えば、腕からは信じられない量の血が床に零れていた。
ああ、頭がクラクラする。
目の前にいるアレは、何なんだ。
そうまでして人を怒らせたいのか。
この理不尽な、行き所のない憤りが殺気に変わるのは容易い。
今すぐ消してしまいたい。
感情に覆われて、鼻を掠めた薔薇の香り。
「・・・・・・」
理性が保てる内に、万里は腕を押さえて再び家を後にした。

早久良が脳裏に過ぎった。
あの人が微笑んでくれた。

万里は携帯を血で染めながら、己が縋るべき相手へと電話をかけていた。


「病院に行け!!」
夕食に有り付いていた最中の呼び出し、尋常じゃないと知って駆けつけた早久良の第一声だった。
衣服は乾いた血で赤黒く染まり、未だ止まらない出血で今にも倒れそうな青い顔をしている人間を見たら、誰だってそう叫ぶに決まっている。
「来るんじゃなかった」
肩を落として、病院のベッドで眠る万里の傍らで呟く。

『アレに斬り付けられた』
電話越しで万里が言った言葉。
『気でも狂ったんじゃねえ?あぁ、息子に手ぇだしてる時点で可笑しいわな』
クックックッと実に愉快だと笑う万里に苛立って、居場所を聞いた。
『ナニ?助けてくれんの?』
最初からそうさせたくて電話をかけてきた癖に、一々気に入らない。
助けて欲しいと言ってくる癖に、正面から向かえないのだ。
そんな奴が、自分しか頼れる相手が居ないなら、もう仕方ない。
『動かないから、つーか動けないから待ってるわ』
今日は本当にお腹が空いて、少しは贅沢しようと好きな物を買って帰ったのに、何一つ口を付けないまま、早久良は家を飛び出していた。


治療と輸血。
数時間も付き添わされて、やっと万里が目を覚ました。
「刺されたの、お前の所為なんだぜ?」
「はあ?」
「お前、薔薇の香水付けてんの?」
「香水なんて付けないし・・・ん?薔薇・・・」
早久良が心当たりに気付くと、万里はニッと口を歪ませた。
「ここのとこ、ずっと同じ匂いさせて帰るから、女がいるとか何とか叫んでさぁ」
「・・・否定すれば?」
「親に?」
皮肉を込めて聞き返されると、早久良は口籠もるしかできなくなった。
どう考えても、普通の親子でそれが斬り付けられる理由にはならない。
「今回ばっかは流石に殺しかけたわ」
アッサリ言ってのけても、万里が本気なのは解ってしまう。
早久良はゾッとして、万里が目を合わせて無邪気に笑ってきたことに胸を痛めた。
「ゴタゴタ巻き込むのは悪いと思うんだけど、お前しかいないんだよなぁ、俺」
あんなに簡単にセックスする相手はいるのに。
そう言って笑う万里。
本当、一々嫌なところを付いてくれる。
「これから、どうするの?」
「どうするって?」
「家、帰れないでしょ」
「だったら?お前、泊めてくれんの?」
「冗談」
「だろ」
ぶはっと吹き出して、声を上げるたびに揺れる振動で腕に走る痛みに何度も眉を寄せる。
阿呆じゃないかと眺めつつ、早久良はため息で空気を変えた。
「真面目な話」
「ああ」
「休み中は住むところ提供してやるから」
「・・・早久良ん家?」
「他にないでしょ」
「良いのか?」
「良いわけない」
ムッとしながら言い切って、万里が再び吹き出した声に釣られて笑った。
仕方がない。
身内とか関係なく、もう、知らなかったことには出来ない。
昔からお節介な性質だったから、母が亡くなって父と別居してるからって、心に余裕がないからって、元々の性格をどうにかできるわけじゃない。
「明日、退院できるらしいから」
「は?お前、帰んの?」
「こんなとこで、一晩過ごせと?冗談でしょ」
これでも、枕が違うと寝られない主義だから。
帰り支度を整えて、ベッドに身を起こし縋る目をする万里と向き合った。
「迎えに来るから、大人しくしててよ」
途端、不敵な笑みが口元に浮かんだ。
「美人の看護婦ナンパして、楽しみながら待ってるわ」
「・・・どーでもいーから」
好きにしてればいい。
どのみち、万里を切り捨てることは出来ないんだから。




北方宅
未だリハビリ中の父親に頼んで万里を迎えに行ってもらった早久良は、客室を使えるように掃除して、不便のない迎え入れ体勢を整えていた。
「ただいまぁ」
少し間延びした声で、父が帰ってきたと気付く。
キッチンで昼食を作っていた早久良は、そのままの姿で急いで玄関に向かった。
「あ、さっちゃん。ただいま」
何故かいくつもの紙袋を抱えて帰宅した父の姿に些かの疑問を抱きつつ、暑さにやられてふらついた体を支える。
「ありがとう」
寄り掛かられて、父の体が火照っていることに気付く。
「大丈夫?」
「彼が自宅には戻りたくないって言うから、買い物をしてきたんだけれど」
柔らかく微笑する父から荷物の全てを受け取って一度床に置いた。
ふらつき気味で靴を脱ぐ姿を見ながら、数歩後ろにいて立ち止まっている万里に視線をやる。
右腕に包帯を巻いて肩から固定されている様を見ると、昨晩の血だらけを思い出して他人事なのに痛くなる。
「もしかしなくても、これ全部?」
「若い子の洋服は解らなくて色々な店を回ったんだけれど、彼が気に入る物がなかったようでね。どの店でも結局、店員の子が進めてくれた物を買ってきたよ」
家に上がって荷物を抱えようとした父に、早久良は慌てて止めた。
「後で運ぶから、休んでて良いよ」
「さっちゃんに荷物運びはさせられないよ」
「父さん、お昼まだでしょ?作ってあるから先に食べよ?」
「作ってくれたの?そう、ありがとう」
良い子良い子と頭を撫でてくれた父は、真っ直ぐ昼食の用意してあるダイニングへと向かってくれた。
ホッと一息ついて、未だに動かない万里を訝しむ。
「何突っ立ってるの?」
「いや、まあ、色々」
「父が何か迷惑かけた?」
「全然。むしろこっちが迷惑かけた。着替えなんていらなかったんだけど、結局んなにも買わせて、しかも、タクシー移動だからメチャ金使わせたし」
「気にしないで良いよ。お金なんて有り余ってるし、母さんが出来なかったことをしてあげられるのが嬉しいんだろうから」
持ちきれるか解らない量の紙袋をひとつずつ手に持ちながら、感傷に浸りたくないと顔を上げた。
「従兄だって話したのか?」
「でなきゃ、年頃の男と一緒に暮らすなんて許さないでしょ」
「だよな」
「上野も昼食べてないでしょ、用意してあるから」
これには意外だったのか、万里は驚いたように目を開くから肩を竦めて返した。
「居心地悪くなったら別に出てっても良いから」
「出てけって言われても出てかねぇ」
「・・・どうぞ」
やっと万里らしさが出てきたのを見て、早久良は促すように招き入れた。



毎朝目が覚めて、腹が減るからキッチンに入ると必ずテーブルに朝食が並べてある。
誰の姿もなくて、することもないからテレビを見てウトウト眠りについて、目が覚めると腹が減ってる。時間を見れば昼時で、寝惚けながらキッチンに行くと、またテーブルに昼食が並んでる。
しかも、大抵が出来たてで温かい。
でも、家には誰の気配もない。
腹を満たして出歩いて、夜中に帰ってくるとやっと人の気配を感じる。
最初に行くのはキッチンで、いなければリビング。そこも駄目なら自室のある二階に足を踏み入れようとして、後方から殴られるパターンだ。
「二階は立ち入り禁止だって、何回言っても解らない?」
振り向いているのは、眉を寄せている早久良。
同じ屋根の下にいるはずなのに、毎日やっと顔が見られるのがこの時だけ。
早久良の生活リズムを理解できないでいる。
「よ」
「はあ?」
「朝から一度も顔見ないから、挨拶してやってんだよ」
「礼儀を義理でしてもらわなくて良いから。兎に角、階段降りろ」
北方家の不思議はまだあった。
こんな時間だって言うのに、しかも夏休み中なのにだ、制服姿でいる早久良。
一日に一度顔合わせが有ればいい方で、会ったら会ったで私服姿を殆ど拝んでない。
この生活感のなさが既に有り得ない。
階段を下りた万里は、入れ違いに二階へ上がる早久良を呼び止めた。
「風呂手伝って」
一瞬、早久良の眉が寄って、諦めたようなため息に変わる。
「着替えるから、先に入っててよ」
「おー」
北方家の謎はまだある。
父親が滅多に来ないこと。来ないじゃなくて、帰ってこないが的確だけど、最初の日以来彼が姿を見せたのは一度もない。
お陰で、不自由な生活のフォローを早久良がするしかなくて、普段なら絶対断るだろう風呂・着替え等の面倒まで見てくれる。
私的に嬉しいわけだし、根掘り葉掘り聞ける時間もないから実質干渉はしてないけど。



髪を乾かしてもらっている間、暇潰しに聞いてみる。
父親はどうして帰ってこないのかと。
「海外勤務中」
「いつから?この間はいたじゃん」
「母さんが死んでから。久し振りに戻ってきたら事故って入院してたけど、リハビリ終了したし休む暇がないからって」
「って、じゃあ、今日本にもいねぇの?」
大したことじゃないと平然としている早久良に驚きと呆れ。
しかも、一人娘への不安がないのかと暢気型だった父親への信じがたい行為。
どういう家なのだと、また思うところが出来た。


正直、あんまり居心地が良すぎて、アレの存在もすっかり忘れ去っていた。
アレが如何に執念深くて、自分へ執着しているのかを。
だから、馬鹿みたいな話、早久良の変化に気付かなかった。



万里が家へ転がり込んで来て数日。
普段は感じたことのない視線がどこからか向けられてるのに気付いた。
敏感ではないけれど、今ある生活が壊れてしまう恐怖は人一倍強い。
だから、一週間と続くと気のせいでは片付けられなかった。
しかも、荒らされている温室の姿。
不安にかき立てられてもうひとつの場所へ急いだけれど、そちらに被害はなくてホッとした。
見つかっていないのか、セキュリティーの万全さがなせる賜か。
とにかく、これで誰かに付け回されていることに確証を持てたし、相手が敵意を持っていることも解った。
ついでに・・・原因が万里なのも、実は薄々勘付いていた。



「ただいま」
誰も居ないのに告げてしまうのは、既に習慣だから抜けない。
破壊された温室の片付けでいつもよりも一層遅くなってしまったけれど、それを気にかける必要はない。
なかったはず。
階段を上がる万里を見付けるまでは。
「上野!」
「お、今帰りかよ」
それで自分を探していたんだと解る。
未だ不自由の癖に邪魔だと言って固定する布を外してしまった万里の腕からは、うっすらと血を滲ませていた。
こんな風にブラブラして、大人しくも出来ないのだから傷の治りは遅くて当たり前だと思う。
階段を下りようと手すりに掴まって、ようやく痛みと血に気付く辺り救いようがない。
「汚れてるぞ、スカート」
指摘されて汚れを探すと同時に手を回す。
瞬間、間合いを詰めてきた万里にその腕を掴まれた。
「痛いんですけど」
「お前・・・臭い」
クンと側で鼻を鳴らしたかと思えば、不快に寄せられた眉の皺。
「青臭い」
「あ」
「あ?そーゆー相手いたのか、マジで?」
質問には沈黙で返し、今更ながら汚れの正体にゾッとした。
帰り際、いきなり立ち塞がった人間に妙な物体をぶっかけられたけれど、すぐに公園で洗い流したし、まさかそれが精液だったとは。
「・・・お風呂でたら包帯換えるから」
今は兎に角体を洗いたい。
強めの力で万里の腕を外し、早々に浴室へと飛び込んだ。


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