第59話 運命の扉
「ジャン、お前は私の大切な一人息子だ。何があっても父さんはお前を守らなければならない。このフォンティーヌ家の血筋を絶やすわけには行かないのだよ」
フォンティーヌ家の当主、エリック・フォンティーヌは、孤独であった。そもそもの吉兆は妻の死にあったのかもしれない。1年前、流行り病にかかったエリックの父を献身的に看病した妻は、夫と一人息子に病気が移らないようにと、ほとんど一人で父の身の回りの世話をし、最後には自分も同じ病にかかり、この世を去ってしまった。
以来、フォンティーヌ邸からは一切の生活音がなくなってしまった。エリックにとってもジャンにとっても、この二人の死は、受け入れがたいものであったし、もともと物静かで頑固なエリックとまじめで誠実なジャンは、自ら口を開くことはなく、お互いに必要最低限のことしか話をしなかった。
それでもジャンは失ったものを悔やむよりも、これから得るものが多い若者である。対してエリックは、これ以上何かを失うことに耐えられない。おのずと二人は対立するようになっていた。
「父さんは家のことと、ローヴィルの町のことしか頭にない。大切なものだということはわかるけれど、守るばかりじゃ、滅びを受け入れるのとかわらないじゃないか。世界は変わりつつある。いつまでも古いことにとらわれていたら、誰も幸せになんかなれないよ」
ジャンはいつも後悔していた。父親と激しく口論したあと、なんでもっと上手にことを運べないのかと落ち込むばかりだった。父親の気持ちは、ジャンにはよくわかっていた。しかしだからこそ、余計に言わずにはいられなかったのだ。
「疫病が流行ったことも、天候が不良で作物が育たなかったことも、全部背負い込んで、母さんが死んだことまで自分を責めて生きるなんて辛すぎるよ。そんなことをしていたら窮屈でたまらないよ」
魔女狩りが始まってから数日、親子の関係は最悪だった。
「口出しは無用だ。すべて私が責任を取る。お前は私の言うとおりにしておればいい。お前は魔女裁判にも関わらないし、オデットと話をすることなど決して許さん。あのアベルの娘の頼みであってもだ。」
「父さんはまだ、あのことにこだわっているの? クリスの父さんは腕のいい医者だ。病気は教会で祈りをささげるだけじゃ治りやしないよ」
「母さんのことは言うな。この話はもう、おしまいだ。」
その年、疫病は猛威を振るい多くの犠牲者が出た。アベルは病人の治療をするよりも疫病を拡散させないことを優先すべきだとして、感染者を隔離するようにエリックに協力を求めた。エリックはローヴィルの人々を守るために感染の疑いのあるも者は外に出ないよう指示をしたが教会だけは出入りが許された。
凶悪な流行り病に対して人は無力である。人々が神に祈り、神の加護を受けなければ助からないと考えるのは必然であり、教会とは人々の心を救うためにこそ存在する。教会に行くなということは、生きる希望を奪うことに等しかった。
「アベルは正しい。だが、正しさだけでは恐怖におびえる人々を救うことはできない」
「でも、あなた、アベルさんのおっしゃることはもっともですわ。私はこの病気が治るまで教会にはまいりません。そのことを町の人たちに話してくださいまし、そうすれば、考えを改める人も増えることでしょう」
エリックの妻、ヴァネッサはローヴィルの町の中でも信心深いことで知られていた。もはや助からぬ身を、より多くの人を救うために捧げるというのだ。エリックは張り裂けるような思いでヴァネッサの申し出を受け入れた。しかし、その思いはアベルに対する負の感情を育てる結果となってしまった。
「正しさだけで生きられるのならば、この世に神などいらない。人は救いを求める。だから神が必要なのだ。神を信じて生きている者にそれを捨てろというのは死ねというのも同然ではないか」
結果としてヴァネッサの行動は多くの人を救ったのかもしれない。しかし、エリックにとってそれは、慰めにはならなかった。最愛の妻を失い、そのうえ息子までもが魔女狩りに巻き込まれでもしたら、すべてを失ってしまう。その恐怖に耐えうる精神力は、不遇の父には残されていなかった。
「どんなことをしてでも、息子を守る。それができなくで、何のための人生か!」
エリックはどす黒い決意を愛の名のもとに、しっかりとその手に握りしめ、扉の前に立っていた。
運命の扉の前に。