7)
1階のエレベーター・ホールに出ると、サイレンの音がけたたましく鳴り響いていた。救急車とパトカーがマンションの玄関前で停止した。
「なに?私を迎えに来たの?」
私は怯えて達也にしがみついた。
「違うよ。車は地下の駐車場に停めてある」
タンカーを持った救急隊員や警察官が、私たちの目の前を通り過ぎ、2台のエレベーターに乗り込んだ。
エレベーターの階数表示は両方とも10階で停止した。私の住むすぐ下の階だ。
エレベーターの前で立ち止まっていると、達也が言った。
「さあ、行こう」
そして私の腕を強く引いた。
「ちょっと、待って。いったい何があったんだろう・・・」
「急病人でも出たんだろう」
「それにしたって変じゃない?パトカーまで来てるんだから」
「ぼくたちには関係ないよ。さあ、急ごう」
達也は掴んだ腕を強く引っ張り、出口の方へ誘導した。
「いたいよ。やめて!私見てくる」
私は達也の腕を振り払い、エレベーターのボタンを押した。
「君の精神状態にはよくないよ」
「大丈夫よ。あたしひとりで見てくるから、達也、車の中で待ってて」
達也は両手を広げ、観念した仕草をした。
「仕方ない。一緒に行くよ」
私たちはまたエレベーターに乗り10階まで上がった。
エレベーターの扉が開くと、すでに住人の人だかりができていた。私たちはその中に混じり、ドアの開けられた部屋を眺めた。
マスクの男の部屋だった。
中から騒がしい気配が伝わってくる。
暫くすると部屋の中から救急隊員がひとり出てきて、大声で叫んだ。
「はい、どいてください。今からタンカーが出ますから搬送の邪魔になります」
それでも住人たちは部屋に戻る様子もなく、廊下の端によけて興味深そうに様子を伺っている。
中から、タンカーが運び出された。白いシーツが被せてあるので様子は見えないが、シーツの下から衣類の端が少しはみ出している。縞模様のシャツは真っ赤に染まっていた。
「ナオトーッ!死なないでえ、死なないでよう・・・」
警官に支えられた60代前後の女が、タンカーの脇で泣き崩れている。
私は達也と顔を見合わせた。
身体がガクガク震えた。
「行こう・・・」
達也が私の手を握り締めて言った。
「いやだ、いやだ。やっぱり病院はいやだ」
達也に急かされて車に乗り込んだ途端、私は言いようのない恐怖感に襲われた。いったい何がどうなっているのか。考えれば考えるほど頭が混乱してくる。頭に輪を嵌められ、締め付けられるような鈍痛を感じた。
「大丈夫だよ。君は何も心配することはない。ぼくが付いているからね」
達也は冷静な口調で言った。
「それでも、いやなの。私帰る。帰りたい」
「何をいうんだ。大丈夫って言っただろ」
ドアを開けて外に出ようとしたが、自動ロックが掛けられた。
「いやだ。開けて、お願い開けてよ!」
私は内側からドアをドンドン叩いた」
「いったい、どうしたっていうんだよ?」
達也が強い力で私の腕を掴んだ。
「いや。離して!」
突然、右腕に激しい痛みを感じた。見ると注射針が腕に刺さっていた。
「な、何するの?」
「君が言うこと聞かないから・・・」
意識がまどろんだ。
頭の中が真っ白になった。
突然、真っ赤な血飛沫が目の前に広がった。太った男の頭から血がだらだらと流れだしている。
私の両手にはガラスの花瓶が握られている。花瓶の先は割れ、割れたガラスの破片が血だらけの頭に刺さっている。
男の身体はガクンと揺れ、ゆっくりと斜めに傾き、そのまま床に倒れ込んだ。像のような巨体が床の上でバウンドした。
血液が床の上で波紋のように広がった。
よし子ちゃん、目玉を大きく見開いて、私の前から逃げて行った。いつも穏やかな丹羽さんが、ガタガタ震えだし逃げて行った。周りの人たちも皆、遠巻きにして私を見ている。みんな恐ろしいものでも見るように。
アハハハハハハ・・・・
なんて、すっきりした清々しい気分なんだろう。私は皆の見ている前で大声で笑ってやった。
ベチャベチャベチャベチャ喰ってばかりいる、この脂ぎった醜い化け物を私は遂にやっつける事が出来たんだから。
こいつの頭の中には、喰うこととやることしかないんだ。貪欲で下卑た眼でいつも私を見ていた。そんなに驚いた顔して、本当は皆だって嬉しいに違いない。
ナオト・・・ナオトが死んだ
ナオトを殺したのは・・・・
「ナオトを殺ったのお前だろ。わかってんだよ。ナオト、お前と同じ病院で働いてたんだ。あたし全部知ってるよ。お前の犯した罪、ナオトにおっ被せて、そんで、ヤバそうになったから証拠隠滅のため殺しちゃったんだろ?今度は犯人あたしに仕立てて・・・」
頭の中に重たい雲がかかってくる。視界が狭まってくる。
「何言ってんだよ、杏奈。君はおかしな事をいうよ。それもすべて君の妄想さ」
「人殺し・・・」
「杏奈・・・愛してるよ。ぼくは君から離れない」
達也は唇の端に笑みを浮かべて言った。
「杏奈?私の名前は香奈だよ・・・」
重たく垂れ込めた雲がだんだんと低くなってくる。雲の塊はやがて私を包み込み、意識が遠のいていった。
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