3)
「こんな時間にいったい誰だろう・・・」
私は恐ろしくなって、ベッドにもぐり込んだ。
ピンポーン♪ ピンポーン♪
インターフォンは何度も鳴らされた。
いやだ、いやだ、いやだ・・・私はベッドに潜り込み、毛布を被って震えた。
ピンポーン♪ ピンポーン♪ ピンポーン♪ ピンポーン♪
しかし、あまり執拗に鳴りつづけたので、ついには根負けしベッドから抜け出なければならなかった。
足音を立てずに玄関まで行き、ドアの覗き穴から外を覗いた。見覚えのある男だった。下の階に住む、私の部屋の真下の住人だった。
男とは引っ越してきた際に挨拶に行ったきり、話したことはない。30才半ばくらいだろうか、ガリガリにやせ細った神経質そうな男だった。
エレベーターでたまにすれ違うこともあったが、いつもマスクをして陰気な印象しかない。
こんな時間にいったいなんの用だっていうのだろう。このままでは、いつまで鳴らされるかもわからないので、とりあえずインターフォンに出た。
「はい・・・」
「あ、夜分遅くにすいません。いつも昼間お留守みたいなんで・・・。さっき物音がしたので帰ってると思って、ほんと夜分に申し訳ないんですけど、町内会費をお願いしに来たんです」
男は言った。その口調に不信感は感じられなかったので、私は安易にドアを開けた。
「すいませんねえ。こんな夜遅くに・・・今年は当番なんです」
「ああ、じゃ今持ってきます」
私は部屋の奥から財布を持ち出し、男の前に持っていった。
「おいくらでしたっけ?」
「半年分で3千円です」
「じゃ、お願いします」
「いつも、昼間はいらっしゃらないんですよね」
男はお金を受け取り、領収書に名前を書きながら言った。
「ええ・・・」
「ははは・・・普通そうですよね」
「ええ、まあ」
「僕の場合は逆だから・・・」
「えっ?」
「病院勤務ですから」
「先生?」
「いやぁ、看護士です。と言いますか今は退職しちゃってますけどね」
「大変なお仕事ですよね」
「仕事は苦じゃなかったんです。医療ミスの責任かぶせられちゃって、辞職に追い込まれたんですよ」
「ええっ?ひどい。それって・・・泣き寝入りってこと?」
「まあ、最初はね。奴らは組織ぐるみでかかってきますから。でも、時間が経つに連れて、納得行かなくなって・・・。今、訴訟を起こそうかと弁護士に相談しているところなんです」
「そ、そうなんですか?」
「うつ病の自殺未遂の患者を医療ミスで殺してしまったんだ・・・当時私は外科勤務でしたから、患者に医師の指示通りの投薬を施しただけだったのに、ぜんぶ僕のせいにされて・・・」
男はペンを領収書に立てて、顔を歪めた。
あまり深く関わらない方がよさそうだったので、私は言った。
「あ、あの・・・もう、遅いので失礼させてもらっていいですか?」
「あっ、すいません。じゃ、これ領収書。じゃ失礼します」
男はそう言って、すんなりと帰って行った。
玄関のドアを閉め、鍵を掛け、ほっとひと息ついた。極度の疲労感に襲われた。もう何を考える気力もなかった。私はそのままベッドに倒れ込み、深い眠りに落ちた。
朝、目が覚めた。
部屋の中、床の上は、衣類や空き箱などが散乱して、手の施しようが、なかった。
頭がガンガンして目眩がした。身体が熱っぽい。昨夜の右腕の痣が赤く腫れ、水膨れになっていた。このせいに違いない。
私は会社に電話をし、具合が悪いので病院に寄ってくると伝えた。
「無理してこなくてもいいんだよ」
課長が電話口に出てきて、口をもごもごさせながら言った。
「仕事が間に合わないので、休むわけには行かないんです」
「じゃ、来る途中、中野のぽんちゃんで鯛焼きを3個買ってきてくれないかい?あすこのは、尻尾まであんこがたっぷり入って旨いんだよ。皮もパリパリしていていい。あっ、君も食べるなら好きなだけ買っておいで。並ぶかもしれないがよろしく頼むよ」
私は返事をせず電話を切った。
それから私は出かける準備をして、達也の所へ寄った。部屋の中は片付けて行かなかった。どうせ帰ってきたらきれいに片付いているのだ。
達也に、ここ数日間に起こった、ありえる筈がない様々なこと。カエルに張り付かれて腕が腫れたことなどを話した。
カエルを潰した事は話さなかった。
「ばい菌が入ったんだろう。消毒して抗生物質を出しておくよ」
達也は精神科医でもあり、私の恋人でもある。達也は話しを聞いても驚く様子もなく、カルテにスラスラ何かを書き込んでいる。
「ねえ、もっと驚いてよ。私の知らない間に私以外の誰かが家の中に侵入して、部屋中を掻き回しているのよ」
「君にはいつも驚かされているからね。もう、大抵の事では驚かないよ。部屋は片付いているんだし、物も盗られていないと言う事だし・・・」
「そんな・・・。黙って人の家に入ること自体が犯罪行為でしょ?」
「でも、鍵はしっかり閉めてあるんだろ?」
「だから、怖いのよ」
「ははは、霊の仕業だとでも言うのかい?」
「カエルかも?」
「カエル?いきなりだなあ」
「うん。私が潰したカエルたち。そうだ!やつらの復讐に違いない。いやーん怖い。カエルの復習よ」
私はうっかり口を滑らせてしまった。案の定、達也は驚いた顔で私を見た。
「潰した?復讐?カエルの?」
「うん、あの・・・」
「ゆっくりでいいから、全部話してごらん」
「あ、あの・・・裏の、紫陽花公園の草叢から、どんどん這い出してくるの。私の足元にいっぱい、うろうろ纏わりついて気持ち悪いもんだから、潰しちゃったの。お腹潰れると赤い内臓がグシャッとび出してくるんだよ。最初は気持ち悪かったけど、何度かやっていく内に、潰したときのグッシャっていうあの感触がたまらなくなって。ふふふ・・・達也もやってみる?」
「ああ、今度行ったとき試してみるよ。しかし、そのカエルたちの復讐ということはありえない」
達也は更に、カルテに何か書き込みながら言った。
「じゃ、なんで11階の私のベランダにカエルがいたの?通常ならありえない。11階迄よじ昇って来たって言うの?それともひとりでエレベーターに乗って11階のボタンを押して昇って来たって言うの?」
「有り得ないとも言えないね」
「じゃ、この痣はなんなの?」
「だから、細菌感染。もしくは毒素によるアレルギー反応だよ。皮膚から毒を分泌するカエルだっているからね。どこかで飼ってたカエルが、逃げ出してきたとも考えられる。気をつけないと・・・」
「じゃ、私の留守中に私の部屋に侵入し、片付けをしているのは誰なの?」
「うーん、それは何とも言えないが、あまり気にしない方がいいだろう」
「そ、そんなあ・・・。達也、冷静すぎる。自分に関係ないことはどうでもいいって言うの?」
「そう言うわけではないけれど・・・」
「あっ!あいつだ・・・」
「ん?何・・・」
「下の階に住んでる、マスクの男」
「マスクの男?」
「うん。たまにしか会わないんだけど、いつもマスクをしてる陰気な感じの男」
「何かされたのかい?」
「別に。ただ、昨日の夜中に町内会費集めにきたの」
「夜中に?」
「昼間いつもいないからって。部屋の物音が聞こえたからって言ってたけど、あの男・・・、ワザと様子を伺いに来たのかもしれない。犯人はあの男かも?第一町内会費の収集だなんて言うのもウソっぽい。毎年ポストに請求書が入っていたけど、今まで一度も払ったなかったし・・・」
「うーん、それはなんとも言えないけど、調べればすぐにわかることだろう」
「私、恐くて仕方がないの。警察に届け出た方がいいのかなあ・・・」
「そ、それは、もうちょっと待った方がいいと思う。とにかく明日行くから、調べてあげるよ。抗生物質と軟膏出しとくから薬局寄ってって」
「うん。わかった・・・。じゃ、明日は絶対来てね」
私は達也に念を押し、診察室を出た。
薬局はひどく混んでいた。抗生物質と塗り薬といつもの薬をもらうと、もう6時を過ぎていた。
明日は決算締切日だ。今日中に仕上げなければならない仕事が、山ほどあった。
会社に行くと、課長がひとり残っていた。自分の席で夕食を摂っていた。
「あれ?来たの?無理して来なくったてよかったのに」
課長は、大きな鰻を頬張って言った。
私はそれには答えず、机に付き課長の弁当を覗き込んだ。
「いやあ、旨いよこの鰻弁当は。笹家の鰻は肉厚で脂がたっぷりのっているから旨いんだ。そこのスーパーで、駅弁祭りをやっていたんだ。閉店間際で、オール半額だったから、ほれ、だるま弁当も。それから鱒寿司と、豚カツ弁当、北海道海鮮丼も買ってきたよ。あ、よかったら君これ食べないかい?」
課長は私に赤いだるま弁当を差し出した。
「結構です」
「なんだい、冷たい奴だなあ。あ、君、それから鯛焼きは買えたのかい?」
「行列が2キロほど続いていたのでやめました」
「そっかあ・・・。残念だな」
課長は肩を落として、本当に残念そうな顔をした。
「カロリーオーバーなんじゃないんですかあ?出来合いの揚げ物なんて古い脂たっぷり染み込んでますからね。身体に毒ですよ。こないだの検査でコレステロール値高かっんだから、自殺行為でしょ。それに脂ギトギトの酢豚にマカロニサラダまで買ってきて。そんなもんカロリーばかり高くて栄養価なしなんですよ。だからそんなに脂ぎってるんですよ。気持ちが悪い。まるでガマ蛙みたい・・・・」
「グゲッ…」
123キロの巨漢が喉を詰まらせた。背中を丸めて、咳込み額から脂汗を垂らした。
グシャッ・・・
いやな音がした。
「あはははは・・・・」
私は面白くなって、踏み潰した。
何匹も、何匹も、てらてらと脂ぎった茶色いまだら模様の皮膚をした生き物が、草叢から次々と這い出してくる。
それでもかわいそうなので、はらわたを引きずり、逃げて行くカエルを追うような、残酷な事はもうしなかった。瀕死の状態で留めてやった。
草叢の中を見渡すと、無数のカエルが茶色い枯草の中で、のた打ち回っていた。
沈丁花の艶かしい薫りに誘われ、せっかく永い眠りから目覚め、交わう相手を探そうと、浮かれ気分で這い出してきたというのに。
ああ、なんて、かわいそうなカエルさんたち。
家に戻ると、予想通り部屋の中は、きれいに片付けられていた。
玄関もテーブルの上も、トイレもバスタブも、気になっていた排水溝に溜まった髪の毛も処分されていた。
明日は達也が来る。もう、何もする必要はない。
玄関から、血生臭い匂いが漂ってきた。見るとブーツの底が血だらけだった。鏡の前に立つと、着ていたコートの裾にも沢山の血が飛び散っていた。
私は風呂場でブーツを洗い、コートは洗濯機に放り込んだ。
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