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Insanity (狂気の沙汰)
作:絵爾久万



1)


「杏奈・・・」
 誰かが私の名を呼んだような気がした。

 携帯のアラーム音と同時に眼が覚めた。
 なんで朝は、こうも毎日慌ただしいのだろう。
 30分早く起きればニュースを見ながら、ゆとりを持って朝食を摂ることができる。
 トーストにベーコン・エッグ、ミモザ・サラダにグレープフルーツを添えて、コーヒーを飲み、デザートにヨーグルトを食べることだってできるだろう。

 汚れた食器を洗って出れば、帰りだって気持ちよく家に帰って来ることもできる。念入りに化粧をし、ゆとりを持って職場に入れば、きっと一日も楽しく優雅に過ぎていく事だろう。
 
 30分早く起きる。携帯のアラームを30分早くセットすればいいだけ。簡単なことだ。しかし、そんな簡単なことができない。

 ひとりの夜は誘惑が多すぎる。どんなに遅く帰って来たって、どんなに早く帰って来たって同じこと。
 音楽聴いたり、本を読んだり、連続テレビドラマを見たり。パソコンの電源を入れたら最後、時空迷路に迷い込み。気が付けば日付が替わっている。

 結局朝はぎりぎりに起きて、トーストをコーヒーで流し込み、歯ブラシくわえながら、ニュースを見て、口をすすぐと同時に顔を洗い、着替えが済んだら鏡に向かい、化粧水塗ったら、美容液。
 化粧下地の上に素早くファンデーションを塗り、頬紅、眉、シャドウを入れていく。そうやって熟練した手つきで、毎日毎日同じ作業を繰り返して行く。まるでくだらないゲームだ。無意味だ。しかし、これは武装だ。武装をしなければ危険だ。

・・・・などど、考えながらテレビを見ると
 時刻表示は・・・7:47
 あと10秒で口紅塗って、50秒でマスカラ塗って、30秒でコート着て、20秒でマフラー巻いて、30秒でipodセットして、40秒で戸締りして、7時50分には家を出なければタイムアウトだ。


 そんな訳で、第一ステージを上手くクリアーしバスに乗った。私は釣り革につかまって溜息をついた。
 そうだ、週末は達也が来るんだ。掃除しなきゃ。部屋の中がぐっちゃぐちゃだ。だけど、年度末だから、ここんとこ毎日残業続き。
 家政婦でも雇おうかな…。そんな身分じゃない。

 しかし、駅に着くと次の難関が待ち構えていた。
 ホームの上は人でごった返し、今にもホームから人が溢れ出さんばかりだった。
「お急ぎのところ、大変申し訳ございません。ただ今、吉祥寺駅構内で発生した人身事故により、電車は運転を見合わせております。詳しい情報が入り次第またご案内いたします。尚、小川駅から私鉄、またバスで振り替え輸送も行っております。お急ぎの方はお乗換えください」

――またか・・・。
 
 人身事故って事は飛び込みか?最近頻発し過ぎだ。
 今週の月曜日も人身事故があったばかり。たしか先週の水曜日も人身事故で遅刻した。

 電車の中でいつ動くのか、じっと待つのは苦痛だ。だからと言って遠回りして、振り替えの電車に乗り替えれば、乗り換えた途端に反対側のホームでは、遅れていた電車が先にシュッパーッツ!!!
 なんていう最悪の事態も起こりえる。
 そんな時は、爆弾仕掛けて電車ごとぶっ飛ばしてやりたい気持ちになるが、聡明な私はそんな野蛮な事はしない。新宿駅西口右から3番目改札強行突破だ。
 私は今日は、乗り換えずに待つほうを選択した。

 しかし、いくら世知辛い世の中だからって、そんなに人は電車に飛び込むものだろうか。そういうニュースもあまり耳にしない。
 第一こんなに頻繁に人身事故が起きているというのに、実際その現場を目撃したことは未だ嘗て一度もない。
 本当に人身事故は起きているのだろうか。血肉滴る生々しい場面には、未だ嘗て出会ったことはない。

 あやしいものだ。運転手が途中下車して、用を足しているのではないだろうか。こんなに頻繁に起こっているのだから疑わざるをえない。
 何万人もの無実な乗客の足を乱して、振り替えだけでは済まないだろう。現金を返してください。それができないなら運転席に便器を付けるくらいの配慮はして欲しい。


 結局、その日の作戦は裏目にでた。電車はそのまま2時間不通となり、私は車内で2時間待ち続けなければならなかった。
 会社に着いたのは、お昼前だった。

「すいません。人身事故で電車が遅れてしまって」
 私は佐藤課長の所へ挨拶に行った。
「あれ?そうだった?いなかった?気が付かなかったなあ。無理しなくていいんだよ・・・」
 課長は机の上に、昼食の弁当を広げながら言った。課長の意識はもう、机の上の弁当にしかなかった。

「いやあ、久々に今日はトンカツ弁当だ。あさがおのトンカツは旨いがご飯が若干少ないので、今日は牛丼弁当付きだ。もちろん野菜も食べなきゃいかんから、丹羽くんにマカロニサラダも買ってきてもらったよ」
「野菜というよりは、炭水化物や脂肪分が多いのでは・・・」
「ちょっと、君悪いが冷蔵庫の中からトンカツソース取ってきてくれないかい?おれ専用の大きいサイズの奴が入ってるから。ブルドックの。あ、名前書いてある。ついでに悪いが自販機でコーラも買ってきてもらえるかい?良かったら君にもジュースを一本奢ろう」
 課長は私に、五百円硬貨を差し出した。

「お断りします。私は忙しいんです。今日は決算処理しなければなりませんから、失礼します」
 私はそう言って部長の前から立ち去った。
「冷たい奴だなあ・・・。おうーい丹羽くん。ソース持ってきてくれーい!」
 部長は弁当の蓋を開け、よだれを垂らしながら言った。

――あれだから丹羽さんは、みんなの苦労を背負って生きていかなきゃならないんだ。もっと自分のために生きるべきなんだ。

 と私は思った。
 
 その日は残業し、家の前のバス亭にたどり着いたときは9時を過ぎていた。
 自宅近くの紫陽花公園の中を通りかかったら、草叢から沢山のカエルが這い出して来た。

 もう、春なんだ。
 長い眠りから覚めたカエルたちは、緩慢な動作で移動していた。
 朝のニュースで、アナウンサーが今日は啓蟄だと言っていた。
 どのカエルも喉をクックックックッと鳴らし、然もやりたそうな顔をして地面に這いつくばっている。
 私は足元の貪欲な顔をしたカエルを一匹踏み潰した。

 グシャッ・・・といやな音がした。腹が潰れ、黒褐色の内臓がはみ出した。靴の裏側に付いた血と肉片を枯れ草で擦って落とした。
 葉陰に隠れていたカエルが、上目遣いに私を睨んだ。そいつの顔も更に下品で貪欲だった。
 その後、また4匹のカエルを踏み潰した。最後の一番大きな奴はしぶとくて、内臓はみ出しながらも死なずに草叢の中に逃げ込んで行った。

 私は追いかけて行って、止めの一撃を喰らわした。

「あはははははは・・・・・」
 なんだか楽しくなって笑いがこみ上げて来た。

 そんな訳で、その日家に帰り着いたのは、11時近かった。
 玄関のドアの前に立つと、今朝の部屋の情景が一瞬にしてよみがえった。
 うんざりだった。

 週末は達也が来るんだ。
 毎日少しずつでも片付けておかないと、ブタ小屋の中で達也とセックスする羽目に成り兼ねない。
 いや、それはありえない。達也はきれい好きだから。神経質な位に、いや、病的なくらいに。

 食器は使用前には必ず熱湯消毒、タオル類は滅菌漂白。食べこぼしだらけのカーペットは、ダニの住家だといってはがされた。
 テレビや照明器具の上に積もった埃は、アレルギーの元だと拭いてまわる。トイレの便座カバーは糞尿の飛沫がかかるからと、はずされた。使用後は毎回エタノール消毒だ。

 付き合って3ヶ月。肉体関係結ぶ前に、AIDS、梅毒、クラミジア、ウィルス性肝炎の検査を勧められ、検査結果の証明書を提示して初めてベッドインした。

 はぁ・・・・。私はため息を吐き、鍵を開けた。
 玄関には、脱ぎ捨てられたブーツやパンプスが散らばっている。いつもなら気にも止めないが、客観的に見れば複数の人間が住んでいるみたいだ。

 ブーツを脱ぎ捨て、玄関からキッチンを通過し、部屋に入った。なんだかいつもと様子が違った。
 左側にベッド、右角にテレビ。前面の壁にはラック。本や雑誌、旅行先で買った土産物の置物などが並べられている。

 部屋の中央には楕円形のテーブル。
 私はテーブルの上を見て驚いた。まったく、きれいに片付いているのだ。
 朝、家を出るとき、この上にはマスカラやビューラー、その他化粧品の類、トーストの食べカスや、飲みかけのコーヒーカップが無秩序に散乱していた。

 食器類は見当たらず、化粧品の類はラックに全てしまい込んである。キッチンのシンクの中を見ると、溜まっていた3日分の食器類が全てきれいに洗われ、水きり棚の上に載せてあった。

「そ、そんな、ばかな。いったい誰が・・・」

 今朝の記憶を辿ってみる。
 秒読みで化粧を終え、全てやりっ放しで、出て来たはずだ。
 私は部屋の中を隅から隅まで見回した。人の出入り出来る入口は玄関とベランダの窓だけ。玄関は鍵がしまっていた。

 窓も内側から鍵がしまっている。入れるはずがない。
 部屋の中は荒らされた形跡はない。何も取られていない。もっとも金めの物はなに一つない。
 週末は達也がくる。気になっていたから私が片付けたのだろうか。
 まさか・・・全く記憶がない。



 すると、突然、背中を何者かに触られた。
「うわっ!!」
 自然と身体が跳ね上がった。心臓が破裂しそうだった。

 恐る恐る後ろを振り返った。

 積み重ねられた通販の空箱が崩れてきたのだ。いつかこうなるだろうとは予測していた。
 しかし、よりによってこんな非常時に。。。

 私は無性に腹が立って崩れかけの空き箱の山を蹴飛ばした。
 箱の山が雪崩れのように崩れてきた。

 疲れていた。

 もう何を考える気力もなかった。疲れているんだ。
 きっと、思い過ごしに違いない。自分でやった事を忘れているんだ。達也が来るからって、急いでやったのだろう。そうに違いない。
 私はそのままシャワーを浴び、ベッドにもぐり込んだ。















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