『今の文芸にはSFが必要だ』
[SFコラムコンテスト【yourSFスピンオフ企画1】参加作品]
タイトルからして刺激的で、何かをやらかしてくれそうな予感を持たれた方が多く居ることだろうけれども、その期待に応えられるコラムであるかかどうかは判らない。
また、このタイトルから想像されるであろう内容を語れるかどうかもはなはだ不確定であり未知数でもある。
そして、最初の段階で「一介のアマチュア物書きが語れることには限界がある」ということも正直に吐露しておこう。
まずは『今の文芸にはSFが必要だ』の言葉をどこから仕入れたか。その情報源を公開しておこう。
二○一三年一月十八日に収録された、ジュンク堂のトークセッション『塩澤 快浩(早川書房編集者)×小浜 徹也(東京創元社編集者)×岡和田 晃(SF評論家)・まだ間に合う「ハヤカワSFコンテスト」』という、YouTubeにアップロードされた動画の中で語られているのである。
もっと詳しく説明すると、動画再生時間の一時間十二分三十五秒くらいから東京創元社編集者の小浜徹也氏が語っている部分で、以下のように発言している。
「桐野夏生さんが『今の文芸にはSFが必要だ』とコメントしている」
この部分がこの動画のもっとも重要な部分とは言えないだろうし、また動画の内容がこのSFコラムに直接的に関与する訳でもない。単に僕がこのコラムを書くために、この部分のこの言葉を象徴的にピックアップしただけのことだ。
この動画を視聴したい場合には、YouTubeのチャンネル「junkuTV」の『塩澤快浩×小浜徹也×岡和田晃 まだ間に合う「ハヤカワSFコンテスト」』で検索して欲しい。
もう一つ、それに関連させたい情報を公開したい。
それは、カラパイアの二○一四年五月十三日に掲載された『SF小説が予言した未来の科学技術が実現したケースを時系列で見ることができるイラスト図』である。
このイラスト図に付けられた『予言? それとも 影響? 未来を予想していた本の歴史』が俊逸だ。「アーサー・C・クラークの三原則」の三つ目であるところの『充分に発達した科学技術は魔法と見分けが付かない』を如実に表現している、そんな印象の年表である。
このサイトを閲覧したい場合には、「カラパイヤ」の『SF小説が予言した未来の科学技術が実現したケースを時系列で見ることができるイラスト図』で検索して欲しい。
日本での象徴的なエピソードを取り上げるとすると、ウルトラマンシリーズで腕時計端末で映像を交えて会話をする「魔法」が、今現在では携帯電話でテレビ会話が出来るようになったことが挙げられよう。少々料金が高いことと電波の状態で左右されて不安定であること、個人的なテレビ会話にまだ必須性がないところが玉に瑕であろう。
この二つの情報から何が言いたいのか?
SFはもう我々の身近に厳然と存在しているということだ。いや、生活の中に入り込み、生活の枠組にシッカリと組み込まれ、「SFがない」という状況が想像できないという事実に我々の存在が陥っているのではないかと考えられるのだ。
それは「『科学技術』のことなのでは?」と思われるかもしれないが、そうではない。充分に発達した科学技術をどう使うかはソフトウエア(運用)の問題である。その「ソフトウエア(運用)」を縦横無尽にSFが、創造、発案、設定、稼働、補助、補足をしているのだと考えられる訳だ。そういった想像力を掻き立ててくれる技術は魔法とすら呼ばれるのであろう。しかし、使い方すら思い付かない技術は単なる技術であって、それは廃れていくに違いない。
要するに『既にSFは我々を牛耳っている』ということだ。
先程の年表を参照されれば判るだろう。
それは少なくとも百五十年前から始まっていたのだ。我々はSFというガジェットで、魔法という科学技術を手に入れてきたし、これからも手に入れるだろうことを。
そして、考えてみてくれ。
初めての国産テレビアニメとして『鉄腕アトム』が放映されてから半世紀を過ぎた。アトムが現在の日本のロボット技術力に貢献したことは言うに及ばず、過去に魔法と呼ばれていた科学技術と切り離せない数々の事柄を、実生活の中で我々はそうだと意識せずに使い過ごしていることを。
更にそれは芸術の世界にも言えることだろうと推測される。
そこで振り返って「タイトル」である。
およそ現代にあふれている「小説」と名の付くモノには必ず、いくつかの科学技術が描かれている。それはSFを通しての「近未来への想い」と言い換えることが出来るだろう。だからと言ってそれだけでSFだなどと主張するつもりは全くない。SFによって、時代が移行し人々の営みが変遷してきただけに過ぎないのだから。
人間の機微が人間だけの要素で語られる時代ではなくなりつつあるのかもしれないこと、人間以外のモノや形にならないモノの要素が人間の機微に関与し始めているのかもしれないこと、この二つを自覚したい。
それが「SF」なのではないだろうか。
そんな気がするのだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。