Chapter 1 episode: Awaken 1
田舎町の夜は静かで、外で何かが動く様子はまるでなく、今日は風さえも止まったままだ。
未だこころの動揺を隠せない男がひとり、軒先の灯りの下、身支度を整えていた。
「――よし」
上には念のため制服を着ているが、下は〔いつもの〕〈戦闘服〉を着込んでいた。
愛刀の入った〈剣袋〉を持ち上げて肩に担いだとき、背後に人の気配を感じた。
「蓮くん、これから出掛けるのか」
「はい、どうしても気になることがあるので」
「それにしても物々しいな。〝ハンター〟としての仕事か」
「まあ、そんなところです」
剣を担ぎ直した蓮は、その表情をすぐに恨みがましいものに変えた。
「ところで老師、なんであの女……美柚のことを先に言ってくれなかったのです?」
まさか、まさか、同じ屋根の下で住むことになろうとは。
しかも、あんなニアミスを……
「言っていたら、どうした?」
「それは、他の住む場所を探して――」
「それだ」
「は?」
「そうやってきっと断るだろうと思って、あえて黙っておいた」
「…………」
一理あるような気がしないでもないが、どうにも釈然としない。相手が美柚だったという偶然が許せなかった。
「いいではないか、蓮くん。さっそく役得があったろう?」
「どこか役得ですか! まさか、あんな、その……不愉快です!」
「そんなこと言って、本当はきちんと脳内にプリントしたんだろう? うん?」
「い、いや、何を……!」
忘れろと言われたって忘れられない。
正直な自分が心中で叫んだ。あの美しい光景は目に焼き付いてしまい、消えてくれそうにない。
「あれは事故ですっ!」
「いや、それが違うんだ」
「はい?」
「私が仕組んだ」
「…………はい?」
「あれは、わざとああしたんだ。よかれと思って」
「よくありません!」
「いいではないか、ああいうことは若いうちの特権だ」
「も、もう行きます」
余計に話が変な方向へ行きそうで、蓮はさっと背を向けて歩きだした。
「無理はするなよ、蓮くん。今は霊力が封じられておるのだろう。〝奴〟も酷なことをする」
「いえ、きっと師匠にも考えがあるのです。この状態でやれるだけやってみます」
改めて老師こと鈴木 源流に一言挨拶をしてから、目的地へ向かった。
――もう一度、学校へ行く。
あそこに何かがあることは間違いない。白鳳高校だけではなく、学園タウン全体がそうだ。
――初日からあれだからな。
ことが大事になる前に探っておきたかった。
無意識のうちに足音を立てないように走り、静かな夜道を進んでいく。
学園タウンまではあっという間だった。
――眠ってる気配は――ない。
予想どおりだ。無数の霊気のうごめく波動を肌で感じる。
問題は、それらが巨大な結界内で動いていることだった。
――いったい、どうやって。
自分も中に入れたことからして、他にも何か方法はあるのだろう。
その結界の境界にいつもの足取りで近づいていく。
――見える、な。
昼間とは異なり、結界そのものがはっきりと認識できる。
あのときはすんなりと通り抜けることができたが、今回も同じだという保証はどこにもない。
またしても緊張が走る。その輝きさえ見える結界が、こちらを拒んでいるような気がした。
結界の境界にそっと触れると、かすかな衝撃があった。嫌な予感が頭をよぎり、思わず一歩引いてしまいそうになるが、みずからを奮い立たせてこらえた。
一歩、二歩と慎重に進んでいくと、やがて何ごともなくすぐ完全に結界を抜けた。
しかし、昼のときとは明らかに様子が違った。あのときはまるで抵抗感がなかったというのに。
――眼鏡の効果が弱まってる?
それとも、結界が強くなったのだろうか。今の段階では、理由はまだ判然としない。
考えるのはあとにして、急ぎ中心部へ向かった。時間が時間だ、学校の関係者に見つかると厄介だった。
――にしても。
学園内の状況は異様だ。見上げると、上空では霊的な存在が飛び交っている。人型のものから異形のものまで、種々雑多な〝彼岸の花〟が暴れ乱れる。
なるほど、と思いつつ、歩を進めた。ここは、まぎれもなく〝あやかし〟の地ではあるようだ。
なぜ、という問いは、意味をなさない。初めから〔このような場所〕であることはわかっていた。
周囲のあやかしにこちらを襲いくる様子もない。
とりあえず寮のほうへ向かうことにした。この時間帯に何かが起きるとしたら、誰もいない校舎よりも人の多くいるそちらのほうだろう。
まるでマンションかホテルのように無数の灯りが〈点〉いている。夜とはいっても、まだ時間は浅い。起きている生徒が大半のようだ。
ふと足を止めたのは、手近な寮の出入り口に近づいた頃だった。
「――――」
前方に気配を感じた。
肩から剣袋を下ろし、いつでも抜けるよう両手で持つ。
――近い。
今まで気づけなかったことに舌打ちする。眼鏡の影響か、やはり感覚が鈍いままであることには変わりがないようだ。
――どっちだ。
こちらに接近していることはわかるのだが、その方向が判然としない。
そうこうしているうちに、どんどんと互いの距離は狭まっていく。
――どっちだ!?
焦りばかりがつのり、霊感を余計に混乱させる。
やがて、気配の塊はすぐそこまで来た。
「蓮さん」
「!?」
背後からかけられた声は、聞き覚えのあるものだった。
振り返ると、和服姿の女がいた。
「京香……か?」
「お久しぶり、蓮さん」
目の前で静かに微笑むのは、幼なじみの二条 京香だった。艶やかな黒髪と白い肌が、着物とよく似合っている。
「そうか、お前もここの学校だったのか」
「ええ、蓮さんとは違う学校ですけど」
「俺のこと、知ってたのか?」
「はい。なんとなく、すぐ会えるんじゃないかと思ってました」
京香の顔を見ていると、なごむ。今日という一日が凄絶であっただけに、こころが洗われる気分とはこのことだ。
こういった女性こそが真の女性だと心底思う。他はみんな、女以外の生き物、そう、たとえるなら人外の存在だ。
「しかし、なんでこんな時間に女ひとりで出歩いている? 不用心だぞ」
「ふふ、心配してくださってありがとうございます。でも、大丈夫。私も、あやかしの端くれですので」
「まあ、そうだが……」
見た目とは裏腹に、ほとんどの場合、心配する必要がないほど彼女の実力は高い。とはいえ、用心するに越したことはない。
「蓮さんこそ、どうしてここへ?」
「昼間、妙な霊と戦った」
京香の柳眉がひそめられた。彼女は霊の専門家でもあった。
「変に強い奴だったな。普段の俺なら問題なかったが、けっこう手こずらされた」
最終的に美柚が撃退したということはけっして言わない。いや、言えない。
「霊……」
「ああ。だから、お前も十分注意しろよ。釈迦に説法かもしれんが」
「いいえ、ありがたいご忠告です。気をつけるようにします」
真剣な眼差しで、ひとつうなずいた。
「それでお前は、なんでこんなところに?」
「蓮さん」
「う、うん?」
なぜか気圧され、蓮はたじろいだ。
「乙女の秘密を探ろうとしてはいけませんよ」
「そんなつもりじゃ……!」
「ふふ、冗談です。家からの命で、この地の動向を定期的に調査しているだけなんです」
「…………」
蓮は、あえてすぐには返事をしなかった。
「二条家は、相変わらずの秘密主義か」
「すみません……」
「別に、お前に嫌みを言った訳じゃない。あのわからずやの年寄り連中に言ったんだ」
名門、二条家はただでさえ閉鎖的だ。本来、家の者に狙って会うことすら難しい。
二条家は古代より中立をその旨とし、裏の世界における仲裁役を担ってきた。それゆえ、外部には明かせない秘密も多かった。
「無理はするなよ、京香。俺でよければ、いつでも呼んでくれ」
「蓮さん……」
京香は、どこか寂しげに微笑んだ。
「はい、遠慮なく甘えさせてもらいます」
「京香……」
それでも助けを求めてはこないだろうと、そんな予感があった。
彼女は、自立心が強すぎる。それが自身を滅ぼさないことを祈るばかりだった。
何か一言告げようと口を開きかけた直後、蓮の首筋に電気が走った。
――殺気!?
とっさに振り返った。しかし、周囲に人の気配はなく、相変わらず無数の霊が静かに飛び交っているだけだった。
『私にはあんな優しい言葉かけてくれないのに』という恨みのこもった声が聞こえた気がしたのだが……
「どうしました?」
「い、いや……妙な悪寒が……」
「まだ夜は冷えますから、体を温めなきゃ駄目ですよ」
「それは俺の台詞だ。そんな薄着で出歩いて」
京香が着ているのは、薄手の着物だった。よくよく見れば、和服だというのに、豊満すぎる体のラインがはっきりとわかるほどであった。
それを見ていると、こちらの体が熱くなってしまう。あまりじろじろ見てはいかんと思いつつも、もはや目が離せなかった。
男の視線に気づいているのかいないのか、京香はいつものやわらかい表情のままだった。
「私は、寒いのは平気ですので」
「ああ、皮下脂肪が――」
「蓮さん」
その、笑顔が、怖かった。
この件にはもう触れようとはせず、早々に立ち去ることにした。
「俺は、もう、行く」
「お気をつけて」
歩きだした蓮に、ふと思い出したように京香が言った。
「その眼鏡、よくお似合いですよ」
「眼鏡? ――む、そうだ。これを外してくれ!」
「これを?」
「そうだ、ともかくやってみてくれ」
『はあ』と言いながら、京香がおもむろに両手で黒縁眼鏡のフレームを掴もうとした。
「〈痛〉っ……!」
その繊手が触れるか触れないかの直前、電撃音とともに指が弾かれた。
「大丈夫か?」
「それは――かなりすごい霊具ですね。神器級のものかもしれません」
「……師匠がつくったんだ」
「もう、蓮さん。そんなもの私に触らせないでください」
「すまん」
あわよくば、この眼鏡を捨て去ってしまおうという考えは虫がよすぎたようだ。
今度こそ京香とは別れ、寮からはいったん離れた。
それにしても、ここに来てからやけに縁者と会う。偶然なのか、それとも誰かが裏で画策しているのか。
仮に操られている面があるのだとしても、自分は自分の道を行くしかなかった。