Chapter 5 episode: Come Back? 2
「――ん?」
体をゆっくりと起こすと、前方で雛子がやわらかく微笑んでいた。
「蓮ちゃん」
「やはり、ここにいたか」
「来ると思ってたよ」
雛子も徹夜であるはずなのだが、まるでそれを感じさせないほど普段のとおりだった。
「眼鏡、外せたんだね」
「フッ、あんな物、俺にかかれば一撃だ」
「ふぅん」
「――それより、美柚の件だ」
「やっぱり気になる?」
「当たり前だ。あ、知的好奇心という意味で!」
「うん? 何?」
「いいから話せ!」
「強引だなぁ。美柚ちゃんは意外と押しが強いタイプが好きだからそれでいいんだけど」
「なんの話だ!? 美柚の奴、雛子の屋敷にいたそうだな。どういうことだ?」
「それは、私が聞きたいんだけどなぁ」
手すりにもたれかかって片足をブラブラさせている雛子に、はぐらかしている様子はなかった。
「少なくとも私たちが捜しはじめたときは、彼女は屋敷にいなかった」
「当たり前だ」
「霊力を抑えられてた蓮ちゃんはともかく、近くにいたなら探知が得意なめいちゃんや佳奈ちゃんが気がつかないはずがない」
「お前のとこの〝あやかし〟もな」
「うん。ということは、あとで自分で戻ってきたか、もしくは――」
「だが、あいつは憶えてないって言ってるぞ」
その指摘に答えたのは、背後からの声だった。
「美柚ちゃん自身が操られてた可能性だってあるだろ」
「圭……」
「それか、さらった奴がこっそり戻したとか」
「なんのために?」
「それはわかんねえけど、相手が目的を達成したなら元に戻しても不思議はねえだろ」
「目的を果たしたなら、そこらに捨ててもよかったはずだ」
「うーん……」
圭と同じく眉根を寄せた蓮が、雛子のほうに向き直った。
「お前たちが最初に気づいたのはいつだったんだ」
「朝」
「朝?」
「洋太くんたちが一度戻ってきたから、みんなでどうしようか考えてたら、自分からひょっこり現れて」
「様子は?」
「眠そうだったけど、普通だった。夕方、屋敷に上がってからのことは憶えてないみたいだったけど」
「じゃあ、本当に寝ていたかも怪しいな」
「ううん、それはホント。客間にきちんと布団を敷いてあったから、うちの〝変態一つ目小僧〟が匂いで確認したし」
「…………」
あのエロ妖怪のことはともかく、そこまで普通に寝ていたとは。
「敵は、何もなかったように偽装したかったってことか?」
と、圭。
「偽装も何も、俺たちの目の前でさらったんだ。ごまかしようがないだろう」
「そりゃそうだ」
「それより、美柚は大丈夫なのか」
「うん。解呪系の術が得意な佳奈ちゃんたちに見てもらったけど、特に何もないって」
「怪我も、呪いもかけられてないってことか」
「でも、〝何もない〟っていうのがかえって不自然なんだよね」
「確かに」
圭が額に手を当てた。
「でもさぁ、なんかさっきの美柚ちゃん、違和感があるんだよなぁ」
「何が?」
「なんつーか、やけに〔すっきりしてる〕っつーか」
「は?」
「美柚ちゃんさぁ、ときどき思い詰めたような顔するんだよ。いつも、ほんのわずかに陰があるっつーか」
「わかる」
雛子も同意した。
「普段の明るさの裏返しかもしれないけど、ちょっとね。でも、誰にだってこころの闇なんてあるし」
「――だが、その深さは人それぞれだ」
蓮の目は、どこか荒んでいた。
「本人だって気づかない闇もある。そこにはまれば、なかなか抜け出せない」
「だからこそ、そこから抜け出したいと思う、か」
「しかし、それはポジティブなことだ」
「ポジティブ?」
「上を向いている、自分の欠点を直そうと前向きに考えてる」
「あ、それはそっか」
「だが、闇があるのをわかってるのに、それから目を背けたら――いつかその闇にのみ込まれる」
現実を否定しても、何ものをも生み出さない。ただ後退し、腐敗していくだけだ。
だが、大なり小なりその状態に陥る人は限りなく多い。
「まあ――」
暗い話は終わりだとばかりに、雛子がチタン製の手すりを両手で軽く叩いた。
「今は詮索するのはやめよ? 美柚ちゃんの様子を見守るしかない」
「わかってる」
どこか不機嫌に蓮が答えた。
「蓮は相変わらずか」
「どういう意味だ?」
「そういう意味」
「何ィ?」
「そういえば」
と、手を合わせたのは雛子だった。
「蓮ちゃん、眼鏡外したんだね。男前だよ」
「ふ、ふふ……」
脈絡のない指摘に対し、蓮は突然、肩を小刻みに震わせて、低くうなるように笑いはじめた。
「蓮が壊れた」
「違う。俺はやっと解放されたんだ。今までのことは――そうだ、なかったことにしよう」
「闇から目を背けちゃいけないんじゃなかったのか」
「うるさい。忘れたほうがいい過去も――ある」
「なんかやけに後ろ向きだな」
「とにかく、これで俺は自由の身だ。なんとかこのまま、あの女からも解放されたいものだ」
それを聞いて、隣にいる雛子が吹き出した。
「そんなこと言っちゃって、ほんとはそばにいてくれないと寂しいくせに」
「そんなわけあるか」
「それはともかく」
いつもは明るい雛子の表情が、心配げなものに変わった。
「美柚ちゃん、一度徹底的に調べてもらったほうがいいよね」
「ああ。めいたちだって専門家というわけじゃない」
「あー、あの〈娘〉がいたらなぁ」
底抜けに明るい年下の巫女を思い、ため息をつく。
彼女は解呪や治癒のスペシャリストで、この学校の生徒でもあるのだが、今は別件で他のところへ行っていた。
――無茶してなきゃいいけど。
「静かでちょうどいい」
「そうも言ってられないよ。美柚ちゃんに何かあってからじゃ遅い」
「何かあっても、簡単にやられるような玉じゃない」
「誰が玉よ」
背後から聞こえてきた声に、雛子と圭が振り返り、蓮だけがむっとしかめっ面になった。
「何しに来た、黒髪妖怪」
「黙れ、無礼千万男。みんなで話し込んでて私だけ……」
子供のように唇をとがらせた美柚の目は、あからさまなまでに不満げだった。
「ごめんごめん。ちょっとおしゃべりしてただけだから」
「私だっておしゃべりしたい……」
「お前はしゃべりすぎなんだ、慎みを知らん女」
「黙れ、優しさを知らん男」
いつものやり取りが始まったかと思われたが、ふと美柚が違和感に気づいた。
「あれ? 眼鏡は?」
「フンッ、あんな物、俺にはもはや不要なものだ。捨ててやった」
「ナスティア師に言いつけようかな」
「だ、黙れ、圭ッ! 貴様、俺を再び地獄へ突き落とそうというのか……!?」
「うん」
「こいつ……」
刀の入った剣袋に手をかけた蓮であったが、ぎりぎりのところで踏みとどまった。
「でも」
にやにやと含みのある笑みを浮かべる圭とは対照的に、雛子が心配げな視線を向けた。
「そのままで大丈夫? 今、霊力抑えてるんでしょ? それでも、私がビンビン感じちゃうくらいなんだから、このままじゃ危ないよ」
「こ、困ります、ヒナ先輩。ビンビンなんて……」
「大丈夫。蓮ちゃんの体は美柚ちゃんにあげるから」
「よかった。ほっとしました」
「どういう意味だ?」
蓮の声も聞こえていない様子で、あはは、と雛子は開けっぴろげな笑みを浮かべた。
「けど、本当に何かあってからじゃ遅いよ」
「問題ない」
蓮は、あくまで不遜だった。
「なぜなら、俺だからだ」
「説明になってない」
「俺は俺ゆえに強い。それだけだ」
「とにかく、そのままじゃ〈学園〉としても問題があるんだけど」
「なぜだ?」
「蓮ちゃんは確かに強いけど、それだといろんなものを引き寄せちゃう。いろんな存在がやってくると思うよ、あなたを狙って」
「――――」
「なんだったら、うちの彦左に言って霊力を抑える霊器をつくってもらおうか?」
その一言に、蓮は激昂した。
「いらんことをするなっ! もしこのことが師匠にばれたら、結局――」
最悪の事態を想像し、情けなくも恐怖に打ち震えた。
そんな蓮のことを誰も気づかうことなく、それぞれが『こいつをどうやって抑え込もうか』と考えはじめたときのことだった。
最初に気づいたのは、目がずば抜けていい美柚だった。
「あ。あれ――」
「今はそっとしておいてくれ……」
何かを思い出してしまったらしい蓮は、こころに傷を負った様子で美柚が前方を指さすのにも気づいていなかった。
やがて、圭も雛子も〝それ〟を認識してにわかに色めき立った。
「ん?」
周りがいやにざわめていることにようやく気づいた蓮は、怪訝な表情で顔を上げた。
最初は〝それ〟が何か、まるでわからなかった。
屋上から見える空の彼方に、一点の青。
それは徐々に徐々に大きくなり、こちらへ急速に接近しているのがわかる。
「まさか――」
最悪の予感が、瞬間的にこころをよぎる。
そして、それは現実のものとなった。
丸い形を二つつなげた自然界にはない奇妙な形。それが、音もなく静かに飛んでくる。
青い縁の、眼鏡、と呼ばれる物体であった。
「…………」
ショックで動けないでいるターゲットに、一直線に向かっていく。
――逃げなければ。
と思うものの、眼前のブツがこちらを睨んでいるような気がして足が動かなかった。
どうすることもできずに硬直していると、敵は直上で静止した。
「……………………」
――追っ手はひとりではなかったか。
事ここに至っては、もはやあきらめるしかなかった。
――さらば、我が青春。
静かにひっそりと泣きたい気持ちになって、蓮はゆっくりと目を閉じた。
すっ。
と音がしただろうか。次に目を開けたときにはもう、世界は変わっていた。
「………………………………」
「元気出せよ」
圭の全然気持ちのこもっていない言葉を聞くと、猛烈に殴りたい衝動に駆られる。
その反対側にいる美柚にとっても、しょせんは他人事だった。
「今度はフレームが青なんだね」
「イケてるだろ?」
もうヤケになって笑いだした。
先ほどまで体中にあふれていた霊力が、瞬く間にしぼんでいくのがわかる。
――師匠、そこまでしますか。
「あ……」
蓮の霊気をほとんど感じなくなったことにほっとした雛子が、急に顔を上げた。
「どうした?」
「甲一くんに美柚ちゃんが見つかったことを伝えるの忘れてた」
「なんだ、そんなことか」
――東一のことなんてどうだっていい。
あわてて携帯電話を取り出す雛子をしり目に、蓮はひとり新眼鏡で覆われた虚ろな目で遠くを見つめるのだった。