Chapter 5 episode: Safe House 4
それは雛子だけでなく、美柚たちも聞き慣れたものだった。
「あ、〈八房〉」
見れば、庭園の黒い敷石の上で、真っ白な秋田犬が吠えている。
その目は敵意を強め、虚空を厳しく睨みつけている。
「この犬、まだ生きて――誰だ!?」
蓮が鋭く声を発すると、突然、周囲を暗闇が覆っていった。
あっという間に室内まで景色が消え、互いの姿以外、何も見えなくなる。
「ちっ」
舌打ちしつつ、蓮は急ぎ剣袋から刀を取り出した。相変わらず、鞘からは抜けそうにないが。
伝わってくる霊気の波動は、まぎれもなく刺すような敵意を含んでいた。
場にいる全員が身構え、周囲に緊張が走る。
実体は目に見えないが、霊気で近くに何かが来たことだけはわかる。
「――攻撃するぞ」
「待って、洋太! こういうときは、うかつに動かないほうがいい」
めいの言葉は正しかった。
互いの姿はなんとか認識できるものの、周りは一点の光さえない暗幕に包まれたまま。
何が起こるか誰にも予測のしようがない。
《そこの女性の言うとおりだ。軽率な行動は控えたほうがいい》
その声は、くぐもった大人のものだった。
「ンだと、コノヤロウ!」
《〝犬神〟の一族は思慮深い奴が多いと聞いていたが、お前は短慮らしい》
「確かに」
「華院ッ、テメエは黙ってろ!」
相手の挑発よりも蓮の余計な一言にいきり立った洋太が、視線を〔そこにいるはずの〕相手に向けた。
「おい、真っ黒野郎。何が目的だ」
《私が男であるとは限らないだろう。どうも真性のばからしいな》
「ごちゃごちゃうるせえっ! ったく、この九宝家にあえて乗り込むなんて、テメエのほうがよっぽどばかじゃねーか」
《いいや》
相手の声は、至極冷静だった。
《すべて知ってのことだ》
「何ぃ?」
《最初は雁首揃えて何をやっているかと思ったのだが、少しあいさつをしておきたくなった。〝鳳雛〟と〝王〟がそろっているんだ。面白いじゃないか》
「王?」
美柚の当然の疑問に答える声は、なかった。
《それに、最近暴れている奴までいる。探りを入れたくなるのが人情というものだろう》
「何言ってやがる。八房に見つかって仕方なく出てきたくせに」
洋太の横に、いつの間にか例の秋田犬がいた。牙をむき出しにし、気配の主に向かって低くうなっている。
《そうでもないさ。少し腕試しがしたくなった――と正直に言ったほうがお前にはわかりやすかったか》
「それなら話が早え!」
全身の霊力を一気に高め、それを右の拳に集中していく。
その光が弾けると、洋太の右手は五指それぞれに鉤爪を備えた、牛の頭ほどもある巨大な拳に〈変化〉した。
「行くぜっ」
「あっ、待って!」
様子を見守っていた雛子の声は届かない。
一足飛びに相手との距離を詰め、右の爪を大きく振るった。
手応えは――ない。
「ちっ」
《猪突猛進か。お前はどうも、考えるより先に手が出る男のようだ》
「うるせえ!」
激昂した洋太が再度跳躍すると同時に、敵の気配も素早く動いた。
目には見えずとも、天井近くの高い位置にいるのがわかる。
案の定、洋太渾身の二撃目も虚しく空を切った。
対する透明な敵は飛躍的に霊力を高め、二点にそれをねじるように集約していく。
「させるかよ!」
未だ体勢の整わない洋太にかわり、圭が棒状の武器〝棍〟をどこからともなく取り出し、瞬間的にそれを敵に向かって伸ばした。
刹那、相手も攻撃を放った。
先の二点から強い霊光が発せられ、無数の霊気の塊がそれぞれきりもみしながら飛んでいく。
その塊は、光を発してはいなかった。しかし、この場にいる者たちは、すべてが霊気を明確に感知できる。
不規則に動くそれらも、皆が皆、あわてることなく見事によけてみせた――拳で打ち落とした美柚を除いて。
そんな美柚の姿を見た洋太が、口の端をゆがめた。
「はっ、オメエ、頭〈悪〉ーな。俺たちには霊気の動きが見えてんだよ。あんな遅い攻撃当たるわけねーだろ」
《今のはただの牽制だ。初めから当たるとは思ってない》
「強がンなよ」
《ああ、ひとつ説明してやろう。この〝〈真闇〉〟の術はお前たちに対するものじゃない。邪魔が入らないようにする、まさに暗幕なんだよ》
敵の言葉に反応したのは、洋太よりもむしろ静観していた雛子であった。
「そういうことか……」
いつもなら、こんなことが起これば家の者が誰ひとりとして黙ってはいない。
しかし現実には、今この場にいるのは八房のみ。助けが来る気配すらなかった。
一方、未だ動かない蓮は、雛子とはまったく別のことに注目していた。
「今のは……」
――似ている。
かつて学校に現れた〈悪霊〉が使ったそれと同じように見えた。眼鏡をかけたままの今の状態では、どちらにしろ確実なことは何もわからないが。
一同の中で今一番不利な立場にある蓮の注視する中、未だ姿を見せない相手から攻撃が立て続けに来た。
先ほどとまったく同じように、霊気の塊〝五砲〟を放ってきた。
「これは――」
「ちょこまかとうぜぇンだよッ!」
「待て、桃ノ木!」
止める間もなく、洋太が突っ込んでいく。
五砲のひとつがすぐさまそちらへ向かい、彼の眼前で突然、無数の小さな霊気の弾丸に変質した。
「!」
洋太が構えることすらできないでいる間にすべてが襲いかかり、一気に貫いていく。
「くぅっ……!」
思わず苦悶の声がもれ、後方へ大きく弾き飛ばされて畳の上を跳ねた。音で襖をいくつか突き破っていったのがわかる。
――自分であえて乗り込んできただけのことはある。
蓮は、相手の力量の想定値を引き上げた。
――この〈面子〉で負けることはないだろうが、ある程度の被害は出るかもな。
少し急がなければ、どんどん相手のペースにはまり込んでしまうかもしれない。
対応を考えている目の前で、今度は甲一が得意の炎の術を放った。
だがそれは、一同がまったく予想しない形で防がれることになった。
空中に突然青い炎が出現したかと思うと、次の瞬間には甲一の赤い炎を覆い尽くし、まるでそれを取り込んだかのように肥大化した。
それが向かう先には――やはり甲一。
周りがサポートする前に、青の業火が正面から音を立てて派手にぶつかった。
「甲一くん!」
雛子も急ぎ防御の術を展開しようとしたものの、それはわずかに間に合わなかった。
不自然な煙が辺りに広がり、奇妙な静寂が不安をいやがおうにも駆り立てる。