Chapter 5 episode: Revival
春だというのに過ぎゆく風は冷たく、救いを求める内面の泉を徐々に凍らせていく。
「俺のこころは、冬に逆戻り――」
校舎屋上の手すりにもたれかかった〝変態〟こと華院 蓮は、半泣きになりながらブツブツと独り言をつぶやいていた。
「寒くて、寒くて、寒くて。もう、誰も信じられない――」
あまりに痛々しく、見ていられなくなった他の生徒たちは、ひとり、ふたりと姿を消していった。
陽気のいい日の昼休みだというのに、校舎の屋上は閑散としていた。それがさらに寂寥感を助長する。
「俺は風になりたい。風のように自由に、なんのしがらみもなく――」
誰もかかわり合いになりたくないほど自分の世界に完全に入ってしまった蓮に、あえて近づく影があった。
「何、ポエミーになってんだよ、蓮」
「空はこんなに青いのに、俺のこころはネイビーブルー――」
「重傷だな……」
幼なじみ――腐れ縁――の圭ですら引いてしまうほど、今の蓮は〔飛んでいた〕。
「もう気にすんなよ、誤解で済んだじゃねえか」
「ゴカイが誤解して釣りの餌になる――」
「…………」
あの一件、通称〝倉庫の秘め事――からみ合う二人シリーズ〟は、瞬く間に全校だけでなく学園タウン全域に知られることになり、今やここ神楽坂市北部では変態・華院 蓮の名を知らぬ者はないほどだ。
周囲の厳しい視線、そしてあからさまな罵声はこれまでの比ではなく、蓮の繊細なこころを苛んだ。
一方、蓮を〝信仰の敵〟として公認した武志團は、もはや相手にする価値なしとばかりに無視を決め込んだ。
それがさらに蓮を追い込んだことは言うまでもない。
「倉庫は、〔そ・こ〕にある――」
「く、苦しい……って、そうだ。光を呼んできてやろうか? 今のお前なら、あいつと合いそうだ」
「レンレーン……」
「うわっ、もういたのか!」
まったく気配も何も感じさせず、光は確かにそこにいた。
「誤解は五回まで……」
「ゴカイは、豪快に誤解する――」
「やっぱり同レベルだな」
「蓮ボーイ、チキンボーイ以下……」
「蓮ボーイは悲しみボーイ――」
「…………」
なぜか、光まで一緒になって泣きはじめた。もはや痛々しいのを超えて、呆れるしかない。
しばらくそんな風にして春の心地よい風に吹かれていると、授業開始のベルが鳴った。
案の定、蓮と光に動く気配はない。
「まあ、いいか」
自分も一緒になってサボろうと圭がこころに決めた頃、突然、光が顔を上げた。
「あ、希望が来る」
「希望、遠きかなたに消えた言葉――」
相変わらずの蓮は放っておいて、圭が周囲を見回すと、扉のほうから近づく細身の影があった。
「お、これはちょうどいい」
身振りで場所を譲った。
「お兄ちゃん」
「お兄ちゃん……お姉ちゃんではない――」
「当たり前でしょ。お兄ちゃんもお姉ちゃんのこと気になるの?」
「誰があんな女! ――って、え?」
落ち込んでいたのも忘れて激昂した蓮は、横にいた少女を見てポカンと口を開けた。
目の前には、どこかで見た黒のセーラー服をまとったショートヘアの少女。
その愛らしい顔は、明らかに蓮のしかめっ面とは次元が異なるというのに、なぜか誰が見てもどこか雰囲気が似ている気がする。
蓮の妹、希乃だった。
「き、きききき希乃!? なんで!?」
「なんでって、来ちゃ駄目?」
そんなかわいい目で見つめられたら、駄目なんて言えるはずもない。
「……いや、いいが」
「蓮ボーイ、シスコンボーイ」
「うるさい。とっ、とにかく、なんでここに?」
「ちょっと用事があって」
と即答した希乃は、人差し指で頬をかいている。
何かをごまかそうとするときのいつもの癖だった。
「……お前、何を企んでる?」
「企んでなんかないよ! 別の目的なんかないもん!」
「語るに落ちる」
「お兄ちゃん、ひどいよ」
追いつめられた希乃が、怒ってぷっくり膨れた。
かわいい。
そんな顔をして怒られたら、反論できるはずもない。
「わかったわかった。それで、本当にどうしたんだ、急に」
「久しぶりに会いたくて。だってお兄ちゃん、メールもしてくれないんだもん」
「俺はケータイ持ってない」
「あ、そうだった。じゃあ、今度プレゼントするね」
「俺にそんな物は――」
「何がいいかなぁ。どこで買おっか」
聞いちゃいない。
「そういうとこは、奴にそっくりだな」
「お前もな」
と、圭。
「うるさい。俺はまともだ」
「変態が?」
「…………」
大変な失言であった。やっと立ち直りかけた蓮が、また明らかに落ち込んでしまった。
「あ――」
と、突然声を上げた希乃の表情は、わずかではあるが先ほどと変じていた。
「ごめん、ちょっと行ってくる」
「希乃?」
下に人がいないのをいいことに、手すりに軽く飛び乗った。
「あ、お兄ちゃん」
「うん?」
「彼女と〝いいこと〟するときは、もっと時と場所をわきまえたほうがいいと思うよ」
「ちっ、違っ……!」
あわてて否定しようとするものの、ふわりと飛び降りた希乃の姿は一瞬にして消えた。
「あいつ、こんなところで術を使いやがって」
「心配か?」
「してない。あいつは十分強い。昔とは違う」
『だといいが』と心中で思った圭であったが、あえて黙っておいた。
蓮の視線は、すでに光のほうへ向いていた。
「お前、やっぱり術を見ても驚かないんだな」
「ああ、光は――」
「赤……」
「何?」
「赤だった。意外だ、白かピンク系かと思ってたのに……」
わずかな沈黙。
「貴っ様ぁ! ナニを見てた!?」
「楽園」
「こいつ……!」
「待て、蓮。お前に光を責める権利はない」
「それとこれとは話が別だ!」
何が別なんだか。
もみ合いになった――実際には光が揺さぶられているだけだが――一同の元に、再び近づいてくる細身の影があった。
最初に気づいたのは圭だった。
「あ、ヒナ先輩」
「みんな、楽しそうだね。私も仲間に入れて」
「入らないほうがいいっすよ、ばかが伝染るから」
「それもそっか」
雛子も失礼である。
「授業はどうしたんすか」
「サボってきた」
「あっさりと……」
「フンッ、生徒会長のくせに」
「あ、そういうこと言うんだったら不良生徒の粛正をしていたってことにするけど」
「…………」
そう、九宝 雛子とはこんな女だ。
笑顔で、人をヤれる。
けっして敵に回してはならない相手であった、けっして。
「ところで」
と、雛子。
「あとでうちに来ない? ちょっと話したいことがあって」
「行かない」
「ああ、蓮ちゃんには聞いてないから」
「なんで?」
「もう強制連行することが決まってるし」
「…………」
「圭くんはどうする?」
「うーん、俺は――」
「行くんだね、じゃあ準備しておく」
「早っ。しかも、俺の意見聞いてねえし」
「光くんは――あれ?」
さっきまですぐ横にいたはずの光の姿はすでになかった。
「ふんっ、雛子の登場に身の危険を感じたんだろう」
「蓮ちゃん、ひどい」
「痛いッ! 雛子、よせ!」
見事に卍固めをかけられ、蓮は情けなくも悲鳴を上げた。
「あ、そうそう。美柚ちゃんも来るからね」
「……………………」
「ちゃんと誤解を解くように
「ふ、ふん、誤解するほうが悪い」
「強がってないで、ちゃんと釈明すること」
「痛いッ! わかった!」
全身の関節を極められた状態では逆らえるはずもなく、今は従うほかなかった。
「そういえば」
と、圭は蓮のほうを見向きもせず雛子に問うた。
「結局、例の女、何者だったんです?」
「ああ、蓮ちゃんに襲われた子?」
「そう」
二人とも、蓮の『俺は襲ってない!』という声は完全に無視した。
「さあ? 麗々先生が引き取ってったし、少なくとも危険人物ではなさそうだけど」
「十分危険だった!」
「蓮ちゃん、他に何か憶えてない?」
「確か――B-1-1-6を探していた」
「B-1-1-6? なんであんな物を……」
「なんだ?」
「確か、霊力を抑える霊薬だったような」
蓮がまた勘違いしていることを雛子が知る由もない。
「まあいいや。先生たちがなんとかしてくれるでしょ」
「奴らはいったい何者なんだ」
「え? 知らないの?」
「知るわけがない」
ようやく解放された蓮が服の乱れを直しながら、ややぶっきらぼうに答えた。
「麗々先生たちは――」
と口を開きかけたところで、前方の校舎の二階に不機嫌な顔でうろうろする男子生徒の影。
「あ、甲一くん」
「あ、東一」
「あれ? どっちだっけ?」
苦笑する雛子であったが、あえて圭の問いには答えなかった。ひどい生徒会長である。
「本当は生徒会の仕事があるんだった。また甲一くんに怒られちゃう」
「授業をサボってまでする仕事ってなんだ」
「もう、そこは突っ込まないの。突っ込みすぎる男は嫌われるよ」
「俺は、なんでも突っ込んでいくタイプなんだ」
『そういう意味じゃない』と思った二人であったが、もう何も言わなかった。蓮には、何を言っても無駄だからだ。
「じゃあ、放課後かならず来てね」
「…………」
「蓮ちゃんが来なかったら、圭くんに責任とってもらうから」
「えっ、そんな!」
「お願い」
その笑顔が、怖かった。
圭の返事も聞かないまま、雛子はそのまま行ってしまった。
「仕方ねえ、今のうちに縛っとくか」
圭が捕獲の準備をする前に、蓮は逃げ出した。やけに重たい足取りで走っていくが、スピードだけはあった。
ターゲットを追いかけることはあえてしない圭であった。
「ここで、この俺から逃げられると思うなよ、蓮」
にやりと口の端をつり上げた。