Chapter 4 episode: Slender Fencer 4
蓮は、居住まいを正して女に注意を戻した。
「失せろ、女。今は見逃してやったが、次はないと思え」
『何を偉そうに』と返したいところだったが、最前の一連のことを経験した今、声は出なかった。
そこで、麗奈は作戦を変えることにした。
いつの間にか、例の薬の入った瓶は相手の男の足元に転がっている。
「――――」
無詠唱のまま術式を組み上げる。
そして、相手に悟られないように発動させた。
瓶が浮かび、音もなくこちらへ向かってくる。
「!?」
あわてたのは蓮だった。
知らぬ間に肝心の瓶を離してしまい、あまつさえ今、目の前で女のほうへ飛んでいくではないか。
獲物を軽くキャッチした麗奈は、迷うことなく倉庫の出入り口へ向かった。
「ま、待て、この女……!」
急ぎ追いかけようとするものの、壊れた棚の脚につまずき、盛大に音を立てて転んだ。
しかも、別の棚が倒れ込んできて、ダンボールの山の中に埋もれてしまった。
もはや、女が逃げていく背中しか見えない。
だが、伏せていたからこそいち早く気づけたこともあった。
完全に折れて先のとがった鉄骨が床からひとりでに浮かび上がり、女のほうへ向かっていく。
――なんだと!?
体を強引に起こしながら叫んだ。
「後ろだッ!」
今までとは異なる声音に、麗奈ははっとして振り返った。
眼前に凶器――
とっさに体を傾けてかわそうとするが、制服の二の腕の部分を切り裂かれた。
白い肌に、赤い筋が浮かび上がる。
それを見たとたん、麗奈の形相が変わった。
「こいつ……!」
眼鏡をかけた間抜け面の男を、射抜かんばかりに睨みやる。
「その程度の霊力で! 私の体を!」
「待て。俺じゃない。自分でやったんなら、お前に注意を――」
「許さないッ!」
麗奈の内側からにじみ出る青い霊光が一気にふくれ上がり、その一端が手にした剣に吸い込まれていく。
「目を覚ませ――」
瞳を一筋の光が横切った。
「レジーナ」
霊光を吸収した剣が形状変化していき、やがてそこから現れたのは――
と、何かが姿を現そうとした刹那、突然、紫色の電光が縦横に走り、やがて弾けた。
「!?」
――なんだ?
蓮にとっても、まったく予想外の出来事だった。
思わず目をつむってしまいそうになるのをこらえても、結局、光の奔流で何も見えず、轟音で何も聞こえない。
近くで何かが割れて、無味無臭だが粘性の高い液体が降り注ぐ。
しばらくしてようやく、すべてが収った。
最初に聞こえてきたのは、女の絶望的なつぶやきだった。
「なぜ……」
腕を押さえながら膝をついた。
剣は大きく弾かれて部屋の壁に突き刺さり、瓶は手元から消えていた。
制服も左の上半身を中心に大きく破れ、日本人にしてはやけに白い肌があらわになっている。
そんなことよりも、蓮には気になることがあった。
――さっきのも今のも、それぞれ別の霊気だった。
何者かが介入している。しかもその両方が、過去に感じたことのあるものだった。
――ややこしくなってきたな。
体にまとわりつく粘っこい透明の液体を払いながら、立ち上がった。
相手の女も、切れたキャミソールの肩ひもを縛りながら、腰を上げた。
「お前みたいな鈍い奴でも、今のが俺じゃないとわかっただろう?」
「鈍い? こいつ、女の子に向かって……」
女の表情が怒りに染まった。
「そもそも、あんたがからんできたからこんなことになった。瓶も割れちゃったし――って、あんた」
「〝あんた〟言うな。まったく、最近の女は――」
麗奈が今までに見せたことのない表情に変わっていた。
蓮も、すぐに〔自身の変化〕に気がついた。
「ん?」
見れば、おのれの両手が透けている。
「!?」
自分自身が一番驚き、どうしていいかまったくわからず、意味もなく手を振ったりしてみた。
しかし、そんなことで治るはずもなく、かえってどんどんと色が薄くなっていく。
程なくして、完全に透明になってしまった。
「な、なんなの、その術……」
ついさっきまで怒りで我を忘れていた麗奈も、唖然となった。
姿を隠す術はいくらでも知っているが、〔肉体だけ〕消すなんて聞いたこともない。
目の前では、白い制服だけがあわてたような仕草で動いている。
「何やったの?」
「何も……」
と言いかけたところで気づいた。
――さっきの液体か?
未だ体にまとわりつく粘っこい液。
この得体の知れない薬の影響なのだろうか。
「とにかく――」
麗奈が、壁に突き刺さったままの自身の剣を引き寄せた。
「あんたムカツクから、ここで倒しておく」
「なんでそうなる」
「私をこんな状態にしておいて、しらを切るつもり?」
「だから、俺じゃないと――」
言い返す間もなく、問答無用とばかりに襲いかかってきた。
――瓶がなくなった今、俺が戦いつづける理由はない。
脱出経路を探るが、壊れた棚やら箱やらが邪魔になって出入り口に近づくのも困難だ。
――相手に体は見えてないんだよな。
だったら、とりあえず状況を変えるにはこれがいい。
蓮は、服を脱ぎはじめた。
「ちょ、ちょっと……」
あわてたのは麗奈のほうだ。体は見えなくとも、脱いでいることはすぐわかる。
「あ、あんた、何やってんの!?」
目を背ける麗奈の正面で、蓮は脱ぎ終わった。
「フッ、これで形勢逆転だ」
「……どうだか」
半眼で睨んでくる女を相手にせず、蓮はすぐに動いた。
姿は見えないが、足元に散らばった紙が動くせいでおおよその位置はわかる。
しかし、蓮もそれは悟っていたか、急に足音が消えた。
――ジャンプした。
「ばかな奴。霊気の位置を探知すれば――」
呆れた麗奈であったが、その表情はすぐ驚愕に彩られた。
「霊気を……感じない!?」
元から霊力の弱い奴ではあったが、今はまったく感知できない。場の霊気の揺らぎさえなく、今目の前から消えたとしか思えなかった。
――いけない。
戦闘に慣れた麗奈は、なかば反射的に思考を切り換えた。
相手の位置がまったくわからないなら、特定の位置で待ち構えるしかない。
そう判断してすぐに動いた。自身の右手後方へ走っていく。
麗奈が仁王立ちで立ち止まったのは、倉庫の扉の前だった。
男の戦意そのものが急激に落ちたのは、その言動や全体的な様子からわかっていた。
ならば、相手は逃げに徹する可能性が高い。そう判断したのだった。
「こっちへ来たければ来なさい。私のレジーナの餌食になるだけだけど」
再び刀身の分裂した剣が、縦横無尽に展開される。
扉の手前、五メートルほどのところでほこりが立った。どうやら、そこに着地したらしい。
「どうしたの? 来ないの?」
「…………」
「あんたは、詰めが甘いのよ。〈悪霊〉のときもそう、自分の力を過信するから最後に追いつめられる」
「――なぜ、レイスの一件を知っている?」
「…………」
しまった、と顔をしかめるが、それ自体、ひとつのあやまちだった。
蓮は、口の端をゆがめた。まったく見えないが。
「どうも状況が変わったようだな」
「な、何よ」
「お前は、俺の知らない何かを知っているらしい」
わざと音を立ててにじり寄る。
「何をするつもり!?」
「お前を捕らえて尋問する」
一瞬の静寂――
「何考えてるのよ、このエロ!」
「なっ、何を想像してる!? 俺は、お前を捕まえて事情を聞き出そうとしただけだっ!」
「裸の男が捕まえるとか言うなっ!」
「やましい気持ちはない!」
「そう言う奴ほど怪しい!」
それはそうだ、と思った蓮ではあったが、納得している場合ではなかった。
「違うと言っているだろう!」
地団駄を踏んだのか、ダンボールがガタガタと揺れる。
「いやっ、来ないで!」
「おい、待て――!」
身の危険を感じ、パニックに陥った女に言葉が届くはずもない。
それどころか、空中を舞う鉄片が一斉に飛んできた。
「こ、こらっ!」
こちらの姿が見えないから、当てずっぽうにあっちこっちへ飛び交う。その不規則な動きは、かえって予測が難しくてよけるのが困難だった。
――これはもう、本当に逃げるしかない。
鉄片が散らばったおかげで、隙はできた。
一瞬だけ体ひとつ分スペースが空き、そこへめがけて迷わず飛び出した。
しかし、なぜか前方に信楽焼のタヌキ。
それに思いきり向こうずねをぶつけ、体勢を崩すというより頭から前へ突っ込んでいく。
「えっ!?」
驚いたのは、麗奈のほうだった。
うっすらと姿の見える全裸の男がいっぱいに視界を覆い、正面から激しくぶつかってきた。
もはやどうすることもできず、からみ合って床に倒れ込んだ。
「きゅう……」
麗奈は、そのまま気を失った。
「痛たたた……」
脚と頭に響く痛みが交互にやってくる。
また派手に倒れてしまった。女がクッションになってくれて助かった、などとしたたかに思う。
「女……?」
下を見れば、例の女が目を回していた。
「やっと静かになったか」
と失礼なことを言いつつ顔を上げると、倉庫の扉は知らぬ間に開いていた。
そこには、教師の戒と麗々がいた。
「……………………」
そのかわいらしい制服は無惨に破れ果て、汚された様子で明らかに気絶している少女。
そして、素っ裸でその女子生徒の上にのしかかる男。
しかも、その体は油でもたっぷり塗ったかのように、やらしくテカっていた。
「こ、ここここれは……!」
「…………華院、〝生徒指導室〟に来い」
「ち、違っ……!」
「まさかここまでヤルとは――先生はうらやましい、いや悲しい」
表情が見えず、低い声音の麗々と、なぜか悔しげな顔をしている戒。
「俺は〝B-1-1-7〟を取り返そうと……!」
「また勘違いしてるな。B-1-1-6だと言っただろう」
「1-1-7は、私がこの子に取ってくるように言ったんだ」
「…………」
「華院」
麗々の目は、氷河の奥底を思わせる冷たさを湛えていた。
「まずは服を着ろ。美柚でなくても変態と言いたくなる」
「…………」
もはや返す言葉もなく、蓮は羞恥心を押し隠して従った。
外から、風が吹き込んできた。
それは、少しだけ冷えていた。