君と最後に会ったのはいつの日だったろうか。
白く透き通った横顔は悲しそうにどこかを見つめていた。薄茶色の君の目がやけに印象的だった。
あの夏の日。
思えば昼は蝉がうるさくて、夜は生活リズムが崩れていて眠れずマンガとゲーム機を片手に時間だけを空費していた。 十代最後の夏は着々と過ぎてゆく。夏の初めまで通っていた学校を辞め、といって働くでもなし、遊びにいくでもなし。
ただ、無気力だった。
畳の上に置かれた、不似合いなデザインの勉強机の上の求人誌と大学の募集要項が網戸を通ってきた風に吹かれて、パラパラとめくれた。それにあわせてカーテンレールから下げられた風鈴がちりんちりんと涼やかな音をたててゆく。
だが、音と風だけでは物足りない。すっかりクーラー慣れしきった体はさらなる涼を求める。
体を起こしてリモコンを持ち引き戸に手をかけると、サァーっと音がした。近寄るまでわからなかったが、庭が濡れている。通り雨だ。二階で母親が慌てて蒲団を入れている気配がする。
通り雨は空気中の様々な汚れを洗い流しているようだ。独特なにおいは洗車したときのホースから飛びだすシャワーにも似ている。
辺りがほんの少し暗くなった。それにあわせて涼しくもなったので、クーラーをつけるのを我慢することにした。かわりに畳に寝そべる。
ちりりん、と風鈴がまた揺れた。
時間は確実に過ぎてゆくのだ
と、誰かが言った。
毎日のように聞く母親の小言かもしれないし、なにかの雑誌の中からかもしれない。
わかっている、頭のなかではとぼやく。
ただ、体が動かない。
否、どうしても動きたくないのだ。
なにかが落ちる音でハッとした。隣を見ると風鈴が傍らに落ちていた。
拾い上げて、カーテンレールの端にくくりつけるのは面倒だった。立ち上がらず、そのままの格好で目の前の風鈴をじっと見た。
きれいな風鈴だ。古典的な絵柄だけども、薄いガラスに描かれた赤い小さな金魚は可愛らしかった。
まるで彼女のようだ、と思った。小柄で薄茶色の瞳をしていて、金魚の尾ひれのようにサイドにふたつにくくった髪は豊かに肩にながれていた。
彼女と喋るのはおなじ科目の講義がぶつかったときだけで、一つ前の席に座る彼女からいつもだいたい話しかけてきてくれた。彼女の友達と僕の友達が付き合っていたので、話題にあがるのは大抵彼らのことと目の前の教授のことだった。
友達も彼女の友達も、とっていない科目だったのであぶれたもの同士それなりに会話は盛り上がった。
とつぜん彼女が交通事故で死んだと聞かされたのは講堂のなかで、ただでさえだだっ広い空間がよけいに広く感じた。
席順は決まっておらず、講義のたびに各自すきな席に座っているので彼女の座っていた席にも他の誰かが次々に座っていく。はじめは彼女の死がなにかと話題に持ち上がっていたが、一週間、二週間とたつにつれて口にされなくなった。
ある日友達に、彼女の墓参りに誘われたがそこまで親しくなかったからとやんわり断った。葬儀に呼ばれなかったのをみると、僕が彼女と面識があるということを後から知ったのだろう。それくらいささやかな仲だったのだ。それでも彼女の死を聞かされたとき、不思議と泣こうという思いは湧いてこなかったし、彼女の友達以上に落ち込むこともなかった。しかたがないと思った。
どこか乾いていたのだろうか。
やがて、僕は大学で学んでいることと将来なりたいものとの方向性の違いを理由にして辞めた。大学が遠いのも一つの理由だった。
二人も人間がいなくなったあの講堂はさらにがらんとしてしまったに違いない。
風鈴を眺めるのをやめた。どのくらい経ったのだろうか。夜とも、昼ともつかない不思議な明るさだった。Tシャツはじんわり汗ばんでいる。
好い加減、もとの場所に戻してやろうと体を起こした。風鈴を手に取るとひんやり冷たい別の感触のなにかが触った。
彼女の手だった。
そのまま彼女は風鈴を持ち上げ、もとのカーテンレールの端にくくりつけた。
夢を見ているような感じだった。
ふわふわと浮かんでいるように現実味のない夢。
彼女は振り返って懐かしい顔で笑った。おどけて冗談を言って笑わせたときのあの表情だった。
僕も微笑んだ。
そのまま彼女はふっと近寄り、僕にキスをした。
彼女がいつもつけていた香りが鼻を掠めたような気がした。
幸福だった。
どうしようもなく。
頬に汗ではないなにかが一筋流れて、ようやく気づいた。
彼女を好きだったことを。
……そして、彼女は死んだのだと。
部屋はあいかわらず蒸し暑くて蝉はうるさいくらいに鳴いていたけれど、彼女からノートのお礼にもらった風鈴が、ちりんと風を運んでいた。
あの席に戻ろう。
彼女と笑ったあの席に。
立ち上がり、部屋を出た。
ただもう一度、あそこへ戻ってみようと思った。
|