理の形(ことわりのかたち)
そのイルカにはまだ意識があった。
少し前に心臓はその鼓動を止め、血液が循環しなくなった体は、脳をはじめ徐々に死んでいったが、機能している臓器や細胞に蓄えられた記憶は、再生が可能なレベルを保っていた。
女は一握りの樹医が持つのと同じ能力を持っていた。
それは、手をかざすことで、他の生物の意識と一体になれる能力である。優れた樹医はそれだけで、大木のどの部分が痛んでいるかを的確に判断する。本人にはメカニズムがわからなくとも、意識を共有化することで、ただ判ってしまうのだ。
女はまだ温かいイルカの皮膚に手をあてた。
全身の筋肉を存分に使って悠々と水中を進む、イルカの記憶が見えた。これは、イルカがかつて見た、視覚的な記憶だ。女はまるで古い映写機の映像を見るように彼の記憶を見た。
暗い海底。
入り組んだ岩やサンゴの間をすばらしい速度ですり抜ける。
徐々に高揚感が湧いてくる。もうすぐあれが見える頃だ。
やがて、明るい海底に白い宮殿が姿を現わした。
彼はそれがかつての文明の遺産であることを知らなかったが、その建造物を作った者の美意識は十分に理解できた。
突然、暗黒が視野をふさいだ。
海中に稲妻が走る。
巨大な触手の群れに絡み付かれる恐怖。
信じられないことだ。水中で息苦しい。
稲妻が今度は天から海面につき刺さる。
不意に海底が煮え立つ。
芳醇な生命に満ちていた海中が隅ずみまで死んでいく。
何の前触れもなく、死が噴き出す。
死の海域。毒の海域。
黒い海中に邪念が広がる。今まで、自分たちの空間だと信じていた領域が、悪意を持った生命体の一部であったことに気づく。
稲妻が容赦なく走る。
稲妻は、何かの意識の表れのようだ。
そこから全力で逃れようと彼は全身の筋肉を振り絞って泳ぐ。
本来であれば魚雷のようなすさまじい速度で進んでいるはずの泳ぎも、悪意の塊である水中からは逃れられない。
突然、爆発が起きる。
海底噴火だ。
彼は水流に翻弄される。
水圧で全身の骨がばらばらに崩れていく。
彼は恐怖の対象として、初めて神というものを認識した。
神とは恐怖そのものであり、悪意そのものだった。
悪意は徐々に怪物の姿を現わしてきた。それは、海中の有毒成分と、恐怖心が生み出した幻覚だったが、それに気付く前に、彼は無の存在になった。
女は彼の意識が消失する直前に、かろうじて自分の意識にチャンネルを切り替えた。
それはうまくいったようにみえたが、次の瞬間、深いめまいに襲われ、やはり意識を失ってしまった。
暗黒の宇宙空間に目を凝らすと、いくつもの光点が見える。太陽だろうか。さらに目を凝らすと、空間は決して静止しているわけではなく、ゆっくりと脈打つように動いている。その中を恒星が漂い、恒星の周りを高速で惑星が回る。その秩序とは無関係にいびつな形をした小惑星が飛び回る。
目の前を巨大な塊が通過した。
塊には深い溝が幾重にも入っている。
塊は、細胞小器官の一つ、リボゾームのようだ。それを追い抜く形で、やはり細胞小器官のミトコンドリアが現れた。
顕微鏡で見る、細胞の中の世界はまるで小宇宙のようだ。
その研究員は、初めて超高倍率の光学顕微鏡で細胞を覗いた時の感覚を思い出した。
顕微鏡を見たまま、スケッチを続ける白衣の研究員の隣で、やはりよれよれの白衣を羽織った若い助手が、聞くともなしにつぶやいた。
「でも、あの人、イルカの専門家じゃないですよね?なんでこの調査隊に入ったんですかね?」
午前中、海岸に多数のイルカが打ち上げられているとの通報を受けて、大学の海洋学部のスタッフが現地で調査をした。
血液サンプルを採取する役目は、学外の、しかも研究者でもない若い女だった。
外部スタッフとだけ紹介された女は、てきぱきと仕事をこなし、突然、卒倒した。
助手は、その女の素性に興味津々なのだ。
研究員はそれを無視して、事務的に所見を口にする。その間も接眼レンズから目は離さない。
「バンドウイルカの血液サンプルに目立った異常は無し。死亡した個体の年齢は幼体から老体まであることから、有害物質の蓄積による内蔵機能不全の可能性は低い。いつも通り、死因は判らん」
助手がその言葉をそっくりとカルテに書き込んだ。
「年上好き?」
唐突に言い出した研究者の言葉に、助手はドギマギしながら答えた。
「いやそういう訳じゃないけど」
研究者は顕微鏡を覗いたまま、続けた。
「なんかね、自殺のメカニズムを知りたいらしいよ」
「自殺のメカニズム?」
「恋人が自殺しちゃったんだって。自分の意思とは別に」
「それって自殺というんですか?」
「自分で死んだわけだからねえ。で、まあおかしいと。ほんとだとしても、何かメカニズムがある筈だと」
今年に入って太平洋沿岸に打ち上げられたイルカやクジラは四百頭を超えていた。
イルカたちによる謎の集団自殺行動は東南アジア、オセアニア、アメリカ西海岸南部など世界各地から報告されている。
原因として、海洋汚染や海中を飛び交う潜水艦の超音波など、様々な説があるものの、真相は未だはっきりとは分かっておらず、謎のままだ。
研究員は漠然とだが、恋人の理由の分からない自殺と、イルカの集団自殺のメカニズムを結び付けて調べよう、という女の発想が理解できるような気がした。
(しかし、その集団自殺のメカニズムが分からない)
研究員は、手掛かりを求めて、顕微鏡の倍率を上げた。
染料で着色した小器官のひとつが、宙に浮く赤い目玉のように見えた。
女は生まれたままの無防備な姿で、広い荒野に立っていた。
毒々しいまでの青空と、険しい岩山のある景色は、シュルレアリズムの絵のようだった。
天空には巨大な目玉が浮かんでいた。それは太陽のように当たり前の存在として、世界を見下ろしている。女は、その目玉自身が、神そのものだと確信した。
その巨大な目玉がゆっくりと瞬きをした。
とたんに轟音と共に稲妻が空に走り、青空が瞬時に血の色に変わった。
女は実際に見たことはない筈の光景をはっきりと見た。
どこか異国の軍隊の行進だった。光景は、昔見た映像の記憶ではなく、種としての記憶か、地球そのものの記憶のように思われた。
空には例の目玉が浮かんだままで、自分は凝視されている。
何かの圧力が高まり、空に稲妻が走る。
新たな幻視は原爆のキノコ雲だった。
見上げると、巨大な立体感を持つキノコ雲はいつまでもオブジェのように空にとどまり、地表を覆いつくす人の群れが、その下でただのたうち回っている。
稲妻が繰り返すたび、幻視はその内容を変える。
稲妻は神が決断をした証であり、そのたびに天変地異が起きているらしかった。
今度の天変地異では、大地に広がる街が、端から崖に向かって崩れていく。
川に見えるのは真っ赤な溶岩の流れであり、青白く光る岩からは放電が繰り返される。
異世界の風景だった。
いつの間にか森の中で横たわった女は、自分の体が森の一部に同化していく感覚を味わった。周囲の植物が体に絡み付き、自分の体から養分を吸い取って芽を伸ばす。次第に肉体の感覚は薄れ、意識だけの存在になっていく。胎児のころの感覚と似ている、と思った。
時間の概念は溶けていき、脈絡なく幼いころの記憶が流れ出した。
「豚さん、弟を食べちゃったんだって」
幼い、自分の声が懐かしかった。
「豚さん、そんなこと言ってないでしょ」
「変な事を言う子だよう。気持ちの悪い」
大人たちは口々に女を責め立てる。
どうして大人には動物の考えが分からないのだろう。こんなにはっきり伝えてるのに。
女は次第に考えや感じたことを口にしなくなった。動物の記憶が読めることは、周囲の人間にとっては忌まわしいことなのだと思った。
女は動物たちの哀れな声に耳を傾けた。
養鶏場の鶏たちは極端に感受性が鈍くなっていて、恨みも希望も恐怖も、あまり感じないようだった。哀れな鶏たちを見ていると、いつの間にか自分も檻の中に囚われる存在になっていた。
よく見れば、檻の中にいるのは鶏ではなく、鳥のような姿をした小さな異形の人間たちだった。
天井の闇から黒い手が伸びてきて、次々と異形の鳥人間がつかみあげられる。そのまま無表情につぶされ、畑の堆肥にされる。
異形の人間に姿を変えた女は管理者の黒い手に細い首を締められ、恐怖と絶望に絶叫を上げた。
女は自分の悲鳴で目を覚ました。
激しい吐き気がする。いつもの悪夢だ。
大いなる存在の前で小さな自分が簡単にひねりつぶされるイメージだ。
時計を見るとまだ朝まではかなり時間があったが、また、あの悪夢とも幻覚ともつかない世界に戻るのはまっぴらだった。シャワーを浴びて、施設の前に広がる浜で夜を明かそう、と決心した。
ライターで火をつけると、集めた枯れ枝と乾いた漂流物のごみはたちまち小さな焚火になった。
砂のうえに坐り、ぼんやりと夜光虫を見つめながら、何度も思い出した恋人とのシーンをもう一度なぞった。
あの言葉の中にキーワードがある。
漠然とそんな確信があった。
記憶の中の景色には、一切の風も温度もなかった。作り物のようにうららかな陽光の下で、女は男と並んで草の上に腰を下していた。
男が言う。
「じゃあ、人の手はどうやって形成されるか知ってる?」
どういう流れからかは覚えていない。会話の記憶はそこから始まる。
「手?」
「そう。胎児の手」
女は自分の手のひらを見つめて考える。いうまでもなく体のすべての部分は細胞によってできていて、細胞分裂を繰り返してそれぞれの形や性質になる筈だ。
「細胞分裂して指が伸びるんじゃない?」
「ハズレ。手は最初に細胞分裂してひらベったい肉のうちわみたいになるんだ」
男が自分の手を使って説明し始めた。
「で、どんどんどんどん細胞が増えて、うちわが大きくなって、ある一定の時期が来ると、指と指の間の細胞がそろって自殺し始める」
「自殺?」
「うん。その場所の細胞にはあらかじめ自殺因子が組み込まれてるんだな。そのお蔭で、うちわに切り込みが入って、この手の形になるわけ」
生命の神秘。
何の疑念もなく、うまくできてるもんだ、と感心した。
だが、気付くと男は真顔になっていた。
「でも、当事者はどう感じてるのかな」
そのときはどうとも思わなかった。
当事者、つまり自殺因子を組み込まれた細胞自身ということだ。
細胞に感情などあるわけがない。おかしなことを考えるものだ、と笑いそうになった。
だが・・・・・・
おかしなことだろうか。笑えることなのだろうか。
女は焚火の前で、あの時と同じように自分の掌を見ていた。
理不尽。
男はそういって批判めいたことを口にしたのではなかったか。
生命のしくみは誰あろう神が作り上げたものだ。同じようにその神が作った人間が、神の理不尽さを感じる不思議。
女は、男が死んだ後、急速にそういった神が作った仕組み、というものに興味を持った。何故かはわからないが、それは興味というより使命感に近い、脅迫観念に近い感情だった。
いつの間にか小さくなってしまった焚火に、枝を足そうとしたとき、目の前の波打ち際で何かが動いているのが見えた。
生き物。魚だとするとかなり大きい。もしかしたらイルカかもしれない。
昼間は死にかけたイルカの意識を読み取っているうちに、自分自身が意識混濁に陥ってしまった。でも、まだ意識がしっかりしているイルカなら、もっとはっきりとあのイメージを読み取れるかも知れない。あの、死んでいくイルカ達が持っている、共通した恐怖の対象。その正体を見極めたかった。
女は明かりの代わりに、火のついた枝を手に持った。
特に大きな波に乗って打ち上げられてしまったのだろう。それは一メートル以上もある大きな魚だった。
奇妙な形をした魚だった。
全体的にゴツゴツした大きな鱗で覆われ、ヒレは根元のところがワニの足のようになっている。大昔に栄えた古代魚のように見えた。
イルカの意識を読もうと思っていた女はがっかりしたが、ふと、魚の意識も見えるだろうか、と思いついた。これまで、イルカや犬など、哺乳類の意識しか覗いたことが無かった。何となく、魚や両生類には自我の意識が存在しない、と思っていた。
小型のイルカほどもある魚の体に、恐る恐る触れた。ひんやりと冷たい体には、覚悟していた、魚特有のヌメリは感じられない。
意識を集中する。かすかに魚の心臓の鼓動がわかった。そこから一気に自分の感覚の弁を開く。
精神の行き来をするイメージを作って、相手からあふれ出る記憶や意識を自分に流れ込む様子を想像する。
子供のころは無意識に出来ていたこのやり方だが、他の人にはできない異常な能力だと知ってからは何年も意識を読むことをやめた時期があった。自分が人とは違う怪物のような存在であると認めたくなかった。
そんな時期が何年か続くと、手を触れてもほとんど意識が読めなくなってしまった。そうすると今度は興味が湧いて、どうすれば昔のように動物の意識を読むことができるのか、いろいろと試すようになった。
大学生のころである。
そうしてようやく確立したやり方が、今の手順とイメージづくりだった。
もちろん、いつでも簡単に相手の意識が見えるわけではない。自分に問題があるのか相手に原因があるのかは分からないが、実際にはっきりと映像としての意識が見えるのは数回に一回だ。それも何の映像なのか分からないことがほとんどだ。
魚の鱗に熱が伝わるほど手を当て続けたが、何の意識も、映像も見える兆候がなかった。
落胆して意識を閉じ、手を離した。
そのとき、頭の中に雷のような音が鳴り響き、すさまじい幻覚の洪水が流れ込んできた。すでに手を離しているのに、こんなことは初めてだった。
油断していた女は高圧電流に感電したようにはじき飛ばされ、砂浜に仰向けに倒れこんだ。空が見える。瞳孔がいったん閉じたあと、限界まで開きるのがわかった。
夜空の星がまぶしくて目がくらんだ。
宇宙に浮かぶ地球の周りを、猛スピードで月が回っていた。女の意識は地球からどんどん離れていった。地球が太陽の周りをクルクルと回っているのがわかる。さらに遠くに飛ばされる女の意識は、太陽系自体が大きな渦を巻いた銀河の一部であることを確認した。どこまで離れても、自分たちの世界はさらに大きな世界の中で回っている。これは何と言っただろうか。
そう、確か、フラクタルだ。
いつの間にか視点は、自分の心臓の中に入り込んでいた。立体的に交差する血管の中を丸い赤血球が流れている。これはどこかで見た風景だ、と思った瞬間映像は高速道路を流れる車の群れに変わった。車の群れは続いて細い木の枝を歩くアリの行列になる。驚くほど似た光景だ。
海に面した切り立った崖。はるか遠くまで同じような形状で入江と岬が交互に連なる。リアス式海岸だ。不意に岬の影から巨大なカニが姿を現わす。いや、リアス式海岸に見えたのが足元の小さな岩だったのかも知れない。自分という基準があいまいになると、風景のスケール感が全く分からなくなる。巨大な海岸線と足元の岩が同じ形をしている。
街路樹のように整然と並ぶ大木が、瞬きをした瞬間にそれぞれ1枚ずつの葉っぱに姿を変えている。それに大した違和感が無い。
細胞がジクジクと音を立てて分裂を繰り返し、増殖を続ける。整然と光る細胞質は生命力にあふれている。と、突然、ある範囲の細胞がそろって光を失い、溶けるように消えていく。よく見れば、張りを失った細胞膜が次々と破れ、中身が流れ出すとともに溶けている。自殺細胞だ!今、胎児の指が形成されている瞬間なのかもしれない。
空いっぱいに稲妻が走った。あり得ない高さの津波が大地を覆いつくす。空からそれを傍観する巨大な目。
陸が隆起し、そこかしこに生命の動きが見られる。
魚の形をした生き物が手で獲物を押さえつけ食らいつく。
太陽が空を一瞬で横切り、暗い夜の後、また地平線から上る。その動きが目まぐるしくなり、世界は感知できないほどの速さで昼と夜の点滅を繰り返す空と、東西をつなぐ光の帯に覆われる。
陸上を奇妙な形の爬虫類が歩き回り、海にもクジラのように巨大なトカゲが泳ぎまわる。それをじっと見つめている空の目玉。
これは一体、誰の記憶なのだろうか?細胞の中に受け継がれた、生命に共通の記憶なのか。
目玉が突然見開き、地平線の彼方で核爆発の閃光がきらめく。
女は笑いながら走っていた。何が楽しいのかは思い出せない。子供のように笑っている。ふと見上げると、橋の上から首を吊った男がぶらさがっているのが見える。
「嘘です!だって自殺する理由なんてないもん!」
女は必死で警察官に抗議した。それを撤回させれば、男が生き返るとでもいうように、懸命に自殺を否定している感情を思い出す。
駅の構内でふと、人の流れに取り残される。
止まっている自分の周りを、猛スピードで人が歩き去る。
「当事者はどう感じてるのかなあ」
唐突にに男の声が近くで聞こえた。死んだはずの男がつぶやく。
「理不尽だよなあ」
すべての事柄がゆっくりとつながり始める。
大木と葉。
電子と太陽系。
細胞と宇宙。
すべては同じ形をしている。
自己相似だ。
スケールが全く異なるところに、同じ形、同じ性質のものがある。宇宙全体から見れば、一人の存在など取るに足らないことと同じように、人の目から見れば、細胞の中の小さな器官など無いに等しい。
まったく同じ理由から、人からみて太陽系の消滅は世界の終わりを意味するが、木の葉の細胞の一つにとっては、葉が、風でちぎれて落ちることは宇宙の消滅に等しい。
世界は無限の個と全体によって繋がっている。そしてそれぞれの性質は驚くほど似通っている。
あるスケールの世界では滅亡を意味する出来事が、その上位の世界では、別のものを形づくるための現象であり、そこには何の悲劇性もないのかもしれない。少なくとも絶対者は何の感情も持たず、淡々と仕組みを作り、世界はその仕組みに沿って意義も申し立てず回り続ける。それがたとえ、天変地異や生物の大絶滅、戦争でも構わない。個の悲劇は全体にとってほんの一歩の前進に過ぎない。
ただし、その仕組みを円滑に働かせるためには、個は自分の立場を自覚してはいけない。定められた役目に疑問を持たず、果たさなければならない。もし、生物の体の形を整えるための自殺細胞たちがその役割を拒否すれば、結果その個体は生きられず、細胞たちにとっての宇宙である上位の個体は消滅してしまう。
もしかしたら、人の群れにも細胞と同じように、もっと上位の存在のために自殺因子が組み込まれているのではないか。ある時期が来るとその因子が発動し、個の意思とは無関係に自滅する。それが上位の存在にとってどういう意味をもつか、という事は、下位の存在からは想像もつかない。ただ、謎の自殺、という認識を持つしかない。
彼は、それに気付いてしまったのではないか?自分自身が自殺細胞であることを。
その運命に抵抗することは神への挑戦に等しい。
彼は自ら命を絶ったのではなく、自殺させられる運命に抵抗できなかったのだ。
女は自分が長い間、目を開けていることに気付いた。体中が鈍い痛みを伴ったまま脱力している。
朝焼けの空を見上げた。
毒々しい色の空に月が浮かぶ。
それは、天空から自分を冷たく見下ろす神の目玉を思い起こさせた。
ふつふつと湧いて来たのは恐怖ではなく、怒りだった。
神の意思がどれほどのものか知らないが、その言いなりにならなければいけないなどというのは、あまりに不条理だ。
そんな女の感情に呼応するように、はるか遠い空で、かすかに稲妻が走った。
神がちっぽけな自分の反乱をあざ笑っている、と思った。
女は、浜に転がる砂利をつかみ、手当たり次第に空へ投げつけた。
指先がすりむけて血が出るのも構わず、泣きながらひたすら空へ投げ続けた。
翌日、スタッフは朝から車で別の海岸へ向かった。車内テレビには今から向かおうとしている現場のニュースが流れていた。
「中国各地に広がっているイルカの集団自殺に続き、上海ではイルカ以外の海洋性哺乳類も大量に死んでいるのが見つかったという情報が入っています。海洋生物に詳しいXXX教授によると、工場廃液の影響などとは考えにくいという事ですが、具体的な原因については今のところコメントするだけの情報が……」
「都内では時期外れの世紀末思想を唱える新興宗教団体の活動が活発になるなど、野生動物の謎の行動は人々の不安をかき立てています。一方、今年これまでの国内における自殺者は三万二千六百二十九人で、これは、最も数が多かった昨年に次ぐペースですが、著しい特徴として、自殺者の年齢が子供からお年寄りまで偏がない点、従来のような生活苦などの明確な理由が見当たらないケースが非常に増えているという点が指摘されています」
女はニュースを聞きながら、現場に到着した。先に現地に入って状況を確認していたスタッフから説明を受ける。約百メートルに渡って、十数頭のイルカが打ち上げられているらしい。
さっそくサンプル採取班と、砂浜に穴を掘る埋葬処理班に分かれ、浜に散った。
女は、手際よくクーラーボックスから採血セットを出し、イルカの死骸に付けられたタグを確認して、注射針をセットした。
その時、はっきりと誰かの視線を感じた。
スタッフや海岸にいる他の人のものではない。
女は視線の元を探り、空を見上げた。
すばらしい青空だった。冷たい視線はそのはるか上から注がれていた。
邪悪な神の視線だった。
女はぞっとするような恐怖を飲み込み、空を睨みかえした。
上位の存在にとって下位の存在は取るに足らないものかも知れない。でも、その下位の存在があってこそ、上位の存在は存続を許される。つまり、神と自殺細胞は対等であるべきなのだ。
それが、女の出した結論だった。
決して、神の意のままに操られ、犠牲になるだけの存在ではない筈だ。
たとえ、自分を取り巻く世界のすべてが、巨大な胎児の指を形づくるための、小さな自殺細胞の一つであっても、あきらめずに抵抗してやる。
「私は認めない。絶対に」
女が睨みつけた空の果てで、かすかに稲妻が走った。
それは神からの警告かもしれなかったが、女は空を睨み続けた。
終