第111話 プラスの線
次に気がついたとき、私は誰かの腕の中にいた。ゆらゆらゆれていて、横で、
「気をつけてね、桐太君」
という聖君のお母さんの声が聞こえていた。
「俺、聖呼んでくるよ」
葉君の声もする。目を開けると、桐太の顔が見えた。ああ、桐太、私をリビングのソファーまで、運んでくれたんだ。
「あ、桃子、気がついた?大丈夫?」
「菜摘。私?」
「いきなり倒れたのよ」
聖君のお母さんがそう言うと、
「タオルケット持ってくるから、しばらくソファーで休んで」
と2階にあがっていった。
「大丈夫なのかよ?」
桐太が聞いてきた。
「ありがとう。ここまで運んでくれたんだ」
「桃子、軽すぎる。最近、食ってるか?ちゃんと」
「夏バテみたいなんだ」
本当のことは言えず、私はそう言った。
「まじで、大丈夫かよ。まったく、桃子がこんななのに聖のやつ、あんな麦女と出て行きやがって」
「聖君、私が具合悪いの知らないから」
「知らないって、おかしいんじゃないか?一目見てわかったよ、顔色悪いの」
「……」
「兄貴、まだかな」
「菜摘…。私やっぱり、聖君に会いたくないし、話したくない」
「え?」
えって驚いたのは、桐太だった。それにちょうどタオルケットを持っておりてきた、聖君のお母さんも、
「聖と何かあったの?」
と聞いてきた。
「いえ、あの」
「あのやろう、桃子が悲しむようなことでもしたのかよ」
桐太は怒り出した。
「違うの。本当にそうじゃなくって」
「あの女のせいだろ?麦女の」
「違う」
そこへ、思い切りドアを開け、聖君が店に飛び込んできた音がした。
「桃子ちゃん?」
リビングまで靴のまま、走ってきて途中で靴を脱ぎ捨て、
「何?どうした?倒れたって、どうして?」
と、私のまん前に駆け寄った。
「見りゃわかるじゃん。顔色悪いの」
桐太がそう言った。
「ほんとだ。真っ青だ。貧血?」
私は、聖君の顔が見れなかった。
「そうだよ、なのにお前、のんきにあの麦女送りに行ったりして、何やってんだよ」
「ごめん、気づかなかった」
「俺でも気がついた!」
桐太は、聖君にまだ怒っていた。
「ごめん、あ、でも店で倒れてから、どうしたの?誰がここまで」
「俺が、桃子が倒れる寸前、腕に抱きとめて、運んだんだ。すげえ、桃子って軽いんだな」
桐太は聖君にそう言った。
「桐太が?」
聖君は、一瞬黙って、桐太の方を睨みつけていた。
「なんで睨むんだよ。お前がいたらお前がそうしただろうけど、お前、麦女といたんだから、しょうがないだろ?」
桐太はそう、睨み返しながら聖君に言い放った。
「サンキュー、桐太。でももう、俺がいるからいいよ。店戻って。あ、葉一も、菜摘も大丈夫だからさ、店行ってても」
聖君は少し表情を和らげてからそう言って、みんなのことを追い払おうとした。でも私はとっさに、桐太と、菜摘の腕をつかんで、
「ここにいて」
と言ってしまった。
一番驚いたのは、聖君だった。
「桐太も、ここにいて」
私はそう言うと、桐太の腕をぎゅって握り締めた。
「え?いいけど」
桐太はそう言って、しゃがみこみ、菜摘も私のすぐそばに座った。
「聖君は、お店の手伝いしてて」
私は小さな声でそう言うと、聖君は、
「え?」
とますます、目を丸くして驚いていた。
「聖、桃子ちゃんもそう言ってくれてるし、店のほうをお願い」
聖君のお母さんがそう言った。
「え?でも、俺…」
聖君は私の顔をじっと見た。私は視線を合わせないようにして、まだ桐太の腕をつかんで離さないでいた。
「……」
聖君は無言のまま、リビングを出て行った。
はあ。私は思い切り、ため息をついた。その場には、菜摘と桐太が残っているだけだった。
「まじで、聖と何かあったのか?」
桐太は私の顔を覗き込み聞いた。
「ううん」
と言ってから、ぼろぼろと涙が出てしまった。
「桃子?」
桐太は不思議がった。その横で、菜摘が心配そうに、
「大丈夫?」
と聞いてくれた。
少しして、聖君のお母さんがやってきた。
「今、朱実ちゃんが来たし、店のほうは聖に任せちゃった。桃子ちゃん、大丈夫?」
「はい。すみません、私」
「ううん、うちはいいんだけど、ずっと具合も悪いって連絡くれてたし、それなのに聖ったら、桃子ちゃん今日呼んだんでしょう?ほんと、あの子ったら」
「違うんです。私、具合が悪いこと、聖君には言ってなくって」
「どうして?」
「心配かけたくなくって」
「…彼氏なのにか?」
桐太は聞いてきた。
「……」
私は黙り込んだ。
「桐太、うるさい。桃子には桃子の悩みがあるの」
菜摘がそう言った。
「何?悩みって」
桐太が聞いてきた。
「そ、それはあんたには、言わないわよ」
菜摘はそう桐太に言い返した。
「なんだよ、それ、俺には言えないことか。あ、聖にも言えないことか?」
桐太はむっとしてそう言った。
「桃子ちゃん、そんなにずっと具合が悪かったら、病院いって診てもらったほうがいいんじゃない?」
聖君のお母さんにそう言われた。
「え、でも夏バテぐらいでは」
「お母さんはなんて?」
「貧血だって言ったら、鉄分の多いものを食べなさいって、そう言ってただけで」
「だけど、貧血が続くようなら、ちょっと診てもらったほうがよくない?」
嫌だ。そんなことをして、もし妊娠してたら、ばれてしまう。
いや、もし妊娠してたら、いつかは病院に行かないとならないんだ。
「ちゃんと食べろよ。食べたらもっと、元気になるって」
桐太がそう言った。
「食欲でないんだ。それに、ご飯とか、気持ち悪くて」
「え?」
「食べると吐くときもあって。なかなか…」
私がそう言うと、桐太は、
「胃にきてるのか?冷たいものの飲みすぎか?」
と聞いてきた。
「ご飯が駄目なの?他は?」
「え?」
「何か食べれないとか、逆にこれなら大丈夫とか」
「あ、そうだよ。大丈夫なのがあれば、それ食ってりゃいいじゃん」
「桐太、うるさい。今、聖君のお母さんが質問して、桃子が答えてるから、邪魔しないで」
菜摘が桐太を黙らせた。
「何が食べれるかって言うと、何かな。トマトとか、果物や、サラダくらい」
「お味噌汁や、お魚、お肉、他には、スープ類や、そういうのは?」
「味噌汁、駄目です。お魚もなんだか、食べれない」
「そう」
聖君のお母さんはそう言うと、
「立てる?桃子ちゃん、ちょっとこっちに来て」
と私の背中を支えながら、私をバスルームのほうに連れて行った。
バスルームに入ると、小声で、
「もしかして、貧血ってことは、今、生理かな?」
と聞いてきた。
「いえ」
「じゃ、生理が逆にきていないとか?」
ドキ!今、心臓が飛び出す勢いでびくってなった。
「遅れてるの?」
ああ、私また、顔に出ちゃったんだ。
「はい」
私は正直に答えた。
「これ、隣にトイレがあるんだけど、そこで、調べてみて」
洗面所の引き出しの中から、お母さんは袋を出し、そこから長細い箱を取り出した。
「これは?」
「妊娠検査薬」
「え?」
また心臓が飛び出るかと思った。
「念のため、杏樹のために買ってあったの。まだ早いとは思ったんだけどね」
「……。これ」
「使い方は中に説明書があるから。終わったら、私ここにいるから、持ってきて」
お母さんはすごく優しい声でそう言い、その箱を手渡してくれた。
心臓がばくばくいう。でも、ここで嫌ですとは言えないし、逃げ出せない。私は勇気をふりしぼり、トイレに入っていった。
説明書を読んだ。ああ、陽性だと、プラスの線が出るのか。
どうか出ませんように。出ませんように。そう何度も心の中で願った。
トイレで、目をつぶり、なかなか目を開けられなかった。だけど、時間ばかりが過ぎていき、今もお母さんは私を待ってるんだと思うと、こうやって、ずっと目をつぶってるわけにはいかないと、私は意を決して目を開けた。
「!!」
プラスだ。ああ、陽性だ。どうしたらいいんだろう。
ガク…。また力がなくなり、トイレに座り込んでしまった。その音で、お母さんが、
「桃子ちゃん、大丈夫?中で倒れてない?」
と心配して来てくれた。
「だ、大丈夫です。今、開けます」
私はよろよろと立ち上がり、ドアを開けた。
「バスルームに行きましょうか」
お母さんは、誰にも聞かれないようにと、気を使ってくれてるようだ。
「見せて」
そう言われ、私は手を震わせながら、お母さんに妊娠検査薬を渡した。
お母さんは黙ってそれを見ると、
「生理がないこと、聖は知ってるの?」
と聞いた。
「いえ、菜摘しか知らない」
「じゃ、お母さんも?」
「はい」
「そう。だいぶ遅れてたの?」
「2週間」
「そう、じゃあその間、すごく不安だったでしょう?」
そう優しく言われ、私は声をあげて泣き出してしまった。
「大丈夫よ、桃子ちゃん、大丈夫。でもそれで、具合も悪かったのね」
と、お母さんは優しく抱きとめ、私の背中をさすってくれた。
「わ、私、どうしたら」
「そうね。まずは、聖にちゃんと告げることかしらね」
「え?」
私は体が一気に固まった。
「言うの、怖い?」
お母さんが聞いてきた。私は黙って、こくんとうなづいた。
「そうよね、わかるわ。まるで18年前の私を見てるみたいよ」
「え?」
「私もそうだったから」
「……」
ああ、そうか。それも聖君のお母さんは、前の彼氏との間にできた子だったわけだし、もっと苦しんだかもしれないんだ。
おろそうと考えたこともあったんだよね、聖君が言ってたっけ。
「ソファーに戻って休む?」
「はい」
お母さんは私を支えながら、リビングに行き、私をソファーに座らせた。
菜摘は心配そうに私を見た。桐太はそこにはいなかった。
「うっせ~よ!お前にとやかく指図されられる覚えはない」
いきなりの聖君の怒鳴り声が店から聞こえてきた。
「あら、大変」
お母さんが慌てて、お店のほうへ、駆けていった。
「ああ、だから言わんこっちゃない。喧嘩始まったじゃん」
「え?」
菜摘の言葉に、私が驚くと、
「桐太がね、聖が桃子を苦しめたんだって、ちょっと聖をとっちめてやるって、お店のほうに行っちゃったんだよね」
「ええ?」
「わけも知らずに、兄貴を責めないでよって言ったんだけど、それも聞かずに行っちゃったんだよね、あいつ」
「……」
どうしよう。
「あ、お母さん、なんだったの?バスルームに行ってどうした?もしかして吐いちゃったの?」
菜摘が聞いてきた。
「ううん」
私は言うかどうか迷ったけど、菜摘には心配もかけてるし、正直に話すことにした。
「お母さんが察して、妊娠検査薬で調べてみてって言ってくれて」
「ええ?!」
菜摘はものすごく驚いていた。
「それで?」
「陽性だった」
「っていうことは、妊娠してるの?」
私は黙ってうなづいた。
「お母さんに見せた?」
「うん」
「お母さん、なんて?」
「聖君にちゃんと言わないとねって」
「……」
菜摘は黙り込んだ。
「だから、聖、そんなにかっかしないで」
お母さんが聖君をなだめている声が聞こえた。そして、
「ちょっとこっちで頭ひやしなさい。今はお客がいないからよかったけど、店であんな喧嘩なんて始めないでくれない?」
お母さんは聖君の背中を押しながら、聖君をリビングに連れてきた。その後ろから、桐太もやってきた。
「さ、ここで座って、落ち着きなさいよ。本当にあんたはもう。それにね、聖!」
お母さんは、私を一回見てから、聖君のほうを見て、
「落ち着いたら、ちゃんと桃子ちゃんの話を聞きなさい。それも落ち着いてね!こんなことで怒ったり、頭に血が上ってる場合じゃないんだから、しっかりしなさいよ」
と、ちょっときつい口調でそう言った。
「さ、菜摘ちゃんも、桐太君もお店のほうへ行きましょう。コーヒーでも入れるから」
お母さんは菜摘と、桐太をお店の方へと向かわせると、またこっちを向いて、小声で、
「聖、ほんとあなた、これから起きることを、ちゃんと受け止めてね。ショックなのは桃子ちゃんのほうなんだからね、わかった?」
と聖君に耳打ちした。でも、それが私のところまで聞こえてしまっていた。
聖君はそれを聞き、一瞬顔を青ざめさせた。それから私を見ると、すぐに視線をそらし、黙り込んで座った。
しばらく聖君は、そっぽを向いていた。そして、うつ向き、はあってため息をした。
「俺より、桃子ちゃんがショックなこと?」
小声でそう言ってから、
「思いつかねえ。俺がショックを受けることなら、思いつくけど」
とぽつりと言った。
え?なんだろう。でも、私は何も言えずにいた。心臓がばくばくなのに、血の気がひいていく。また、気を失いそうだ。
「俺が、合宿に行ってる間に、何かあった?」
「え?」
「何か、桐太とあったの?」
「ううん」
「……。じゃ、なんで桐太と仲いいの?」
「え?」
仲いい?
「なんで、俺じゃなくって、さっき桐太の腕をつかんだんだよ」
聖君がこっちを見た。怒ってる声だから、顔も怒っているかと思ったら、泣きそうな顔をしていた。
「あいつ、麦ちゃんと俺のことばっかり責めたけど、それが原因?」
「……」
「麦ちゃんだったら、なんにもない。そりゃ、駅まで送っていったけど、それは疲れてるのに今日も手伝ってくれたからさ、母さんだってそれを思って、送ってあげてって言ったんだし、それをとやかく言われてもさ」
聖君が頭を掻き、それからまたそっぽを向き、
「それより、あいつの方がずっと、桃子ちゃんに接近してるじゃん」
とそう、投げやりな感じで言った。
「え?」
私が聞き返しても、聖君は何も言わずに、いきなり立ち上がると、その場をうろうろと歩き出した。
それから立ち止まり、頭を抱え、深いため息をした。
「俺、受け入れられないから」
「え?」
何を言ってるんだろうか。私が妊娠したことを知ってそう言ってるの?
「母さんが受け入れてって言ってたけど、絶対に無理」
「……」
妊娠のこと?
いつ知ったの?わかったの?それとも違うことに対して言ってるの?
でも聞けない。怖い。これ以上聞くのも、話すのも。
聖君は下を向き、またため息をついた。それから頭をぼりぼりって掻く。そこには重苦しい空気だけがあり、その場から私は、今すぐにでも逃げ出したくなっていた。