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バグ

作者:山田結貴
SF要素が弱めなので【S・少し奇妙なF・フィクション】とさせていただきます。
 俺は一人、腕時計が差し示す時刻を気にしながら家路を走っていた。
 既に夜更けということもあってか、人通りはほとんどない。辺りに響くのは俺の足音だけだ。
「早くしないと……」
 今日は、今年高校生になった娘の里奈りなの誕生日だ。しかし、それもあと少しで終わってしまう。
 いつも残業ばかりで、ろくに妻や子供達と顔を合わせることすら叶わない。だから、記念日くらいは一緒に過ごしてやりたい。頭の中ではそう思っていたものの、現実ではこの有様だ。
「あっ」
 こんな時に信号に引っかかるとは運が悪い。しかし、いくら急いでいるとはいえ赤く点灯するランプを無視するわけにもいかないため、いったん立ち止まる。
「せめて、今日中にはこれを」
 手に持っている鞄の隙間から、きれいにラッピングされた小さな箱が見えている。時間の合間を縫って、この日のためにどうにか用意した誕生日プレゼント。一刻も早く、手渡してやりたい。
 時計と信号を交互に確認しているうちに、ようやく青いランプが点灯した。
 俺はよく左右を確認し、横断歩道を駆け抜けようとした。その時だった。
「……!」
 一瞬、何が起きたのか全くわからなかった。静寂をかき消すけたたましいエンジン音が耳にこびりついたかと思うと、俺の身体はいつの間にやら宙に放り出されていた。
「うっ……」
 抵抗する間もなく固いアスファルトに叩きつけられ、今まで感じたことのないような痛みが全身に走った。意識がもうろうとし、身体の自由も効かない。
 そんな中で、俺は必死に目だけを動かして、共に投げ出されたはずの鞄の行方を追った。
 鞄は俺と同じように、地面に無残な姿で転がっていた。中身は衝撃でぶちまけられたのか、辺り一面に散乱している。
 俺はその中にあるはずの、娘へのプレゼントが入った箱を探した。それは、俺の右手の近くでボロボロに変形していた。
 手を伸ばせば届く。しかし、手は思うように動かない。
 ふと、生暖かく気色の悪い感触を覚えた。俺の身体からにじみ出るそれは、錆びついた鉄に似た匂いを発しながら、アスファルトを濡らしていった。
 ほとんど動かない右手よりも先に、赤い液体の方が箱に辿り着いた。かすんでいく視界の中で、箱がじわじわと赤く染められていく……。

「あなた、起きて。あなたったら」
 あれ? 俺は一体どうなったんだ。
 不思議に思いながら目を開けると、妻の理美さとみが心配そうにしている顔が映った。
 どうやらここは、病院などではなく自宅の寝室らしい。
「あなたが時間通りに起きてこないなんてめずらしいわね。目覚まし時計をかけ忘れるなんて」
 あれは全て夢だったのか。いつも起きてくる時間になっても俺が眠りこけているものだから、起こしにきてくれたというわけか。
 ……だが、あの夢。身体に走った衝撃も、何とも形容しようのないほどのない痛みも、やけにリアルだった。特に、肌にじっとりとこびりついた血の感覚といったら思い出すだけで背筋が凍りつきそうだ。いい年をして悪夢に怯えるはめになるとは。何だか情けない。
「朝ご飯、もう子供達は先に食べてるわよ。あなたも、早く起きてきてね」
 そう言って、理美は部屋から出ていった。
「……起きるか」
 あんな夢を見たせいか、どうも節々がギクシャクする。しかし、いつまでもこうしているわけにもいかない。
 いつもより重く感じる身体を強引に起こし、布団から出てリビングへと向かった。
「おはよう、父さん」
 リビングに着くなり、息子のすぐるがこちらを向いて言った。こんがりと焼かれたトーストにジャムを塗りながら、美味そうにほおばっている。
「おはよう。あれ、里奈は?」
 いつもは朝のニュースを見ながらゆっくりしている里奈の姿が、どこにも見当たらない。
「何言ってるの。里奈は朝から部活の練習。さっさとご飯を済ませて、学校に行っちゃったわよ」
「姉ちゃん、朝から大変だよな。ま、俺は朝練がない分、夜まで部活に打ち込んでることも多いけど」
 ああ、そういえばそうだったか。理美と優に言われるまでど忘れしていたが、里奈は最近朝が早いんだった。
 納得しながら食卓の席に着き、俺は妻が用意してくれた朝食を摂り始めた……が。
「……?」
 俺がコーヒーをすする姿を、何故だか優がじっと見ている。普段はこっちのことなんてそっちのけで、テレビに出ている美人キャスターばかり眺めているというのに。
「優、俺の顔に何かついてるのか」
「い、いや。別に」
 優は素っ気なく答えると、そのまま顔をそむけた。まあ、中学生ともなるとそろそろ年頃でもあるし、こういった態度をとられても仕方がないか。
 少しばかり首をかしげて悩んでいたところ、今度はキッチンの方から視線を感じた。目を向けてみると、理美まで俺のことを凝視しているではないか。
「どうした。何か、言いたいことでもあるのか」
「えっ、あの、別に……そ、それより。あなた、時間は大丈夫なの? 急がないと、電車が」
「あっ」
 壁に掛かっている時計を見ると、いつも家を出る時間が刻々と迫っていることに気がついた。
「時間が……」
 俺は結局朝食にほとんど手をつけないまま、慌てて身支度をし始めた。
「はい、お弁当。忘れないでね」
「あ、ああ」
 ドタバタと最低限の身支度を整えながら理美から弁当を受け取った時、ふとテレビの一コマが目に止まった。
「え?」
 番組は確かに、今日の日付が娘の誕生日の一週間後であることを伝えていた。
 おかしい。俺の記憶が正しければ、今日は里奈の誕生日の翌日であるはずだ。
「どうかしたの?」
 理美が、食器を洗いながら心配そうに尋ねてきた。
「あのさ、今日って何日だっけ」
「えっ。きょ、今日は……」
 理美はキョトンとしながら、俺にテレビで流れていた日付を告げた。
「それは、間違いないのか」
「な、何言ってるのあなた。大丈夫?」
 俺の記憶が狂ってしまったのだろうか。昔から、日付や曜日の類を間違えたことは一度もなかったのだが。
 食卓テーブルの端に置かれている新聞を注意して見てみる。その日付もまた、今日が娘の誕生日から既に一週間以上経過していることを示していた。
「ボケたのかな……?」
「夢と混ぜこぜにでもなってるんじゃないの」
「夢と、ねえ」
 確かに、今朝は思い出すのも嫌なくらいに生々しい夢を見た。言われてみれば、その夢の舞台は里奈の誕生日の深夜だった。そのせいで勘違いしてしまったのだろうか。
 ……いや、いくら夢がリアルなものだったからって、一週間も日付を間違うなんて。やっぱりボケてしまったのだろうか。
「あ、あなた。日付を間違うなんてよくある話なんだから、そんなに悩まなくても。それより、時間が」
「時間? うわっ」
 色々考えているうちに、無情にも時間は過ぎていた。急がなければ、まずいことになる。
 俺は取り乱しながら家を飛び出し、普段から利用している最寄りの駅へと向かった。

 間一髪、いつも乗っている時刻の電車に飛び乗ることができた俺は、どうにか会社に遅刻するという失態を犯さずに済んだ。
 それはいいのだが、何だか社内の雰囲気が変だ。何故だかよくわからないが、皆注目するかのように、俺のことをじっと見ているような気がしてならない。
「別に、目立つ方でもないはずなのにな」
 普段は周囲からの視線なんて気になるどころか、浴びる機会すらないというのにな。
 甚だ疑問に思った俺だったが、こんなのはまだ序の口だった。
「?」
 周囲の視線に耐えながら職場に着いたはいいが、その雰囲気の異様さはさらに増す一方だった。俺の姿をとらえるなり、同僚達は皆、石化したかのようにぴたりとその動きを止めたのだ。
 そう。まるで化け物だとか、その辺の類のものでもいきなり目に飛び込んできたみたいな、どこか怯えた顔つきをしながら。
「こ……小暮さん、ですよね」
 そんな中で、部下の一人がおそるおそるといった様子で俺の名を呼んだ。声は緊張でもしているのか、微かに震えている。
「それ以外の何だっていうんだ。ふざけないでくれ」
 度重なる理解しがたい態度の数々に、俺は苛立ちを募らせながら自分のデスクについた。
 落ち着かない心境のまま仕事には取りかかったものの、異様な雰囲気にのまれて全く職務に集中することができない。少しばかりこちらを見る視線が和らいだかと思うと、同僚達の数がまばらになっていた。どうやら、いつの間にやら昼時になり、どこかに食事をとりに出かけたらしい。
「視線がなくなったかと思ったら、単に人が減っただけだったのか」
 今頃、他の奴らは社員食堂にでも行っているか、外食に出かけたかのどちらかだろう。でも、俺には理美が持たせてくれた弁当がある。早速それを広げて食べようとした……が。
「……?」
 その途端、またもどこからか俺に注がれる視線を感じとった。振り向くと、そこには部下の一人である佐々木が立ったまま、こちらを凝視していた。その目は先程まで感じていたものとは微妙に質が異なる。先程の視線が怯えているような印象を与える物であったと例えられるならば、これは好奇に満ちた目といった感じだろうか。そんな目で人に見られる覚えなんて、これっぽっちもない。
「何だ。どうかしたのか」
「あ、いや、ええと……その。お弁当、食べるんだなあと」
「……は?」
 何なんだ、この人を小馬鹿にしたような質問は。佐々木は真面目な奴で、今までこんなふざけたことを尋ねてくることは一度もなかったはず。
 佐々木の発言があまりにも馬鹿げていたせいか、ちらほらこの場に残っていた奴らが、俺の顔色を伺いながらどよめいている。
「あのさ、さっきから一体何だっていうんだ。もしかして、俺は何か変なことでもやらかしたのか」
 やんわりとした口調で聞いてみたはいいが、俺としてはこのような態度を立て続けにとられるようないわれは全くもってないつもりだ。だが、どういうわけか日付を一週間も勘違いしてしまうくらいだ。もしかしたら、心当たりがないと思いつつも、職場に流れる異様な雰囲気を作った原因を自分で忘れてしまっているだけなのかもしれない。
 そう考えて尋ねたはいいが、肝心の佐々木は額に冷や汗を浮かべながら首を小刻みに振る一方だった。
「い、いえ……小暮さんは何にも悪くないんです。べ、別に……ただ」
「ただ?」
「なっ何でもありません! 自分、外で食事をしますので、これで」
「あっ」
 結局真相がわからないまま、適当にはぐらかされた挙句に逃げられてしまった。
 もやもやとした気分が胸に残るが、一連の出来事を見ていた周囲が打って変わって俺から極端に目をそむけるようになった以上、誰からも答えを聞き出すことは出来そうもない。
 溜め息をついてから、俺は一人、首をかしげながら弁当を細々と食べ始めた。

 会社での扱いはさんざんであったが、家路につく頃にはすっかりどうでもよくなっていた。今日はめずらしく残業に時間を費やす必要がなく、定時で退社することができたからだった。
「ただいま」
「お帰りなさい」
 玄関のドアを開けると、理美が笑顔で迎えてくれた。
「早く帰って来られたの、久し振りなんじゃない?」
「今日が早かったというよりは、普段が遅すぎるんだよ。あーあ、できることならいつもこれくらいに帰って来られたらいいんだけどな」
 理美との他愛のない会話。特に意味があるわけでもないが、何となく心が癒される。思えばこんな話をする時間すらも、最近はとれていなかった気がする。俺が帰ってくるころには、皆はもう布団の中ってことが多かったからな……。
「あ、お父さん。お帰りなさい」
「父さん、早かったね」
 リビングに着くと、夕食の支度を手伝っている里奈と優が順に言った。
 それは別にかまわないのだが、里奈がいつもより俺のことをじっと見ているように思えるのは気のせいだろうか。
「あなた、もうすぐ支度ができるから、部屋で着替えてきたら?」
「あ、ああ」
 俺は娘の目が気になりつつも、一度自室に向かって部屋着に着替え、再びリビングに戻った。
「父さん、早く」
「ああ」
 準備はすっかり整い、皆は既に各自の席に着いていた。
 俺も必然的に空いている、いつも座る席に腰を下ろした。
「いただきます」
 そしてまもなく、家族全員そろっての食事が始まった。
「お、今日のポテトサラダ超美味しい!」
「そりゃあ、美味しいに決まってるでしょ。だって、このあたしが手伝ったからね。優、このお姉様に感謝して食べなさいよ」
「手伝ったっていったって、姉ちゃんは芋の皮をむいただけだろ。それだけで美味しくなるわけがないだろ」
「失礼ね! 料理は愛情が大事なの。愛情を込めて作れば、美味しくなるものなの」
「愛情込めて芋の皮をむいたところでなあ」
「何よ、可愛げがないわね。ねえ、お母さんも愛情が大事だって思うよね?」
「ええー。姉ちゃん、結構滅茶苦茶なこと言ってない?」
「さあ、どうかしら……」
 このくだらないようで、どこか滑稽なやりとり。これを聞くのも本当に久々だな。
 例え俺がたまたま早く帰れる日があった時でも、大体は里奈か優のどちらかが学校の都合でいないことばかりだった。だから、本当に……ん?
「里奈?」
「えっ」
 あれだけ楽しそうに優と話をしていた里奈が、途端に食事をする手まで止めてこちらを見ている。先程、夕食の手伝いをしているところを通りかかった時と同じように。
「どうかしたのか」
「べ、別に……」
 一応聞いては見たものの、何とも素っ気ない返事をされてしまった。
 まあ、年頃の娘に声をかけても普通はこんな答えしか返ってこないものなのだろうし、仕方のないことか。特に俺は、仕事の都合上家族との時間をあまり多く確保できていなかったしな。無視されないだけ、多分マシな方なのだろう。
 あ、そういえば、里奈に一つ確かめたいことがあるんだったな。ちょうどいい。今、この場で聞いてみるとするか。
「あのさ、里奈」
「な、な、何?」
 里奈はどこか怯えたような目をして、肩をビクッとすくめる。何も、そこまで嫌がらなくてもいいような気がするのだが。
「あのさ、お前にプレゼントってあげたっけか」
「何の?」
「ほら、誕生日の奴だよ。一週間前……の」
 俺は日付を勘違いした理由の他にも、どうしてもこのことを思い出すことができなかった。あれだけプレゼントに執着していたくせに、何も思い出せないなんて。一体、俺はどうしてしまったのだろう。
「……」
 里奈はそんな俺に呆れてしまったのか、口をつぐんでうつむいてしまった。
 流石に今の質問はまずかったか。そう思った直後、里奈は急にクスリと笑った。
「お父さんったら、忘れちゃったの? ほら、これ見てよ」
 そう言いながら、服の袖をまくって左腕につけている腕時計を見せてくれた。それは紛れもなく、俺が里奈に渡そうと考えていたプレゼントそのものだった。
「あの日、早く帰るって約束してたのに、結局お父さん帰るの遅くてさあ。みんな先に寝ちゃったんだよね。で、朝起きたらあたしの枕元にこれが置いてあったの」
「そう、だったか?」
「そうだよ。もう、しっかりしてよね」
 ……駄目だ。全然思い出せない。俺は、そんなことをしたんだっけか。
「いいよなあ。姉ちゃんはこんないい時計買ってもらったりなんかしてさ。父さん、俺の誕生日にも、何かいいもの買ってよ」
「え?」
 確かに。里奈にだけいいものを買ってやっておいて、優に何もしないわけにはいかないか。
「もちろん、お前の好きな物を買ってやるよ。何がいい?」
「えーっと、じゃあ。うーん……まだちょっと、浮かばない」
「おいおい。自分からねだっておいてそれはないだろ」
「誕生日までには絶対決めておくから。俺にも何か買ってよ。約束……だからな」
「あ、ああ」
 他愛のない約束をしただけなのに、どうしてこんなに険しい顔をする必要があるのだろうか。そんなに、里奈のプレゼントがうらやましかったのか? いや、優に限ってそれはないな。優は欲しいものは自分で小遣いを貯めて買うタイプだし、しきりに人に物をねだるようなことはしない。
 やっぱり、今日は何かがおかしい。家庭の中でも、会社でも。まるでみんな何かを隠しているような。そんな気がしてならない。
「なあ。何か変じゃないか?」
「えっ」
 俺が呟くと、皆が一斉にこちらを向いて目を丸くした。
 これは、絶対に何かある。確信した俺は、思い切って再び口を開いた。
「自分ではよくわからないんだが、もしかして何かあったのか。俺には、全然心当たりがないんだが……」
「そ、そんな……ねえ? 食器片づけてこないと」
「ご、ごちそうさま。俺は、先に風呂に入ってくるかな」
「あ、あたし。明日までの宿題があるんだった。残りは部屋で勉強しながら食べよーっと」
「あ、ちょっ……」
 まるで話をはぐらかすように、皆は適当な理由をつけて散り散りになっていってしまった。
 俺は何か、触れてはいけない問題にでも首を突っ込んでしまったとでもいうのか?
 今朝から、どうも気分がスッキリしない。会社でも、我が家でも。

 就寝準備を終え、俺は布団の中で考え事をしていた。
「記憶がないから勘違いしたんだよな」
 そう、記憶。日付を勘違いしたもの、里奈に腕時計を渡したかどうかを判断できなかったのも、記憶が欠落しているから起きたことだったのだ。
 里奈の誕生日から、昨日までの一週間。この期間の記憶が、すっぽりと抜けてしまっている。それは、何度頑張ってみても思い出せない。
 その代わりに頭に浮かんでくるのが、今朝の悪夢。急いで帰宅する途中で、何かにはねられて意識が遠のいていく、凄惨で生々しい夢。本当に身に降りかかったわけでもないだろうに、今でも鮮明に思い出すことができる。
 はねられた時の衝撃も、アスファルトに叩きつけられた時に感じた痛みも、錆臭い血の匂いも、全て。夢なんて、起きてすぐに忘れてしまうはずのものなのに。
「ブツブツ言っていても仕方ないか」
 頭を使い過ぎたのか、徐々に睡魔が襲ってきた。
 もう寝坊ごときで迷惑をかけるわけにもいかないしな。
 俺は枕元にある目覚まし時計のアラームを確認してから、ゆっくり目を閉じた。

 金縛りにでもあってしまったのか、身体が動かない。
 目は開いているのか、辺りの景色はかろうじて確認できる。だが、質の悪いビデオカメラでも通しているかのように、視界がところどころちらついている。しかも、ノイズのような雑音まで聞こえてきて、とても不快だ。
 どうやら俺は、何かの上に寝かされているらしい。そして、その視線はずっと天井に向けられている。
 一体これは、どういう状況なのだろう。もしかして、夢なのか? でも、身体が動かない以上、頬をつねってそれを確かめることもできない。
「どう……す? よく……で……しょう?」
 どこからか声が聞こえてきたような。しかし、ノイズがひど過ぎて何といったのかまでは聞き取れなかった。多分、男の声だとは思うのだが、聞き覚えがない。
「本当……よく……て……ます」
 誰かの影が、俺の顔の前に差す。視界がぼやけていて、その正体を判断することはできない。でも、この声は……理美か?
「ご……うりょ……いただき、本……に感……し……す」
 最初の声の主と思われる男が、視界に入ってきた。白髪頭であることはどうにか把握できるが、これ以上のことはわからない。
「見せてっ」
 はっきりとした声を聞き取ったのと同時に、俺のことをのぞき込む顔がまた一つ増えた。これは多分、里奈だ。
「……と……さ……だ」
 うう、気持ちが悪い。ノイズが激しさを増して、もう何と言っているのかすら把握できない。
「……っ……」
 俺の顔の前に映る影が、また一つ増えた。これは、優だろうか。
 依然として視界はぼやけたままだが、俺をのぞき込む顔がどんな表情を作っているのかは何となくわかる。
 どこか嬉しそうで、それでいて悲しそうな顔。どうしてそんな目で、俺のことを見ているんだろう。
「……」
 何かを呟きながら、里奈と思われる人物が俺に向かってそっと手を伸ばした。
 手は柔らかくて、温かい。俺の頬に、そんな感覚が伝わって来る……。
「うー……」
 気がつけば、目覚まし時計のアラームがけたたましく鳴り響いていた。
 あの奇妙な夢から覚め、現実に引き戻されたようだ。
「変な夢を、二日続けて見るなんて」
 あの悪夢に比べればかわいい方だが、今日の夢もやけに頭に焼きついている。
 頬にはまだ、娘の手の感触が残っているような感覚さえしていた。

 余裕をもって会社に着くと、昨日よりは周囲からの視線が気にならなくなっていた。
 単に向けられる視線が減っただけなのか、俺がこの異様な状態に慣れてしまったというだけなのか。そこはよくわからない。
 昼休みを迎えてから、俺は佐々木に声をかけた。目的はもちろん、昨日から続く俺に対する態度についての探りを入れるためだ。
「なあ、佐々木。たまには外で一緒に食わないか」
「えっ」
 やはりと言うべきか、露骨に嫌な顔を向けられてしまった。まあ、俺は普段は理美からの弁当で昼を過ごしているし、変に思われても無理はないか。
「あの、今日は奥さんからの弁当はないんですか」
「昨日ちょっと、色々あってな」
 わざわざ理美に「明日は弁当はいらない」と、昨日のうちから言っておいたことを伝える必要はないだろう。むしろ、それを言ってしまうと余計に怪しまれる。
 理由はよくわからないが、俺は嘘をつくとすぐに見抜かれてしまうんだよな。だから、ことは慎重に運ばなければ。
「あ……ああ……は、はい。じゃ、じゃあ」
 上司に食事に誘われて、断れる奴なんて滅多にいやしないよな。男同士だからセクハラにはならないだろうが、ここまで嫌がられると、流石に罪悪感というものを感じる。
 多少気が引けつつも、俺は佐々木を連れて会社近くにある定食屋に入った。
 適当な席に着いて注文を済ませると、妙な沈黙が流れ始めた。
「……」
 佐々木はずっと、俺から目をそむけて定食屋の隅に置かれているテレビばかりを見ている。それは、店員が定食を持ってきてもなお続いた。
「あのさ」
「は、はいっ」
 一応この重苦しい空気を打破しようと声をかけてみたが、またも佐々木に震え上がられてしまった。こいつとは普段から良好な関係を築けていると思っていたのだが、そう考えていたのは俺だけだったのだろうか。
「昨日から、本当にどうしたっていうんだ。俺は、自分で知らないうちに何かまずいことでもしてしまったのか。もう、上下関係とか、面倒なことは気にしなくていいからさ。話してくれないか」
「……」
 佐々木は何かを言いたそうにしながらも、かたくなに口をつぐんでいる。
 唇を噛んだまま俺のことをじっと見据えるその目は、何かに似ている。そうだ。今朝の夢に出てきた、家族達の目に似ているんだ。どうしてそんな目で、俺のことを。
「どうしても、話したくないのか」
「……すみません」
「わかった、もういいよ」
 こいつはいくら問い詰めたところで、絶対に口を割らないだろう。
 俺は溜め息をついてから、何気なくテレビの方に目を向けた。今かかっている番組は流行を中心に取り扱う、ごくありがちなワイドショーだった。
「人型ロボット……か」
 現在取り上げられているのは、どこかのロボット博覧会の名物となっている、人間そっくりのロボットだった。実在の女性をモデルにして作られたらしく、容姿は人間に近いと言えなくもない。だが、よく見れば目がどこか遠くでも見つめているかのようで親近感というものを持てないし、動きもなめらかさがなく不自然だ。
 しかし、一番物悲しいのは、その表情に全く変化が見られないことだろう。いくら人間に近い見てくれをしていても、機械には感情というものはないということをつくづく思い知らされる。
「アンドロイドだとか、そういう風に呼ばれる存在が作られるのは、まだまだ先の話なんだろうな。今の技術じゃ、これが限界だろうし」
 よく創作の話とかに出てくる、人と同じ感情を持つという、アンドロイド。番組ではあれをそのように呼んでいるが、俺は画面に映る女のことをそう呼ぶことはできない。あれは、情も何も持たない。人の姿を模倣しただけの、機械の塊だ。
「小暮さん」
「ん?」
 さっきから黙りっぱなしだった佐々木が、ようやく言葉を発した。
「どうした」
「もしも……もしもの話ですよ。自分の大切な人が……その。死んでしまったりして。それで、アンドロイドとして……生き返らせてあげるって言われたら、どうします?」
「は?」
 唐突な質問だな。どうして急にそんなことを。あ、もしかしてさっきのワイドショーの影響か? それにしても、ずいぶんと変わったことを考えるな。
「それは、あくまでも大切な人に似た機械であって、大切な人が生き返ったのとは違うんじゃないか。機械なんかに、人間の感情が真似できるわけ」
「全部、一緒だとしたら」
 佐々木は俺の言葉を遮り、膝に乗せた手を震わせる。そして、蚊の鳴くような声でさらに続けた。
「その人の容姿も、記憶も、感情も。何もかも、一緒だったら。小暮さんだったら、どうしますか」
「でも、そんな馬鹿な話」
「もしもの話、ですよ」
 佐々木は無理に笑みを作ると、こちらから再び目をそむけてしまった。
「俺ならどうするか。か……」
 人間を機械として蘇らせるなんて馬鹿な話だと思ったが、もし俺がこんな話を持ちかけられたとしたら、一体どうするだろう。考えてみれば、案外深いものかもしれない。
 俺にとって今、一番大切なのは……家族だろうか。もし、家族が一人でも欠けてしまったら? そんなこと、想像してみただけで心が張り裂けそうになる。俺だったら……。
「俺だった……ら……うっ!」
 俺なりの答えを言おうとしたのと同時に、突然ノイズのような音が鳴り響き、視界がちらつくように歪んだ。しかも、強く殴りつけられたかのような頭痛までする。
「あっ……うあああっ」
「こ、小暮さん?」
 苦しみだした俺の姿を、佐々木が取り乱しながらのぞき込む。だが、その表情をしっかりとらえることはできなかった。
「あ……頭が。気持ちが悪い」
「と、とりあえず。落ち着いて」
 佐々木に背中をさすられると、どうにか症状は治まってくれた。
 しかし、何だったんだ今のは。あんな苦しみ、生まれて初めてだ。
「……うう」
 あの悪夢を見て以来、俺はどうかしている。記憶の欠落といい、今の発作といい。一体俺は、どうしてしまったというのだろう。

 あの謎の発作は一時的なものだと最初は思っていたが、それは大きな間違いだった。
 定食屋で発作を起こしてからというもの、俺は度々あの苦しみに襲われるようになっていった。しかもその症状は、日に日に悪化の一途を辿るばかりだった。
 最初の発作が起きてから間もない頃は、定食屋の時と同じように我慢すれば何とか耐えられる程度のもので、症状に襲われることもまれだった。
 だが、ある日を境に物事を考え込もうとした時や、何かを思い出そうとした時に、記憶が段々と欠落していくようになっていった。
 記憶の欠落が生じる時には、必ず頭に響くノイズが悪化する。そして、何かが頭に浮かんでから、砂嵐に埋められていくように俺の中から消えていくのだ。
 この謎の発作に襲われるようになって二週間が過ぎた頃だろうか。俺はとうとう我慢しきれなくなり、休日に入ってから理美に切り出した。
「なあ。少し前に、変な発作に襲われてるって言っただろ。薬を飲んでしばらく我慢してみたが、全然よくならないんだ。やっぱり、病院に行って診てもらおうと思うんだが」
「もう少し。もう少しだけ、様子を見てみたら?」
 リビングで頭を抱えている俺を、理美は無理に引き止めようとする。俺が苦しんでいる姿をこの目で見てきたはずなのに、何故このような態度をとるのだろう。
「これ以上様子を見ていたら、本当に狂ってしまう。このままだと、俺が俺でなくなるような、そんな気さえしてくるんだ。やっぱり、行ってくるよ」
「あなた……」
 何かを言いたそうにしている理美を背にし、俺は玄関へと足を運んだ。
「俺は、何て顔をしてるんだ」
 靴を履こうとした時、顔を上げると靴箱の上に置かれていた鏡が目に止まった。その中に映る俺は、度重なる発作のせいで疲労しきっているのか、能面を連想させるような無表情になっていた。
「早く、治ればいいんだが」
 こんな状態では、とても車なんて運転できない。
 俺は外でタクシーを捕まえ、この近くでは最も設備が整った総合病院へと向かった。
「ううっ」
 病院に辿り着いてから、俺はすぐに受付に向かおうと試みた。しかし、その直後にまた頭の中にノイズが響き始めた。
「くっ」
 うるさい。もうこれ以上、耳障りな音で俺を苦しませるのはやめてくれ……。
「……さん」
 今、誰かが俺に呼びかけたような。でも、ノイズが邪魔をしてうまく聞き取れない。
「あなたが小暮さん、ですね」
 ああ、ようやくまともに聞き取ることができた。この声、どこかで聞いたことがあるような。そう思いつつ、俺は頭を押さえながら振り向いた。
「人違いでは、なさそうですね」
 白衣を身にまとった、小柄な白髪頭の老人。よく思い出せないが、どこかで見た顔だ。
「あなたは?」
「わたくしの名前は、財前。この病院で働いている者です」
「ということは、医者ですか」
「いえ」
 俺の問いに、財前と名乗った男は首を横に振った。
「では、一体何の御用で……」
「先程、あなたの奥様から連絡を受けましてね」
「はい?」
 理美が、この財前とかいう男に連絡を? どういうわけだ。
「不思議そうな顔をしていますね。無理もない話ですが。わたくしは、もうすぐあなたがここにいらっしゃるだろうと思い、お待ちしていたのです。その用件というのは、あなたに全てを……真実を、お伝えすることです」
 全て? この俺に、何を伝えるというのだ。わからない。この男が言おうとしていることを理解することができない。
「いきなりこのようなことを言われても、混乱するばかりでしょう。でも、このことはどうしてもあなたに伝えておかなければいけないのです。今は何も言わず、私についてきて下さい」
 財前はそれだけ言うと、俺に背を向けて歩き始めた。
 本当は、こんなわけのわからない男の言うことなど相手にせずにさっさと受付に向かうべきなのだろう。だが。
「真実……」
 俺は、何故か男の後を追わずにはいられなかった。
 あの男の口から、聞いておかなければならないことがある。そんな衝動が、どこからか湧いてきたからだった。

 財前が歩くルートは、ほとんど見覚えのない場所ばかりだった。
 この病院は自宅から比較的近い距離にあることもあり、優が深夜に熱を出した時や、里奈が怪我をした時だとかによく世話になり、何度も訪れたことがあるはずなのだが。
「さて」
 財前は、寂れた廊下の突き当たりにあるドアの前で立ち止まった。
「行きましょうか」
 懐に手を入れて鍵を取り出し、ドアに差し込んだ。ドアの先には、地下へと続く階段があった。
「この病院に、地下があるなんて」
「御存知なくても当然です。この階段の存在は、一部の者にしか知られていないのですから」
「それを、どうして……」
「……」
 財前は、無言のまま階段を下りていく。今の俺は、それに従うより他はなかった。
 薄暗い空間の中に、階段がずっと続いている。このまま、どこまでも深く続いているのではないのだろうか。そう思えてくるほどに。
 しばらして、ようやく光がこぼれているのが見えた。やっと出口か。
 しかし、そう思ったのもつかの間。その先に見たものに衝撃を受け、俺は思わず我が目を疑った。
「何なんだ、ここは」
 目の前に存在しているのは、広いスペースに所狭しと並べられている、俺には一生かけても理解できそうのないコンピューターらしき物体の数々。その中には巨大なパソコンみたいなものがいくつか混じっていて、その前には白衣を身にまとった奴らが難しい顔をしながら向かい合っている。おそらく、彼らは医者ではない。多分、何かの研究者だ。
「さあ、奥に行きましょうか」
 白衣の研究者達の横を通り過ぎ、部屋の一番奥に存在するドアの前まで歩いていく。ドアの横には、指紋認証装置のような物体が取りつけられている。財前が装置に手をかざすと、ロックが外れて自動的にドアが開いた。このようなものばかりを見せられると、未来にタイムスリップでもしたのではないかという錯覚にとらわれてしまう。まあ、単に表沙汰にしていなかったというだけで、実際はここまで科学が進歩していたというだけの話なのだろうが。
「ここに、全ての真実があります」
 ドアの先に広がっていたのは、天井も床も、何もかも真っ白な、奇妙な空間だった。先程いた部屋と比べると、ずいぶんと小ぢんまりとした印象を受ける。壁際に理解しがたい機械の数々と、そのすぐ横にベッドがあるのが気になったが、一番目を引いたのは別の物体だった。
「あれは?」
 棺を連想させる形をした、半透明のケースが置かれている。ここからだと距離があるので、中に何があるのかまではよく把握できないが……。
「あの中を見て下さい。あの中に、全てが」
 どことなく苦しそうに聞こえる、財前の口調。俺はそれに従い、言われるがままにケースに近づき、目を凝らして中を確認した。
「あっ……うわあああっ!」
 な、何なんだ、これは。こんなもの、信じられるわけがない。
 動揺した俺は尻もちをつき、目を見開いてその場で震え上がった。
「そんな、まさか……」
 俺が、もう一人いる。病衣を着せられ、静かに横たえられている俺自身が。いたるところに傷を負っていて、目は固く閉じられている。その顔は土色で、血の気は全くない。これでは、まるで……。
「そう。これは、あなたの」
 財前は呟くように話しながらこちらに歩み寄り、ケースに手を触れた。
「き、聞きたくない。聞きたくない……」
「そのお気持ちはお察しします。しかし、あなたにはどうしても理解していただかなければならない。順を追って、お話しましょう」
 頭を抱えて悶える俺を見ているのが居た堪れなくなったのか、財前はケースの中の俺に語りかけるようにしながら、ポツリポツリと語り始めた。
「見ての通り、これはあなたのご遺体です。つまり、あなたは……いや、あなたの肉体は、既に死を迎えたのです。信号を無視した車にひき逃げされ、搬送先だったこの病院で」
 そうか。やっぱり、その中にいる俺は……。なら、今ここにいる俺は一体何だというのだ。俺は確かに、ここに存在している。それは、どういうことなんだ。
「ここは、表向きはごく普通の病院なのですが、秘密裏にある研究が行われていました。それは、ご遺体から生前の記憶を採取し、それをコピーした特殊なチップを亡くなられた方そっくりに作られたロボットのボディに埋め込んで蘇らせるという、倫理に反したものです。わたくしや同僚達は、病院の方から指示を受けてその研究を続けていたのです。もちろん、世間にばれないように、こっそりと。しかし、月日が経つにつれ、研究者の間で迷いが生じ始めました。故人を蘇らせるようなことを、果たして人間が行ってよいものなのかと。そしてとうとう、研究は臨床実験にまで移せるくらいに技術は向上しました。大体一週間もあれば、故人を模した機体と、記憶を宿したチップを作り上げられるくらいの段階に。ですが、研究者達に生じた迷いが、臨床実験を実行するのに歯止めをかけていた。そんな時だったのですよ、わたくしがあなたと、ご家族の方を偶然見かけたのは」
 財前は声を詰まらせ、こちらの様子を一瞥した。一体彼は、どんな気持ちでこれを言葉にしているのだろう。耳を塞ぎながら、ガタガタ震えている俺を見て、何を思っているのだろう。
 深い溜め息が室内に響いたのちに、話は再開された。
「娘さんは、血に濡れて潰れた箱を抱えたまま、ずっと立ち尽くしていました。目はうつろで、まるで、魂の抜け殻にでもなってしまわれたような顔をして。息子さんは唇を噛みしめながら、ずっとうつむいておられました。そして奥様は、物言わぬあなたにすがりつき叫び続けていました。『起きてよ。早く、目を開けてよ……』と。気がつけばわたくしはあなたの家族に声をかけていました。……その時は、一つの家族に幸せな時間が戻ればいい。その一心で動いていました。しかし、それは大きな間違いだった。奥様からあなたの様子について相談を受けた時に気がついたのです。あなたの記憶を忠実にコピーしたはずのチップに、予期せぬ重大なバグが発生したことに」
 そうか。俺は、ロボットとして無理矢理生き返らせられた存在だったというわけか。とても信じられない話だが、そう考えれば全ての辻褄が合う。周囲からの異様な対応の数々も、度々俺を襲い続けた、記憶の欠落による苦しみも。そして、あの生々しい悪夢も。
「は……はは、は」
 あれは、あの悪夢は、俺の生前最期の記憶だったというわけか。そうか、そうか……。
「お気持ちお察しします。とは、言えませんが」
 財前はむなしく笑う俺の肩に、そっと手を乗せた。自分の正体を自覚してしまったせいなのか、肩に伝わって来るはずの微かな温かさすら、感じ取ることができない。
「技術は完璧だったはずなのです。バグが発生した原因も、全くもってわかりません。きっと、このような研究を行うこと自体が間違いだったということなのでしょう。ですが、まさかここまであなたを苦しめることになるなんて」
「……直らないん、ですか」
「?」
 俺の唐突な一言に対し、財前は顔をこわばらせた。
「どうにかして、バグを取り除くことはできないんですか。記憶を入れ直すとか、手段はないんですか」
 もう、この身体が何であろうとどうだってかまわない。俺は、家族達と別れたくない。例えどんな存在になろうとも、最後まで家族達のことを見守っていたい。せめて、このバグさえ取り払うことさえできれば。
 しかし、財前は無情にも静かに首を横に振った。
「この研究で完成したチップは特殊なもので、一度埋め込んだものを取り外すと、自動的に記憶が消滅するようになっているのです。つまり、現在のあなたの自我を残したままバグを取り除くことは不可能なのです。もし、バグを取り除くとしたら、あなたのご遺体から採取した記憶を再び他のチップに焼きつけ、それを埋め込むしか方法がありません。ですが、わたくしはもうそのようなことは行いたくない。人の情というものは、科学では説明がつけられないくらいに複雑なものだったようです。きっと、いくらチップの改善を試みたところで、新たなバグが発生することでしょう。あなたは複製されるたびに苦しみ、あなたの家族もまた、その姿を見るたびに苦しみ続ける。わたくしには、とても耐えられません」
 俺だけが苦しむのならともかく、家族達もつらい思いをすることになるのか。
 特に、俺はもうこの世にはいないはずの存在だ。それを強引に蘇らせたことで、本来味わわなくてもいいはずの苦痛を与えることになると、強い自責の念にかられることにもなる……。
「奥様には、バグのことは黙っていてくれと頼みこまれたのですが、あえて全てをお伝えしました。バグの進行具合から判断するに、おそらく、あなたの記憶が持つのは安静に過ごしてあと数日といったところでしょう。わたくしが言うのもおかしい話ですが、残された時間をどうか大切にお過ごしください」
「数日……」
 俺には、たったそれだけしか時間が残されていないのか。俺が俺でいられる時間は、あとそれだけしかないのか。

 全てを知ってから、俺は自室で残された時間で何をすべきなのかを考え続けた。
 普通は思い出作りにどこかに行こうと提案したりするべきなのだろうが、いつバグによる発作が起こるかわからないこの状態では到底できそうもない。しかも、急にそんなことを言い出せば、俺が財前から全てを聞かされたことに気づいてしまうかもしれない。
 せめて、形に残ることができれば一番いいのだが。
「手紙なら……」
 手紙。そう、これが一番いいのではないか。これなら、俺の最後の思いを綴ることができるし、形にだって残すことができる。そして……家族達が俺のことを忘れたくなったら、すぐに処分することだってできる。未来がある家族達を、これからこの世から消えていこうとしている俺がずっと縛りつけるわけにはいかない。
 俺はそう心に決めてから、部屋にこもって机に向かった。
「さて、と」
 ペンを手に取り、何を綴るべきなのかを考える。
 まずは、理美へ。こんな俺なんかと一緒になってくれてありがとう。最近は、夫婦で時間を過ごすことなんてめっきり減ってしまって、二人で会話をすることすらなくなってしまっていたね。思えば、君との出会いは……出会い、は。
「……うっ」
 思い出せない。どこで、どんなきっかけで理美と出会って、俺達は結婚したんだっけ。どこで一緒に時を過ごして、どんな場所で愛を誓ったのか。何もわからない。
「そんな馬鹿な。記憶が、全然」
 では、子供達に伝えるべきことは? 里奈に伝えるべきことは……? 優には……?
「わからない」
 気がつかないうちに、ここまで記憶が蝕まれていたのか。冷静になってゆっくり思い出そうとしても、頭に浮かぶのは無機質な砂嵐ばかり。財前が述べたように、俺に残された時間は本当にわずかというわけか。
「くっ」
 バグによるノイズが、耳の中でやかましく響き渡る。それは、頭を働かせようとすればするほど、悪化の一途を辿っていった。このままだと、本当に俺は……。
 だが、それでも手紙を書く手を止めようとは思わなかった。それは、バグに蝕まれる中である決意を固めたからであった。
「お父さん、ご飯ができたよ」
 どうやら自分でも気がつかないうちに、かなり時間が経過してしまったらしい。里奈の声が、ドア越しに聞こえてきた。俺が真実を聞かされたことなんて知らず、いつも通りにしようと努めている、優しい声だ。
「ごめん、今はいらない。体調が悪いんだ。食欲が湧かなくて」
「そう。お父さんの分は冷蔵庫に入れておくから、お腹が空いたら食べてね」
「ああ」
 とうとう、感情まで薄れてきたのだろうか。声に、心がこもっていない気がする。
 足音が次第に遠ざかっていくのを聞きながら、少しずつではあるが、筆を進めて文を書き上げていく。何度も視界がちらつき、ノイズが響くのをじっとこらえながら。
 手紙を書き終えた頃にはさらに時間が経過し、既にカーテンから日が差し始めていた。
「さて、と」
 俺は手紙を机に置くと、軽く息をつき腰を浮かせた。そして、携帯電話を手に取って電話をかけた。
「もしもし」
「え……小暮さん、ですか? どうしてこんな時間にまだ、朝の」
 電話の相手は佐々木。そう、彼にも色々言っておかなければならないことがある。
「ああ、こんな時間にすまない。実は、周りに伝えてほしいことがあってな」
「それなら、会社に来てからみんなに伝えればいいんじゃ」
「そのことなんだが……俺はもう、会社にはいけないんだ」
「えっ!」
 佐々木の声は、ひどく動揺している。驚いている奴の姿が、目に浮かんでくるようだ。
「ど、ど、どうして。最近、体調が優れないようでしたけど……あ、もしかして社内での空気がそんなに不愉快だったんですか? 小暮さんは、本当に何も」
「知ったんだよ、全部。もう、無理して隠さなくたっていい」
「えっ」
 駄目だ。段々と話し方が不自然になってきた。手紙を書いている時に無理をしたのが尾を引いているのだろうか。
「何度も、問いただすような真似をしてすまなかったな。思えばこんなこと、面と向かって言えるわけがないよな。あなたは不慮の事故で死にましたが、機械の身体で生き返ったから注目を浴びていたんですよ。だなんて」
「……本当に、すみませんでした。自分もみんなも、本当は嬉しかったんですよ。小暮さんが、職場に帰ってきてくれて。それなのに、あんな目で見続けてしまって。特に奥さんからは『あの人は何も知らないから普段通りに接してくれ』って頼まれていたのに」
 そうか、理美が。だから、俺は受け入れてもらえていたんだな。
「でも、最近はみんな小暮さんのことを好奇的な目で見なくなりましたよ。今までの小暮さんと何も変わりはしないんだってことを、飲み込めるようになってきたから。だから、それを気にしているのであれば」
「違うんだよ。実は、俺の身体には重大なバグがあるらしくてさ」
「は……?」
 何のことだかわからないよな、急にこんなことを言われたって。でも、残された時間が少ない以上、ここで話しておくしかない。
「バグって、あの、機械に生じるバグですよね? それを、直しに行くってことですか?」
「……」
 できれば、この先は口に出したくはない。頼む、察してくれ。
「あ、そうだ。最後に、もう一つ言っておこうと思ったことがあるんだった」
「さ、最後って」
 答えようとしたのと同時に発作が起きて、結局答えずじまいだった質問。これが、俺なりに導き出した答えだ。
「もし俺が大切な人を失ったりしたら、どんな形でもいいから会うことを望むだろうな。俺が逆の立場だったなら、家族達と同じ決断をしたに違いないよ」
「あ、あの。まさか」
「本当は、自分の口から伝えるべきなんだろうけど、代わりに職場のみんなに伝えておいてくれ。こんな俺を、受け入れてくれてありがとうって」
「こ、小暮さ」
 俺は電話を切ると、小さく息をついてから天井を見据えた。しばらくこうしていたい気もするが、そういうわけにもいかない。家族達が起きてくる前に、もう一本電話をかけなくてはならない。誰かが、一人でも起きてくる前に。

 電話をかけ終えた俺は、出かける準備を整えてからそっと部屋を抜け出した。
 誰にも気づかれないように、忍び足で歩いていく。通りがかりにある寝室をのぞくと、理美が布団の中で静かに寝息を立てていた。
「相変わらず、静かだな」
 いつから、寝室を別々にしたんだっけ。確か、里奈と優が生まれてからだったな。お互い『お父さん』と『お母さん』としての役割を背負うようになってから、それを果たすために必死になっていって、それで……駄目だ。ここまでしか思い出せない。
 次にのぞき込んだのは、優の部屋。男の子らしいというか、何とも豪快な寝相をしている。この調子で暴れられたら、ベッドが壊れそうだ。
「中学生だってのに、腹なんて出して寝て。風邪ひいて、学校でぶっ倒れたらどうするんだ」
 そっと近づいてから、部屋の端まで投げ出されていた布団を優にかけてやる。こいつは一度眠ったらちょっとやそっとじゃ起きないから、これくらいやっても平気だ。
 最後に立ち寄ったのは、里奈の部屋だ。今日は部活の朝練とやらはないらしく、スヤスヤと眠っている。普段一緒に過ごしていて、ずいぶん大きくなったなあ感じることは時々あるが、眠っているところを見ると、昔のあどけなさの面影がどことなく残っているなとは思う。まあ、記憶の欠落が進んでいるせいか、鮮明に思い出すことは叶わないのだが。
 皆の寝顔を一通り見た後、俺は玄関へと足を運んだ。靴を履こうとした時、靴箱の上に置かれている鏡を見てみた。
「こんな顔、誰にも見せたくないな」
 そこに映っていたのは、人形のように無表情で固まったまま動かない俺の顔。これでは、最初のバグの発作が起きた時に見た人型ロボットの方が、よっぽど人間らしいじゃないか。
「……いってきます」
 静かな我が家に向かって、精一杯感情を込めて言ってから俺はドアを開けて外に出た。
 家の前には見慣れない黒い車が一台止まっていた。俺が電話で呼び出した、迎えの車が。

「あなたにはまだ、意識が残っている。それなのに、いいのですか」
 財前からの問いに、無言でうなずいた。
 現在、俺は白ばかりに包まれた部屋の中で、身を委ねるようにしてベッドに横たえている。頭には導線がつながったシールのようなものをいくつかつけられていて、その横ではよくわからない機械が動いていた。
「家族の方には、このことを伝えたのですか」
「手紙を残してきました」
「では、直接お話をしたというわけでは……」
「お願いです、早くして下さい。覚悟ができているうちに」
 こんなこと、直接言えるわけがないだろう。俺の意識が消えてなくなる前に、この身体を壊してくれと頼んだなんて。
 手紙を書こうとして、記憶が大きく欠落していることに気がついた時に思ったんだ。理美の夫として、里奈と優の父親として、そして、家族の一員として存在していられるうちに逝きたい。突然、何もかもわからなくなって、ただの俺の姿をしただけの物体と化すことだけは、どうしても避けたいと思った。そんなところを見せたら、きっとさらに苦しませるに違いないから。
「……わたくしが思っている以上に、あなたの決意は固いようですね。わかりました、少々お待ち下さい」
 財前はやりきれなさを隠すように呟くと、機械を操作し始めた。俺としては早く終わらせてもらいたいのだが、リセットボタン一つで何もかも済まされるほど現実は甘くないらしい。
「小暮さん」
 機械の操作の途中で、財前が声をかけてきた。
「何ですか」
「わたくしのことを、恨んでおいででしょう」
「どうしてそう思うんです?」
「わたくし共の研究のせいで、あなたと、あなたの家族を深く傷つけてしまったからです。わたくしがあの時声をかけさえしなければ、傷に塩を塗られるような思いをさせることにはならなかった」
 後悔の念がにじみ出た言葉を聞きながら、俺は息をついた。目だけを彼の方に向けながら、思っていたことを正直に口にする。
「あなたのことを、恨んでなんていませんよ。本来なら、私は車にはねられた際にとっくに死んでいたはず。でも、あなたがこうして時間をくれたから、家族に別れの言葉を残すことだってできた。そりゃあ、自分がロボットになって蘇っていたって知った時には驚きましたけどね。それでも、感謝の言葉は尽きませんよ」
「そう、ですか」
 財前は話を聞き終えると、こちらの方に顔を向けた。
「あと一つ操作を行えば、あなたはその機械の身体から解放されます。本当に……いいんですね」
「ええ。お願いします」
 ああ、これでやっと全てが終わるんだ。
 理美、今まで本当にありがとう。面と向かって言ったことはなかったと思うけど、君のことは心から愛していた。
 里奈、プレゼントを大切にしてくれてありがとうな。部活、頑張れよ。父さん、遠くから応援してるからな。
 優、お前との約束は果たせそうにない。ごめんな。これからは、母さんと姉さんのことを支えてやってくれ。しっかり者のお前なら、できるよな?
 俺は思いを馳せながら、目を閉じた……。
「……申し訳ありません。やはりわたくしには、耐えられませんでした」
「はい?」
 何なんだ、人がせっかく覚悟を決めていたというのに。
 俺は頭を浮かせると、機械の前でおどおどしている財前のことを睨みつけた。
「どういうことです?」
「このまま、あなたを逝かせたくない。大変差し出がましいのはよくわかっていたのですが、どうしてもこの思いが拭えなかった。あなたの意思に反する行為であることはよくわかっています。ですが……どうか、ご理解下さい」
「あ、あなた。何を言って」
 俺が戸惑っているうちに、どこからかバタバタと騒がしい音が聞こえてきた。
 そしてまもなく、部屋のドアが開いた。
「あ……!」
 どうして。どうして、ここに?
 部屋に流れ込んできたのは、先程までぐっすり眠っていたはずの妻と子供達だった。
「何で一人で逝こうとするの!」
 普段は穏やかな理美が、今にも噛みついてきそうな剣幕で怒鳴った。
 結婚してからずいぶんになるが、ここまで怒っているのは初めて見た……気がする。
「さっき、財前さんから連絡があったんだ。父さんが、ここにくるってさ。ひどいよ。また勝手にいなくなるなんてさ」
 優は俺の行動を咎めるように、キッとした目でこちらを見ている。
 そうか。やっぱり財前が教えたのか。家族には黙っていてくれと、あれだけ念を押したのに。
「ねえ、おかしいよ! 何で手紙だけ残していなくなろうとしたの! あたしだって、色々言いたいことだってあるのに。ひど過ぎるよ!」
 駆け寄ってきた里奈が、俺の腕を掴んで強く揺さぶってきた。バグの進行であらゆる感覚が鈍り始めているのだが、痛みはまだ感じるようだ。
「ごめんな、勝手なことをして。だけど、これ以上父さんが父さんでなくなっていく姿を、どうしても見せたくなかったんだ。だから」
「お父さんらしくなくなったって、お父さんはお父さんなんだよ! 何でそんなこともわからないの? ねえ、家に帰ろうよ。あたしやお母さんや優に言いたいことがあるんだったら、手紙なんかじゃなくて直接話してよ!」
「里奈……うっ」
 こんな時にバグの発作が起きるなんて。うう、頭が痛み始めてきた。
「父さん、もしかして苦しいの?」
 優が、心配そうに俺の顔をのぞき込む。あまり心配をかけたくないのだが、平気そうに振る舞うにはどんな顔をしたらいいんだっけ。
「ぐっ……うああっ」
 まずい、視界まで歪んできた。ザーザーという耳障りな音とともに、砂嵐のようなものが俺の目の前を覆っていく。
「お父さん!」
「父さん!」
 子供達の声に応えるべく、必死になって目を見開く。でも、俺の目に愛しい存在は映らない。白黒のザラザラとしたものばかりが、辺り一面を包み込んでいる。
 多分、今までで起きたバグの発作の中で一番症状が重いのではないだろうか。気をしっかり持っていないと、このまま意識を失ってしまいそうだ。
「財前さん」
 目は駄目になってしまったが、かろうじて音を聞くことはできる。これは、理美の声だ。
「何でしょうか」
「主人を、楽にしてやっていただけませんか」
「なっ!」
「お母さん!」
 子供達が、次々に仰天したような声を上げた。一体、今はどんな表情をしているのだろう。
「お母さん、いいの? 事故の日に、一番泣いてたのはお母さんじゃない!」
 すがりつくような音と同時に、布がこすれる音が聞こえた。まさか、里奈が理美に掴みかかっているのか?
「里奈、いい加減になさい。私達のせいで、お父さんがどれだけ苦しい思いをしたのか。お父さんの気持ちも、少しは考えなさい」
「で、でも」
 里奈はそのまま、黙り込んでしまった。
 俺の中には、やかましく鳴り響くノイズだけがこだまする。
「あなた……」
 理美が、俺の手をそっと握ってきた。
 声だけを頼りに顔を向けてみたが、こちらの方で合っているだろうか。
「財前さんに実験の協力を依頼された時、わらにもすがるような思いで受けてしまったの。どうしても、あなたと離れ離れになりたくなかったから。だけど、それはあまりにも身勝手過ぎる考えだった。あなたのことなんてみじんも考えていない、とても浅はかな考えだった」
 理美の声に、嗚咽が混じっている。
 握られている手の上に、何かがポタッと落ちてくるのを感じた。
「もし、この臨床実験が失敗したらどうなるのか。ちゃんと理解していたはずなのに。あなたには何も伝えないまま、悩ませて、苦しませて。謝っても、謝りきれない。本当に……ごめんなさい」
 すすり泣く声が、いくつも重なって聞こえてくる。
 それはノイズなんかよりも、俺の心をずっと強くかきむしる。
「……なあ、笑ってくれないか」
 ようやく、絞り出すことができたのはこの一言だった。
 いや、これだけじゃまだ足りない。もっと、もっと伝えなければ。
「俺にはもう、ほとんど記憶が残っていないみたいなんだ。だけど、今見ているものだけはしっかりこの目に焼きつけることができる。だから、せめて今だけは笑ってほしいんだ。最期に残った記憶が、大好きな家族の泣き顔って……悲し過ぎるからさ」
 本当は、この目には砂嵐しか映っていない。でも、泣いている家族に看取られるっていうのも、つらいから。これくらいの嘘なら、神様だって許してくれるよな?
「俺も、笑顔で逝くからさ。な?」
 今、頑張って笑いかけているつもりなんだけど、俺はうまく笑えているのかな。自分では、よくわからない。
 ……あれ、何だろう。目の辺りに、変な感触がある。何かが目からこぼれて、頬をつたうような感覚が。
 これは、涙? いや、そんなわけないか。この身体は、機械でできているのだから。これは多分、機体から漏れ出した油か何かだろう。とうとう頭だけでなく、身体の方までバグに蝕まれ始めたというわけか。
「そろそろ、限界が近いようですね」
 カチッという音と同時に、頭に電流のようなものが走ったのを感じた。とうとう、財前が機械を作動させたらしい。
「うっ」
 俺の中に残されたわずかな記憶が、ノイズを裂くようにしながら走馬灯のように駆け巡る。その中に、いつぞやに見た、夢によく似た光景が混じっていた。
「これは……?」
 それは、家族達がじっと動かない俺をのぞき込む夢。ただし、夢に見た時とは違って、その景色は非常に鮮明だ。
「本当に……よく似ています」
 若干涙声だが、間違いない。これは、理美だ。
 表情はよく見えていなかったけれど、そうか。泣いていたのか。
「実験にご協力いただき、本当に感謝します。お姿は、こんな感じで大丈夫でしょうか」
 財前の声。穏やかでありながら、後ろめたさを感じさせる。不思議なトーンだ。
「見せてっ……お父さん」
 俺のことを見つめる、里奈の目が赤い。目の周りも、すっかり腫れ上がってしまっている。
「父さんだ。父さんが、帰ってきた」
 あの時はノイズがひどくて聞き取れなかったけど、優はこう言っていたんだな。
「お帰りなさい、お父さん」
 里奈の手が伸びて、俺の頬に触れる。柔らかくて、温かくて、優しい手が。
 そうか、わかった。これは、この身体が俺の意思を宿す前に刻まれた記憶なのか。
 俺はこんなに待たせていたのに。こんなに愛されていたのに。みんなを置いて、逝かなきゃならないのか。ここまで家族を悲しませていただなんて、俺はなんて駄目な大黒柱なのだろう……。
 徐々に視界が、元の場所に戻ってくる。だが、先程まで目の前を覆い続けていた砂嵐は嘘のように晴れて、俺の前には鮮明な視界がもたらされた。
 そこにあったのは、俺の手をしっかり握りながら微笑んでいる家族達の姿。みんな、俺のわがままを聞き入れて、無理に泣くのを我慢している……。
 また、目から油みたいな液体がこぼれ落ちた。もうバグの発作からは解放されたはずなのに、胸が苦しい。
 ああ、段々眠たくなってきた。まぶたが重くなって、うまく持ち上がらない。だけど、これだけは最期に言っておかないと。これだけは、どうしても。
「ありがとう……」
 周囲が暗転していき、闇に視界が完全に奪われる。
 プツンと電源が切れるような音が聞こえたかと思うと、俺の意識は闇の中に溶けていきながら薄れていった。
 もう何も見えない。何も聞こえない。
 温かく、優しく残る手のぬくもりが、俺に残された最期の記憶となった。

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