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冬過ぎて、春来るらし 作者:稲葉孝太郎

第5章 青少年記憶攻防事件

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第40話 支払いはカードで

これは11月12日(火)の話です。
 翌朝、葦原(あしはら)は漏れ入る日光の眩しさで目を覚ました。何時に寝たのか定かでないが、布団の中で長時間どぎまぎしていたことだけは記憶している。窓を見やると、カーテンが閉まっていなかった。電気を消す前に何もしなかったことを思い出す葦原。インスタントラーメンのカップも、テーブルの上に放置されていた。
 何時だろうか。いつもの癖で、葦原はついつい携帯を探してしまう。いい加減に買い直さなければと思いつつ、壁の時計で時刻を確認する。
「じゅ、10時過ぎッ!?」
 葦原は毛布を撥ね除けると、急いで外出の準備を始めた。バイトがある。そう思った葦原だったが、すぐにその動きを止めた。
「そっか……シフトは先週ずらしたんだった……」
 自分のうっかりに呆れ返りながらも、葦原は自分の身なりをチェックする。着替えもせずに寝てしまったので、上も下も昨日の服装のままだった。冬場なので汗臭くなったりはしていないが、やはり気分のいいものではない。
 葦原はシャワーを浴びようと、上着に手を掛けた。そしてあることに気が付く。
「あれ……?」
 葦原は、隣に敷いてある布団を見下ろす。
 ……誰も寝ていない。そこには、あの少女がいなければならないはずなのだが。先に起きたのだろうか。葦原は室内を一瞥する。誰もいない。
「もしもーし?」
 少し間の抜けた呼びかけをする葦原。返事はない。ワンルームなので、隠れる場所があるはずもなかった。バスルームでトイレという様子もない。葦原は玄関へと急いだ。
「く、靴がない……」
 葦原は呆然と立ち尽くす。考えられる可能性は、ふたつしかなかった。ひとつは、昨晩の出来事が全て夢だった可能性。疲れ過ぎて、ラーメンを食べた後にそのまま寝てしまったのかもしれない。ただ、もうひとつの可能性の方が、葦原の中では遥かに高かった。
「ま、また逃げた……?」
 信じられなかった。病院から逃げ出して他人をスートーキングし、いきなりアパートに押し入って来たかと思えば、無断で外出してしまったのだ。正直なところ、夢であった方がまだマシなほどだった。
「と、とりあえず落ち着こう……追いかけないと……」
 葦原は靴を履こうとしたが、すぐに思いとどまる。……行き先が分からない。うろな町はそれほど小さな町ではないのだ。アパートを出て、右か左かも分からない。
 どうする。葦原は軽く爪を噛んだ後、とりあえず着替えることにした。シャワーを浴びてラーメンの汁を流しに捨てる。その間も、少女の行く先について思いを巡らせていた。家事をこなすことで、だんだんと思考の整理がついてくる。
「無一文だから、ずっと徒歩のはず……。土地勘もないって言ってたし……」
 葦原は、近隣のマップを思い浮かべる。西は山になっているため、そちらへ向かうことはないだろう。この位置からでも、山麓部が開発されていないことは一目瞭然だからだ。
 それに少女の言動からして、彼女は町民ではないように思われた。部外者だとすれば、まず向かう先は……。
「町の中心街……駅前かな……」
 葦原はソックスを履きながら、そう見当をつけた。戸締まりを終えた葦原は、急いで駅前の商店街へと走る。道中、スーツ姿の女の子を見なかったかどうか、通行人に尋ねて回る。皆一様に首を振るばかりで、ヒントは得られなかった。
 もしかして、方向が間違っているのだろうか。南は工業地区だが、知らなければ迷い込んでしまうかもしれない。葦原は不安になりながらも、とりあえず商店街を目指した。
「あら、葦原くんじゃない」
 知り合いのおばさんと出会う。揚げ物屋でよく見かける人だった。葦原は挨拶もそこそこに通り過ぎようとしたが、すぐにブレーキを掛けた。振り返り、おばさんを呼び止める。
「すみません、このへんでスーツ姿の女の子を見かけませんでしたか?」
 葦原の質問に、おばさんはしたり顔で答える。
「あらら、女の子を追いかけてるの? 葦原くんも年頃ねえ」
「す、すみません、そういうことじゃないんですけど……見ませんでしたか?」
「そうねえ……スーツ姿の男の子なら見かけたけど……葦原くんぐらいの……」
 これは時間の無駄だ。そう判断した葦原は、礼を言ってその場を立ち去った。少しばかり進んだところで、再び足を止める。
 男の子……。その表現に、葦原の勘が引っかかる。昨晩の少女、角度によっては少年に見えなくもなかった。葦原個人の経験からして、世代が離れると男女の区別がつかなくなるらしい。彼自身、何度女子と間違えられたことか……。ファッションの変遷や髪型の流行に起因するようなのだが、今はどうでもいい雑学だった。重要なのはただひとつ。おばさんは、少女を少年と取り違えたのではないかということ。スーツ姿の女の子も珍しいが、スーツ姿の男の子も珍しいはずである。葦原は大急ぎでおばさんの後を追った。
「すみません! ちょっと待ってください!」
 幸運なことに、おばさんはタバコ屋の店先で知り合いと井戸端会議に華を咲かせていた。葦原少年の声に気付き、彼女は会話を中断する。
「あら、どうしたの? そんなに慌てちゃって……」
「その『男の子』、どこで見かけました?」
 質問の意味が分からなかったのか、それとも『女の子』が『男の子』へ変わったことに納得がいかなかったのか、おばさんはすぐには答えなかった。
 仕方なく、葦原は質問を繰り返す。
「さっき、男の子を見かけたって仰ってましたよね? それはどこですか?」
「ああ、そのこと……。商店街の携帯ショップで見かけたわよ」
「何時ぐらいです」
 おばさんは額に皺を寄せる。思い出せないらしい。
「ちょっと覚えてないわねえ……1時間くらい前かしら……」
 1時間。1時間携帯ショップに長居は……。葦原には分からない。だらだらと商品を求めていれば、それくらいは本当に掛かる可能性もある。いずれにせよ現場を訪れるに越したことはないだろう。少年はそう判断する。
「ありがとうございましたッ!」
 葦原は礼もそこそこにその場を掛け去った。商店街でバイトをしているおかげで、店の位置はほとんど網羅できている。その店の売り子バイトに申し込んだこともあるのだから、間違えようがなかった。
 葦原は人混みをかき分け、複数のキャリアがまとまって店を構えている総合携帯ショップの自働ドアをくぐった。
「いらっしゃいませ」
 一番近くにいた売り子が挨拶をする。葦原はそれを無視して店内を見回した。
 ……いない。さすがに遅過ぎたか。葦原は落胆した。
「ご用件を承ります」
 さきほどとは別の女性が、アンケート用紙のようなものを差し出してきた。最近は取り次ぎが完全にマニュアル化されているのだ。葦原は用紙とペンを受け取ると、しばらく考えた後で【機種変更】に○をつけ、キャリアを記入した。
 どうせ携帯は買わなければならないのだ。葦原はこの機会を利用する。少女については闇雲に捜しても仕方がないのだ。葦原はこの場で次の方針を考えることにした。
「では少々お待ちください」
 女性店員は用紙とペンを受け取り、整理番号を渡して踵を返そうとした。
 葦原はすかさず彼女を呼び止める。
「あ、すみません」
 葦原の声に、店員は営業スマイルで振り返る。
「はい、何でしょうか?」
「ここへスーツを着た女の子が来ませんでしたか? 僕くらいの年齢で……」
 葦原は答えをあまり期待していなかった。接客業なので、覚えている可能性は高い。しかし店を出た後でどこへ行くのか、そこまでは分からないだろう。そう思ったのだ。
 ところが、意外な答えが返ってくる。
「その女性の方なら、後でお戻りになられますよ」
「え? 戻る……?」
「はい、『他の店を回るから商品を預かってください』と……。もしや代理人の方でしょうか? 申し訳ございませんが、預かり品の引渡はご本人様でないと……」
「い、いえ、別にそういうわけじゃないです」
 葦原がそう答えると、店員は忙しそうに店の奥へと引っ込んだ。葦原は今の情報についてぼんやりと考える。戻って来るのは望外の収穫として、買い物をしたというのはどういうことだろうか。少女は無一文のはずなのだ。
「……全部嘘だった?」
 葦原は厳しい顔をする。記憶喪失というのも怪しいし、警察や病院を嫌がっているのも怪しい。単にからかわれただけなのではないかと、少年はそう疑い始めた。
「葦原様、3番の窓口にお越しください」
 男性店員の声に、葦原はそそくさと移動した。もうあの少女のことは忘れよう。葦原は席につき、店員に申込用紙を差し出される。
「機種変更のご要望ですが、間違いありませんでしょうか?」
「はい」
「でしたら、旧機種の返却欄にチェックを入れて、サインをお願いします」
 あ……。葦原は心の中で喫驚する。よく考えずに依頼してしまった。葦原は、申し訳なさそうに言葉を継ぐ。
「す、すみません。以前持っていたのは壊れちゃって……持ってないです」
「どこかで落とされたとかですか?」
「いえ、道路に落としたら車に轢かれて……粉々になったので……」
「破損のケースですか……。少々お待ちください」
 店員は椅子を引くと、後ろにいる年配の店員と相談をし始めた。大方、こういうときの処理がマニュアルには書いていないのだろう。葦原は辛抱強く待つ。
 店員たちは1分ほど話を続け、年配の男はそのまま店の奥へと姿を消した。若い方が葦原へと向き直る。
「このキャリアでは、機種変更時に旧機種を返却する規約ですので、破損した場合でも一応お持ちしていただきたかったのですが……。破片なども全く?」
「いえ……全然原型を留めてなかったですし……車道なので危なくて……」
「そうですか……」
 男性店員は少し困ったような顔をした。葦原は不安になって尋ねる。
「もしかして、新規購入しかできないとか……?」
「いえいえ、そんなことはありません。お客様の登録番号さえ分かれば、こちらでは機種変更という扱いにできます。ただ現物がない場合の処理が、依頼店から指示されていないもので、現在問い合わせ中です」
 なるほど、それで年配の店員が奥へ引っ込んだのだと、葦原は合点がいった。とりあえず機種変更はできることが分かり、少年は緊張を解きほぐす。新規の代金は、彼の生活ではとても払えそうになかったからだ。
「ところで、機種はもうお決まりでしょうか?」
「一番安いヤツでいいんですけど……ブラウジングとかしないですし……」
「できるだけ安いものですか……。以前お使いの機種は?」
 葦原は、一週間前にこの世から消えた携帯を思い出す。
「あれは確か……高齢者向けの電話とメール機能しかないヤツです」
「ああ、やすやすフォンですね。……本当にそれでよろしいでしょうか? 最近は従来型でスマートフォン並の性能もありますし、いろいろとご検討なさった方が……」
 これだから面倒なのだ。葦原はそう思う。営業利益を上げたいのは分かるが、客が商品を決めてあるのに、別の商品を勧めてくるのはいかがなものだろうか。少なくとも、葦原はそういう遠回りな勧誘があまり好きではなかった。
 話が紛らわしくならないよう、葦原は断固とした態度を取ろうと決意する。
「いえ、やすやすフォンで……」
「この最新機種がいいです。私はこれにしました」
 いきなり右側から伸びてきた手に、葦原はびっくりして振り向いた。店員も同じくらい驚いたようで、カタログからサッと顔を上げる。
「き、きみはッ!」
 葦原は思わず椅子から立ち上がりそうになる。
 声の主は、あの少女だった。
「奇遇ですね。私も携帯を取りに来たところです」
「け、今朝はどこへ……?」
「先に目が覚めたので、買い物に出掛けました」
「買い物? お金は?」
「それは……」
 ふたりの会話に、店員が割り込む。
「申し訳ございません。順番待ちのお客様がいらっしゃいますので、とりあえず機種だけでも決めていただけませんでしょうか?」
 店員の催促を受け、葦原は椅子に座り直す。
「お連れ様は、こちらをオススメのようですが……」
 葦原はカタログを覗き込む。広告でよく見かける、最新のアンドロイド型携帯だった。
 値段を確認する葦原。
「こ、こんな高いの買えないよッ!」
 悲鳴を上げた葦原に、少女が語りかける。
「大丈夫です。代金は私が支払います」
 そう言って少女は、懐から黒いカードを取り出す。
 クレジットカードか何かだろうか。訝る葦原を他所に、少女は先を続けた。
「携帯所有者の名義と支払人の名義は、別にできますね?」
「はい、もちろんです。月々の支払いも同様です」
「では月々の支払いも含めて、私名義にしてください。一括払いで」
 店員はにこやかにカードを受け取る。葦原の沈黙を同意と受け取ったらしい。開いた口が塞がっていないだけなのだが、店員は迅速に手続を進める。
「すぐにお持ちしますので、ここへサインをお願いします」
 そう言って店員は、店の在庫置き場へ姿を消した。葦原はサインをする代わりに、背後の少女を見上げて抗議する。
「ちょっと、何で勝手に決めるんだい? これは僕の携帯なんだよ?」
「昨晩の宿泊代と受け取ってください」
「いや、そういう問題じゃ……」
「お待たせ致しました」
 店員は箱を開け、中身を葦原に提示する。依然持っていたのと比べると、外見だけでも性能が段違いに思われた。店員は確認を勧め、それから書類を見る。そして目を丸くした。
「あ、申し訳ございません。署名欄はここです」
 店員は書類の右下を指し示す。欄が分からないからサインをしなかったわけではないのだが、葦原はこの場の状況がだんだんと面倒になってきた。店員にこの少女の異常性を説明するわけにもいかない。かえって自分が変な人間と思われるのがオチだろう。そうなると、商店街で変な噂が流れてしまうかもしれない。バイトも首になる虞があった。
 葦原はペンを持つと、渋々サインをした。
 その隣で、少女は店員に預かり証を差し出す。
「私のもお願いします」
「はい、既にご用意してあります」
 店員は袋に入った箱を少女に手渡した。今まで気付かなかったが、少女は足下に買い物袋を大量に抱え込んでいる。どれだけ金があるんだと、葦原は驚愕した。
「ありがとうございました」
 店員の挨拶を背に受けながら、葦原は店を出た。ショッピングモールの買い物袋で両手が塞がっている。なぜ代わりに自分が担がなければならないのか、少年にはいまいちピンと来ない。
 一方、少女は携帯の袋をふたつのみ。スーツ姿で颯爽と前を行く。
「ちょっと待ってよ」
 葦原が声を掛けると、少女は無表情に振り向いた。
「重たいですか? いくつか持ちますよ」
「いや、そういうことじゃなくて……お金がなかったんじゃないの?」
「さっきカードを見せましたよね?」
 葦原は会話のすれ違いに戸惑う。
「そのカードはどこから出て来たの? 単純に忘れてたってこと?」
「ああ、そのことですか……」
 少女はスーツの前をはだけて、右の裏地を指差した。葦原が覗き込むと、布を破った痕が見える。少年はすぐさま事情を察した。
「そ、そこに隠してあったの?」
「隠したのかどうかは覚えていませんが……ここにありました」
「……暗証番号は?」
「それをメモした紙切れも一緒に……」
 どういうことだろう。葦原はますます訝る。まるで今回の事態を予期していたかのようではないか。自分が記憶喪失になったときのことなど、普通は考えないにもかかわらず。
 破り目をぼんやりと見つめていたとき、葦原の脳裏にある重大事が思い浮かんだ。
「そうだッ! カードがあるってことは名前も……」
「はい、分かりました。カラスマ・ルナが私の名前のようです」
「からすまるな? ……変わった名前だね」
 一瞬、葦原はそれが外国人の名前ではないかと思った。しかし、カラスマ=烏丸ということに気付き、その考えを改める。色白さなどからして、混血の可能性はあるが、ルナも日本人名としておかしくはない。おそらく、国籍は日本なのだろう。少年はそう推測した。
「それじゃ、えっと……烏丸さんはこれからどうする気なの?」
「買い物は終わったので、アパートに戻ります」
「アパートに戻る……?」
 これまた意味の分からない発言だ。葦原は適当に当たりを付けてみる。
「住所もメモしてあったとか?」
「いえ、残念ながらそれは……」
「じゃあどこのアパートに帰るの?」
 少女は疑問を打ち返す。
「どこと言われても……あなたのアパートしかないと思うのですが……」
「へ?」
 思わず袋を取り落としてしまった葦原。ばさりと中身が飛び出る。
「大丈夫ですか? 落ちましたよ?」
 親切そうな女性がやって来て、ふたりにそう声を掛けた。
 葦原は慌てて商品を拾う。
「だ、大丈夫です……」
 その場を誤摩化した葦原は、袋の紐を指に絡め、ルナに向き直る。
「あのさ、うちはカプセルホテルじゃないんだよ。しかも一人で契約してるんだから、同居は多分禁止だと思うし……。っていうか、いろいろ無理。着替えとかいろいろ……」
「安心してください。出掛ける前に調べてみたところ、隣が空き部屋になっていますね。大家さんと交渉して、そこに住まわせてもらいます」
「と、隣にッ!?」
 入居には連帯保証人が必要なので、普通ならば不可能な話だった。記憶がない、住所も分からないでは、不動産屋も受付けてくれないだろう。しかし、あのアパートは別だった。両親のいない葦原が格安で住めているのも、そこの大家が人並みはずれて無頓着だからだ。家賃を2、3ヶ月くらい滞納しても催促に来ないらしい。それでよく経営できるものだと、少年は普段から不思議に思っているほどだった。
「そ、そこに住むつもりなの?」
「ええ、記憶が戻るまでは」
 少女はあっさりそう答えると、少年に背を向け、冬空の下を軽快に歩き始めた。
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