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冬過ぎて、春来るらし 作者:稲葉孝太郎

第5章 青少年記憶攻防事件

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第37話 貫禄

 水の流れる音がしていた。色づいたもみじの葉がひらりと舞い、庭園を横切る小川のせせらぎに乗っては消えていく。
 縁側の廊下に立ったルナは、周囲を伺うようにその鋭い視線を走らせていた。ここはどこだろうか。少年の記憶に飛び込んだはいいものの、辿り着いた場所と時系列の見当がつかないのだ。京都か奈良の古跡かとも思ったが、どこか風景がおかしい。塀の向こう側には、近代的な建物はおろか電信柱ひとつありはしなかった。車の走行音もなく、空気も異様に澄んでいる。
 ルナは庭園に誰もいないことを確認し、少年の行き先を追った。相手は今頃混乱しているはずだ。そう考えたルナは、特に警戒することもなく、堂々と縁側を渡って行く。美しい庭の風景にも、もはや関心はなくなっていた。
 少年の記憶を消す。その任務のため、少女は標的を捜す。
「……」
 誰もいないのだろうか。屋敷は静まり返っていた。ガラス戸ひとつなく、どこもかしこも簾や木戸で戸締まりがしてある。その分、人影の有無は確認し易かった。ひとつ、またひとつと部屋を移動する。5つ目の部屋に差し掛かったところで、中から凛とした琴の音が響いた。それは弦一本分だけ鳴った後、再びその震動を止めた。
 少女は怯まなかった。簾の奥を覗き込むと、色艶やかな着物の裾が見えた。そしてその色を覆うように、長々とした黒い髪が流れていた。ルナは首を傾げる。あの少年ではない。まさかこの短時間で女装したというわけでもあるまいと、ルナは人物の同一性を否定した。
 誰だろうか。少年の記憶に現れたということは、大事な人に違いない。肉親か、あるいは恋人か、それとも何か因縁めいた女性か……。ルナは簾に手をかけようと指を伸ばす。
「覗きが趣味とは、少々いただけませんね」
 ルナは簾から手を放し、縁側から飛び降りた。見ればあの少年が、怒気を漂わせた表情で隣の部屋から姿を現していた。いつの間に。さっき確認したとき、隣の部屋は無人だったはずだ。それとも、屏風の後ろにでも隠れていたのだろうか。しかも少年は、烏帽子(えぼうし)に白少装束という、ひどく奇妙な出で立ちをしていた。さきほどまで来ていた簡素な私服は、あとかたもなく消えてしまっている。
 半ば奇襲めいた登場の仕方だが、ルナはあくまでも冷静だった。左手を背中に回し、相手に見えない位置で指を折り曲げる。時間を稼がなければ。それだけが課題だった。
「ここはどこですか?」
 ルナはとぼけたようにそう質問した。もちろん、気にならないわけではない。日本のどこなのか、ルナには依然として見当がついていなかったからだ。ただ一方で、それが任務の遂行にとって必要不可欠なものだとは思っていなかった。重要なのは、うろな町における出来事の記憶を手繰ることであり、少年の秘密を探ることではないのだから。
「遠い遠い過去です」
 少年もはぐらかすようにそう答えた。真相を教える気がないのだろう。
 ルナは質問を変える。
「あの簾の奥にいる女性は誰ですか?」
 ルナの問いに、少年はほんのわずかに、本当にほんのわずかに悲しげな目をした。やはり想い人の類いだろうか。ルナはそう推測しつつ、すぐに考えるのを止めた。それもまたどうでもよいことなのだ。少年に覗きを嗜められたが、ルナにそのような趣味はなかった。
 ルナは時間稼ぎのため、また別の質問をつぶけようとした。
 ところがその前に、少年が唇を動かす。
「あなたの能力は、他人の記憶に潜り込む類いのものですね。……催眠術などで記憶を改竄する者とは一戦まみえたこともありますが、このような潜入型は初めてです」
 少年の独白に、ルナはまた一歩退いた。慎重に質問を重ねる。
「あなたにも何か能力があるのですか……?」
 少年は返事をしなかったが、回答は自明だった。一般人ならば、このような状態で相手の能力を分析できるはずがない。ルナが能力者であるように、少年もまた能力者なのだ。依頼書になかった事実に、ルナは警戒心を強めた。
 自分と同じ記憶改竄を生業とする者だろうか。以前、同じような少年少女に出会ったことがある。そのときは迂闊にも敗北してしまったが……。
 ルナは左手にますます力を込めた。ゆっくりと硬いものが手のひらに浮かび上がる。目の前の少年がこの能力を知っているかどうか、そこが問題だった。
「もう一度質問します。あなたにも何か……」
「そのような質問にはお答えできません。……個人情報ですので」
 そう言いながら少年は、右手に持った扇子をひらりと開く。
「能力が分かった以上、あなたには退散してもらわねば……ッ!?」
 少年の顔がこわばる。無理もない。拳銃を突きつけられたからだ。
「なるほど……他人の記憶に潜入するだけが能ではない、と……」
 今度は少年が後ろに下がる。形勢逆転だ。ルナは距離を縮めるため、一歩前に出た。
 夢現化(ドリマライズ)……。それが彼女のもうひとつの能力だった。他人の脳波と完全同調することで、自由に物を作り出すことができる。同業者の中でも、この能力を持つ者は非常に限られていた。だからこそ、彼女は今の組織において破格の対偶を受けているのだ。
 ルナはうっすらと笑みをこぼし、そして少年に命じる。
「まずは場所を移動しましょう。あなたに封印してもらう記憶は、ここにはありません」
「記憶を封印……やはり予想通りですか……」
「でしたら、どの記憶域へ移動すればよいか分かっているはずです。まずは……」
 その瞬間、少年の手のひらから扇子が弓のように放たれた。それは少女の頬を掠め、地面に突き刺さる。
 ルナは反射的に引き金を引いた。
「うッ!?」
 少年は肩を押さえ、その場にうずくまる。
 ルナは扇子の触れた肌に指を添えた。攻撃された瞬間は感じていなかった痛みが、だんだんと広がっていく。鋭利な刃物で切ったときにありがちな現象だった。
 ルナは銃口を向けたまま、少年へと歩み寄る。
「被弾で夢潜(ダイブ)状態が解除されるかと思いましたが、なかなかの精神力の持ち主ですね。その方が私も助かります。無駄な反抗は止めて、該当する階層へ案内してください」
 ……反応がない。ルナは少年の様子を訝る。
 まるで死んでいるかのようだ。呼吸をしている気配すらない。そんなバカな。ここはあくまでも記憶の中なのだ。撃たれたくらいで死ぬはずがない。
 ルナは接近を中断し、少年をよくよく観察してみた。そしてあることに気付く。
「人形……ッ!?」
 ルナの喉元に、背後から匕首が添えられた。回り込まれたのだ。
 ルナは刃物に注意しながら、慎重に声帯を震わせる。
「変わり身……あなたも夢現化(ドリマライズ)を……?」
 ルナは目の前で起こった出来事を冷静に分析していた。
 少年も酷く冷たい調子で答えを返す。
「どりまらいずというものが何かは存じませんが、ここは私の記憶の中です。幻覚を見せるなど容易いこと…….。そもそも背中に利き腕を隠して、怪しまれないと思ったのですか?」
「利き腕を確認していたのですね……なかなか観察力があります……」
「握手した仲なのですから当然です……。さて、おしゃべりはここまでにしましょう。あなたの所属している組織を教えてもらいましょうか?」
「……それは言えません」
 少女は口を割らない。エージェントとしての義務感もあったが、それよりも少女はこの勝負をまだ諦めてはいなかった。夢の中では、致命傷を負ってもどうということはないのだ。最悪、記憶障碍が出る程度で、死に至ることはない。
 沈黙するルナに、少年は再度言葉を投げ掛けた。
「教えてもらえませんか……。では、ここで死んでもらいましょう」
 なるほど、殺せると思っているのか。ルナは相手の誤解を即座に把握した。
 ならばこの誤解を利用しよう。そう考えたルナは、再度左手に力を込める。
「もう一度だけ訊きます。あなたの所属している組織を……」
「私が左手に何を持っているか、分かりますか?」
 ルナの質問返しに、少年は視線を上げた。匕首が弛みはしない。相手の気が逸れることを期待していたが、そこまで軽率ではないようだ。ルナは別のチャンスを伺うことにする。
 一方、少年はルナの左手に握られたものを、静かに描写した。
「携帯電話か何かに見えますが……」
「惜しい……。携帯用の爆弾です。ボタンひとつでふたりとも死にます」
 ルナの脅しにもかかわらず、少年は動揺した気配を見せなかった。
 相手も相手でかなりの手練のようだ。ルナの中で、だんだんと疑念が膨らみ始める。
 ……この少年、本当にターゲットだろうか? 報告書によれば、少年は鬼道グループの男に襲われた後、走って逃げたそうだ。特に抵抗もしなかったらしい。それに対して、目の前の少年はあまりにも手強く、あまりにも冷静過ぎた。もしターゲットが彼ならば、始めから男に襲われたりはしなかったはずである。
 人違いをしたのではないだろうか。そこに考えが至ったところで、ルナは脱出の方向に舵を取った。
「私たちはある任務でこの町にやって来ました。あなたと敵対するためではありません。ただ少しターゲットを間違ってしまっただけです。その点についてはお詫びしますので、このまま和解にしてもらえませんか?」
 虫が良過ぎる提案。しかし少女はそのことに気付かなかった。彼女は他人の感情というものに、少しばかり無頓着であった。
 少年も訝しげに質問を返す。
「和解とは?」
「単純です。私はあなたの記憶から出て行きます。あなたは今回の件を、無かったものとしてくれればいいのです。……もしお求めなら、多少の慰謝料はお支払いします」
「ふむ……なかなか理知的な提案ですね……」
 少年はそう呟くと、軽く溜め息を漏らした。
 ルナは相手が合理主義者であることに感謝しかけた。その矢先……。
「残念ですがお断りさせていただきます」
 少年は突如そう言い放つと、匕首をルナの肌にあてがう。
 ルナは少年が手をスライドさせる前に、すぐさま口を開いた。
「ここで心中するつもりですか……? 私は本気ですよ……?」
「ええ、ボタンを押す決意は伝わってきます……しかし死ぬ覚悟が伝わってこない……。となると、考えられる可能性はふたつ……。ひとつはそれが爆発物ではないということ……。もうひとつは、爆発しても夢の中では死なないということです」
 そこまで他人の気配を読み取れるというのか。少女は相手の実力を読み誤っていたことに気が付いた。だがルナは親指を爆弾のボタンに掛ける。ここで首を切られるのも、自爆して吹き飛ばされるのもほとんど同じことだ。ただひとつ問題があるとすれば、自分だけ一方的に夢から追い出された場合、記憶障碍に陥る可能性が高いということだった。記憶の所有者を同時にログアウトさせ、同調の解除をしなければならないからだ。
 もはや自分の取る行動はひとつしかない。ルナは自分自身にそう命令を下した。
「同調を解除しますッ!」
 ルナはボタンを押す。目の前に閃光が走った。
 少女の意識は一瞬にして吹き飛び、闇の中へと消えた。

  ○
   。
    .

 琴の音が聞こえてくる。
 小川の静かな水の流れと調和するように、音楽は空気を震わせては止んでいた。
 吉備津は裏手の門に寄りかかり、その音色にじっと耳を傾けている。
 先ほど聞こえた爆音も雲散霧消し、嗅覚が火薬の匂いを捉えるばかりだった。
「二度あることは三度ある……。影の後に出て来るのが本人だと、誰が分かりましょう。亀の甲より年の功とはよく言いますが、今回は私の貫禄勝ちのようですね」
 吉備津はそう呟くと、再び琴の調べに聞き耽った。それは他人に聞かせたくない、少年の大事な思い出であった。
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