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うろな町の不思議な人々 作者:稲葉孝太郎

第0章 30年目の恋

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第2話 日を跨いで

 雨上がりの夕焼け。詩情に満ちた赤い空を背景に、入出を繰り返す電車の影。ホームへ下りた人々は、一瞬垣間見える西日の美しさに見蕩れながら、有人改札口へと列をなす。
 ある者は職場から、ある者は学校から、自宅へと歩を進める老若男女たち。
 その人混みの中に、背の高いスーツ姿の女がいた。女は何かを急ぐように、人々の肩の合間を縫っていく。追い抜かれた人々が、一様に女の背中に目を留めた。だが、すぐに興味は失われ、ある者は今晩の夕食に、ある者は湯気の立つ熱い風呂に思いを果たす。
 時折感じる視線を無視しながら、女はますます歩を速めた。
 そしてついに、改札口のそばまで来た。女は、自働改札機に流れ込む列から離れ、窓口に足を向けた。
 窓口には、名札に大辻(おおつじ)と書かれた、若い男が立っていた。窓枠から身を乗り出したその駅員に、女は早足で近付く。
 ところが、その女の前に、一人の中年女性が割り込んで来た。女は一瞬口元を歪めたが、すぐにその端正な顔を取り戻し、先客に順番を譲った。中年女性は、大辻に一枚のカードを見せると、何やらぶつぶつと苦情を言い始める。
 その女性を宥めるように、大辻は言葉を継いでいく。
「はい、お客様のMelon(メロン)カードは、残金が切れておりますので、お手数ですがそちらの精算機でチャージしてください。はい、チャージの仕方ですか? 少々お待ちを。芹沢(せりざわ)さん、お客様に、チャージのご説明をお願いします」
「はいよ」
 若い大辻の声に合わせて、奥から小太りの男が出て来た。歳は30くらいだろうか。緑のフレームから愛想の良さそうな瞳を向け、その男は事務所のドアを開ける。それから中年女性を連れ、芹沢は精算機の方へと姿を消した。
 先客を処理した大辻は、順番待ちをしていた女の方へ向き直る。そしてにっこりと丁寧な笑顔を見せ、女に頭を下げた。
「何か御用でしょうか?」
「定期券を買いたいのですが……」
 女の質問に、大辻は残念そうな顔を浮かべる。
「定期券は、改札の外に専用の窓口がございます。そちらへどうぞ」
 大辻はそう言って、券売機の横に見える窓口の女性を指した。
 女は礼を言ってその場を立ち去ると、改札を出て、一直線に定期券窓口へと歩み寄る。
 窓口の受付をしている女の胸元には、行谷(なめがや)の2文字。フリガナが振ってなければ、普通の客では読み取れない名字だ。
 女は、行谷(なめがや)に声を掛ける。
「すみません、定期券を買いたいのですが……」
「どちらからどちらまでですか?」
 行谷(なめがや)は、そばのパソコンを一打ちし、事務的な口調でそう尋ねた。
 女は、うろな駅ともうひとつ、かなり離れた駅の名前を告げた。
 慣れた手付きでキーボードを打ち、行谷(なめがや)は画面を一瞥する。
「ご利用は明日からでよろしいですね?」
「いえ、今日からでお願いします」
 女の返答が、行谷(なめがや)にひとつの情報を教えてくれた。
 この女、うろな町の住人ではない。今日中に、この町を去るつもりだ。
 行谷(なめがや)はキーボードに日付を入力し、次の枠を埋めに掛かる。
「期間はどう致しましょうか?」
 女は、なぜかそこで返答に詰まった。
 行谷(なめがや)は、なるべく表情を変えないように女の答えを待つ。
「1ヶ月でお願いします」
「畏まりました。領収書はご入用でしょうか?」
「いいえ」
 女の即答に、再び疑問を抱く行谷(なめがや)
 一ヶ月でしかも領収書の要らない定期券の発行は、滅多にない注文だ。
 だが、そんな客のプライバシーには立ち入らず、行谷(なめがや)はてきぱきと処理を進めた。発券機からカードが飛び出し、それを窓口のテーブルに置く。
「内容をご確認ください」
 女はちらりと額面を見ただけで、すぐに財布を取り出した。
 後で食い違いのクレームをつけるなよと願いつつ、行谷(なめがや)(さつ)を受け取り、お釣りを返す。
「ありがとうございました」
 女は、ここまで乗って来た片道切符を差し出すと、すぐに窓口を離れた。
 人混みに消えていく女の背中を、行谷(なめがや)はじっと見送った。
 その行谷(なめがや)の視線に重なるように、大辻もまた女の行方を追っていた。
 説明を終えて改札口へ戻って来た芹沢が、後輩に声を掛ける。
「どうしたんだい? 一目惚れかい?」
「いいえ」
 上司のからかいに、大辻はあっさりとそう答えた。
 嘘ではない。大辻は、別のあの女性の容姿に興味があるわけではなかった。
「じゃあ何なんだい? 定期券を買う客なんて、この駅じゃ月に五万といるだろう?」
 五万もいませんよと突っ込みを入れつつ、大辻は芹沢の方を振り向いた。
 芹沢の眼鏡の奥から、好奇心に満ちた眼差しが覗いている。
「大したことじゃないんですけど……あの女性、最近よく見かけるんですよ」
「よく見かける……? おいおい、客の行動をチェックしてるってことは、やっぱり……」
「違いますって。ただ、少し変なんです。この時間帯の電車で下りて、改札を抜けたかと思うと、20分くらいでまた戻って来るんです。手にコンビニの袋をぶら下げて。あれじゃ、わざわざコンビニへ寄るために、ここで下車してるようなもんですよ」
「ふむ……」
 大辻の説明を聞いて、芹沢は興味深そうに息を吐いた。
 コンビニに寄るために、定期券を買った女。
 もし本当にそうだとすれば、これはなかなかの事件である。少なくとも駅員にとっては。
 芹沢は、眼鏡のフレームに指を掛けながら、大辻にニヤリと笑いかける。
「どうだい、こいつをひとつ、コンビニ女事件とでも名付けて……」
 そのとき、改札口に初老の男が尋ねて来た。
 2人は慌てて会話を止め、老人の対応に取りかかる。
 そして、女の面影は、彼らの頭からすっかり消え去ってしまった。

 ◇
  ◇
   ◇

 駅を出た女は、まっすぐに大通りを歩いていた。
 うろな町で仕事を終えた人々の群れに逆行しながら、女は脇目も振らず靴音を鳴らす。
 そして、あるコンビニが見えたところで、女は足を止めた。
 物陰に隠れるように身を潜め、鞄から手鏡を取り出す。
 女は前髪の具合を整えると、化粧崩れがないことを確認し、手鏡を元に戻した。
 意を決したように物陰から身を乗り出し、コンビニの入口へと向かう。
 女の気持ちを察したかのように、自働ドアがスッと道を開いた。
 力強く一歩を踏み出し、入口のマットに靴底を乗せる。
「いらっしゃいませー」
 男の店員が、店の奥で品入れをしながら挨拶した。
 高校生くらいの少年だった。彼の名前が霧島(きりしま)であることを、女は正確に覚えていた。
 女は、霧島の後ろを通り抜け、飲み物の棚からミルクティーを取り出すと、すぐにレジへと向かった。雑誌棚にも他の商品にも目もくれない。
 いや、女にとっては、手にしているミルクティー自体がどうでもよいのだった。
 なぜなら、彼女の目当ては、レジにあるのだから。
 日本語をより正しく使うなら、レジにいるのだから。
「いらっしゃいませー」
 店員服の襟から華奢な首を覗かせた少年、葦原(あしはら)の眩い笑顔が、白昼の砂浜のように、女の視界を眩ませる。
 名画に囚われた観客。そんな表情で、女はぼんやりと少年の顔を見つめた。
遠坂(とおさか)さん、今日は何かご注文ですか?」
 葦原が、無邪気な笑顔を崩すことなくそう尋ねた。
 女が、いや遠坂がペットボトルをレジに置かなかったのが原因だった。
 ハッと我に返った遠坂は、頬を赤らめ、ミルクティーをレジの上に置いた。
 少年はバーコードを読み取り、レジのボタンを一打ちする。
「126円になります」
 遠坂は、財布をなるべくゆっくり取り出すと、千円札を一枚取り出した。
 小銭入れに百円玉が3枚、十円玉が7枚、五円玉が1枚と一円玉が3枚入っていることは内緒である。
 葦原は遠坂の手から千円札を取り出すと、874円を苦労して揃え、遠坂に手渡す。
 遠坂の手のひらに、葦原の指先が軽く触れた。一日の中で最も幸せな瞬間が、遠坂の胸に少女のようなときめきを芽生えさせる。
「毎日のご来店ありがとうございます」
 遠坂はそこで僅かに唇を動かしたが、背中に人の気配を察し、後ろを振り返った。
 そこには、ジュースを持った女子学生、夕刊を握り締めたサラリーマン、そしておそらくコンビニの肉マンか何かを注文するのであろう、手ぶらの女が並んでいた。3人とも、早くしろという顔をしている。
 人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死ぬがいい。
 そんな呪いを胸に、遠坂は名残惜しそうにレジを離れた。
「ありがとうございましたー」
 最後に声を掛けたのは、葦原ではなく霧島の方だった。
 今日は邪魔な客が多かったなと、恋に盲目な乙女は危険な考えを抱く。
 コンビニを出た遠坂は、最後にレジの葦原を一瞥した後、駅に向かって歩き始めた。
 途中、郵便局の前を通り過ぎようとしたところで、ふいに背後から声を掛けられる。
「そこの女、青少年保護条例違反で逮捕する」
 突然の刑事手続に、遠坂はびくりと両肩をすくめた。
 だが、すぐその声の主に気が付き、怒ったように後ろを振り返る。
 案の定、そこには池守(いけがみ)のニヤけた顔があった。
「ちょっと、人聞きの悪いこと言わないで」
 遠坂が、ビニール袋を持った方の手で、池守(いけがみ)の胸を小突く。
「す、すまんすまん。ちょっとそこで見かけたもんでな。この町で何やってるんだ?」
 一番訊かれたくないことを訊かれ、遠坂は返答に窮した。
 それを見た池守(いけがみ)は、したり顔で顎に手を当てる。
 夕方までに伸びた無精髭が、夕焼けの赤に光っていた。
「ははーん、さては……そこのコンビニの葦原くんにご執心かな……?」
 なぜそれを! 遠坂は、気絶しそうになる。
「な、な、な、何言って……」
「おっと、当てずっぽだったが、どうやら図星のようだな」
 池守(いけがみ)の誘導尋問に引っかかり、遠坂の怒りのゲージが上がった。
 けれども、今さら否定しても仕方がない。
 それに、遠坂が年下好きであることは、池守(いけがみ)にはバレているのである。
 一度べろんべろんに酔ってしまったとき、口が滑ってしまったのだ。
 げに、酒の力は恐るべしである。
 池守(いけがみ)はそれ以来、彼女をショタコン扱いしてはからかっていた。
 だが今の遠坂には、そんな旧友のジョークよりも大切な話題があった。
「ど、どうして葦原くんのこと知ってるの?」
「ん? ……ああ、だってあの少年の事件は、俺が担当したからな」
「事件……?」
 遠坂の顔が青ざめた。まさか、彼が……。
「そ、それは何かの間違いよ。か、仮にそうだとしても、愛は全てを克服するわ」
 思わず意味不明なことを口走ってしまった遠坂。
 池守(いけがみ)の表情が変わる。
「……おまえ、マジであいつに惚れてるのか?」
 自ら墓穴を掘ってしまったことに、遠坂の顔が沸騰した。
 一方、池守(いけがみ)は、何だか気まずそうな顔をしている。
「ま、まあ……恋ってそういうもんだからな……俺も現在進行形で体験中だし……っと、その話は置いといてだな、別に葦原が犯罪を犯したわけじゃないから、安心しろ。だいたい、俺の専門は交通事件なんだからな」
 池守(いけがみ)の弁明に、遠坂はホッと胸を撫で下ろした。
 すると、今度は別の好奇心がむくむくと湧いて来る。
 交通課の池守(いけがみ)と葦原との間に、どのような接点があるのだろうか。
 もしかすると、距離を縮めるチャンスかもしれない。この1週間でできたことと言えば、毎日通って顔を覚えてもらうことと、各種料金の支払いを葦原に頼み、そこで自分の名前を刷り込ませることの2点だけ。
 このままでは、結婚というゴールまで永遠に辿り着けないではないか。
 そう、遠坂は遥か彼方を見据えているのだった。
 遠坂は、期待に満ちた声で、池守(いけがみ)に話し掛ける。
「ね、ねえ、あなたと葦原くんは、どういう関係なの? 事件って何?」
 遠坂の興味に、池守(いけがみ)は顔を曇らせた。
 その瞬間、遠坂は訊いてはいけないことを訊いてしまったと悟った。
「あいつな……両親がいねえんだよ……事故で死んだんだ……」
「え?」
 絶句する遠坂。
 あの天使のような笑顔の裏にある悲劇を、どうやって予期できただろうか。
 いや、無垢な微笑みの背後には、穏やかな悲しみが常にあることを、遠坂はぼんやりと思い出す。
「あれは1年前の夏でな……この町の郊外で、乗用車のブレーキが故障、電柱に激突したんだ。乗っていた2人は即死……それがあいつの両親だった……。俺は今でも覚えてるよ、身元確認のときに見せた、あいつの泣き顔をな……因果な商売だぜ、まったく……」
 池守(いけがみ)はそう言い捨てて、そっと目を閉じた。
 それはまるで、その日の出来事を視界から消し去ってしまいたい、そんな思いの現れのようでもある。
 だが、過去が消えることはない。
 自分にそう言い聞かせるように、池守(いけがみ)は瞼を上げる。
「それでな、当時中学生だったあいつは、高校進学もできなくなって、卒業後、ああやってあちこちでバイトしてるのさ……。今はそれでいいかもしれないが……将来のことを考えると、いたたまれなくなってな……ときどき様子を見に行ってるんだ」
「……」
 遠坂は、黙って池守(いけがみ)に背を向けると、ふらふらと歩き始めた。
 驚いた池守(いけがみ)は彼女に声を掛けたが、遠坂は2度と振り返らない。
 呆然と立ち尽くす池守(いけがみ)の前で、彼女は夕空に溶けて消えた。

 ◇
  ◇
   ◇

 あれからどうやってマンションに帰ったのか、遠坂は覚えていなかった。
 気が付けば、寝室の机に伏し、灯りもつけずに泣いていた。
 顔を上げ、目元を拭いながら、机の置き時計を見やる。
 0時を過ぎていた。線の細い秒針ではなく、大粒の涙が、不規則に時を刻んでいる。
 一日が終わった。だが悲しみは終わらず、そして愛もまた、終わることを知らなかった。
今回は、おじぃ様の作品『うろな駅係員の先の見えない日常』から、大辻、芹沢および行谷さんの3名にご登場いただきました。また、前話に引き続き、紅狐様の『うろな町のコンビニの彼』から、霧島さんにもご登場いただきました。

後書きにて、あらためて御礼申し上げます。
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